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Channel: 鳥肌音楽 Chicken Skin Music
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ALL JAPAN POP 20 1974年4月第1週

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朝妻一郎さんのパイレーツロックの再放送忘れず聞けました。内容的には音楽出版の仕事を始める前の前史というか個人的な音楽史というもので、残念ながら音楽出版を始めてからのエピソードは無し、まぁ朝妻さんの登場は一回ということはないでしょうから、そのへんの事は次回以降のお楽しみということでしょう。

鳥肌音楽 Chicken Skin Music

朝妻さんのお話の中で50年代新しい洋楽ポップスを知る手段としてラジオと並びジューク・ボックスが重要だったというのがありました。今はゲーム・メーカーとなっているセガもその昔はジューク・ボックスなんかを卸している会社で音楽メーカーと違った独自のルートでレコードを仕入れてジューク・ボックスに入れていたといいます。アメリカに於いてはジューク・ボックスもラジオのオンエアとともにポイントとして換算されランキングが決定されていたといいます。今は無くなりましたがビルボードと並ぶ業界誌として有名だったキャッシュ・ボックスの名前の由来はコインを入れて楽しむゲーム機(ジューク・ボックスも含まれる)の通称、まさに”現金の入った箱”から来ているのだとか。

$鳥肌音楽 Chicken Skin Music

朝妻さんは毎週のように西武池袋のロビーや銀座十字屋1Fにあったジューク・ボックスに赴き新曲を聴いていたといいます。僕が中学生になった70年代初めの田舎の街ではジューク・ボックスはボーリング場の片隅にぽつんとあるくらいのもので百貨店(駅か?)のロビーという公衆の真ん中にあったりというのは想像つかないのですが、実は身近なところで同級生で家が旅館というやつがいて、そこの遊技場にジューク・ボックスが置かれていました。昼の時間帯は宿泊客がいないので遊技場にあるビリヤードなんかで遊んでいた(なんと四ツ玉を教えられていた)のですが、景気づけにジューク・ボックスを鳴らしてなんてこともありました。今思うとまるでアメリアン・グラフィティかディア・ハンターの世界だなぁ・・・って思い切っり勘違い。何をかけていたかはほとんど覚えていないのですが、一曲だけはっきり覚えている曲があって、それはミッシェル・ポルナレフの「シェリーにくちづけ」、当時とにかくポルナレフは人気がありました。

ということで今週の1位はそのミッシェル・ポルナレフです。ジョンの「マインド・ゲームス」に3週間頭を押さえられていたのですが遂に1位を獲得。確かにオールディズ風味の曲ではあるけど、ロックン・ロールかと言われれば「?」なのですがちょい前に来日記念盤の「火の玉ロック」がヒットしていたことがあっての邦題かもしれませんね。バックがオールディズ風ではあっても英語とは違うリズムを持つフランス語が乗ることで不思議なニュアンスになっているのがポルナレフの歌が頭に残る一因じゃないかと思います。

2位以下ではリンゴ、ウィングス、ポール・サイモンといったあたりが急上昇しています。初登場は1曲、Tレックスの「ティーンエイジ・ドリーム」でした。



1位(2位) ミッシェル・ポルナレフ/僕はロックン・ローラー
2位(1位) ジョン・レノン/マインド・ゲームス
3位(3位) アート・ガーファンクル/ひとりぼっちのメリー
4位(4位) ラロ・シフリン/燃えよドラゴン
5位(5位) スリー・ディグリーズ/荒野のならず者
6位(10位) リンゴ・スター/ユア・シックスティーン
7位(8位) スージー・クワトロ/デイトナ・デモン
8位(7位) カーペンターズ/ジャンバラヤ
9位(16位) ポール・マッカートニー&ウィングス/ジェット
10位(13位) シェール/悲しき恋占い
11位(17位) ポール・サイモン/アメリカの歌
12位(11位) ラズベリーズ/君に首ったけ
13位(14位) ジョーディ/君にすべてを
14位(15位) トニー・デフランコとデフランコ・ファミリー/アブラ・カ・ダブラ
15位(6位) Tレックス/トラック・オン
16位(9位) ドーン/いちご畑のサリーちゃん
17位(12位) ポール・マッカートニー&ウィングス/愛しのヘレン
18位(20位) ジム・クロウチ/タイム・イン・ア・ボトル
19位(23位) ティーンエイジ・ドリーム/マーク・ボランとTレックス
20位(18位) ダニー・オズモンド/アー・ユー・ロンサム・トゥナイト?

Marc Bolan &TRex/ Teenage Dream
-鳥肌音楽 Chicken Skin Music

10代の夢に何がおこったんだい

まったくの驚きだ 子供たちが家に閉じこもる
守護天使が僕に電話をかけてきた
取締だぜミスター やつらの悲鳴が聞こえないかい
10代の夢ってやつはどうなっちまったんだ

夜になると外出禁止令がひかれ
寂しいおいぼれのアル中は 
恐怖を紛らすため 更に酒におぼれ
ヤクまみれのいかさま野郎は
自分のマシーンで過去にまっしぐら
10代の夢に何がおこっているんだ

黴臭い世界から現れた壊れた神様
その甘い口調で7月生まれの少女に触れる
奴の鉄格子はとても強固でピカピカだ
10代の夢に何がおこっているんだ

やってくれ やってくれ やってくれ僕のために
僕のために事をおこしてくれ
10代の夢に何がおこっているんだ

オズの魔法使いと青銅の盗人
ドイツ人の歯で僕のあの娘を支配した
だけど 彼女の唇が青ざめるとき 全ては失われた
10代の夢に何がおこっているんだ

銀色のサーファーとボロを着た子供
悲しみにくれ 錆び付いてしまった男の子達だ
奴らには歌うことすら許されない
法王よ信じろ 僕のつま先は綺麗なままだ
10代の夢に何がおこっているんだ

黒は黒で 白は白
天国へ行く奴 光をあびる奴
僕は紳士のように護りを固める 
奴の馬鹿げたたくらみのために
いったい 10代の夢に何がおこっているんだ


なぜかは分からないのですがこの曲ほとんど記憶から抜け落ちています。といいますかこれ以降のTレックスの曲はほとんど印象に残っていない。前作「トラック・オン」がいかにもTRexなサウンドだったのに、この曲はらしくない(個人的感想です)バラードということで聞いてはいたけど耳に入らなかったということなのかも知れません。今聴くと5分以上という長さや十代の少年をテーマにした歌詞がロック・オペラの中の一曲それもテーマ曲といった趣があるのですが、この曲からアーチスト表記をただのTレックスからマーク・ボランとTレックスに変えている事を考えると、心機一転という意味合いのシングルだったのでしょうか。

この時期あたりから日本でのTRexの人気は下降線をたどります。音楽性を少し変えたというのもあるのでしょうが、この曲や「トラック・オン」を収録したアルバム『Zinc Alloy and the Hidden Riders of Tomorrow』の邦題が『ズィンク・アロイと朝焼けの仮面ライダー』というひどい邦題だった事も大きな理由だったかもしれません。中学生だった僕でも、悪いのは日本のレコード会社のディレクターという考え当時はまったくなかったこともあり、「TRexカッコ悪っ」と思ったくらいですから(笑)。Tレックスには『電気の武者』なんていうサウンドやジャケにマッチした邦題もありました。しかしこの『仮面ライダー』以降は悪乗りというか、『Bolan's Zip Gun(1975年)』が『ブギーのアイドル』はまぁ許すとして、『Futuristic Dragon(1976年)』が『銀河系よりの使者』って”タイガースかい!”って思ったり、ラスト・アルバムとなった『Dandy In The Underworld(1977年)』も直訳ではあるのですが『地下世界のダンディ』っていうのもいまいちかなという気がします、ディレクターが変わったんですかね、ひょっとして石坂さん?。

Polnareff/Michel Polnareff


電気の武者+8/T.レックス


ズィンク・アロイと朝焼けの仮面ライダー(紙ジャケット仕様)/マーク・ボラン&T.レックス


銀河系よりの使者/T.レックス


地下世界のダンディ(紙ジャケット仕様)/T.レックス




ナイアガラ覚書 その2 ちびまる子 マスコミ用紙資料より

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今回は「うれしい予感/針切じいさんのロケン・ロール」発売時にマスコミ/レコード店用に配布された紙資料のテキスト化です。先日の新聞記事も資料の中にあったコピーからです。

■ ■ ■ ■ ■ ■ Oo Records Inc. 第1弾リリース ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

両A面 「うれしい予感」渡辺満里奈/「針切じいさんのロケン・ロール」植木等
大瀧詠一プロデュース 「ちびまる子ちゃん」 テーマソング
1995年2月22日発売 OODO5001 ¥800(税込)


$鳥肌音楽 Chicken Skin Music

お待ちどうさまでした。作品としては88年の『怪盗(ママ)ルビー』以来、久々に音楽の現場に帰ってまいりました。今回のレコーディングには、<活動再開記念>ということで数多くの人に協力頂きました。また、満里奈さんも植木さんも会社を超えての参加です。この類稀な強力コンビは、歴史的な珍カップリングとして日本歌謡史に残ることでしょう。  大瀧詠一

今回、私の描いている漫画「ちびまる子ちゃん」をTVアニメで再開するにあたり、大瀧詠一さんにオープニング・エンディングの両方をつくっていただける事は誠に夢のような話でありました。また更に、大瀧詠一さんの 曲に自分が詩を書かせていただくなどということは、このうえもなく幸運でありつつ恐縮な事でございます。
しかしながら、今回、オープニング・エンディング共に何か素晴らしい予感を最初からどういうわけか感じておりました。ボーカルの植木等さん、渡辺満里奈さんをはじめ、次々と予想外の素晴らしいアーティストの皆様が協力して下さった事なども、全く不思議な成りゆきだと思っています。
そのようにして出来上がった音楽をきいて私は何も言えずにただただ泣けてしまいました。今は、このふたつの素晴らしい音楽がこの世に誕生した喜びでいっぱいです。多くのみなさまの心に届きますように。
 さくらももこ

■ ■ ■ ■ ■ ■ 夢の実現 ㈱さくらプロダクション・プロデューサー 宮永正隆 ■ ■ ■ ■ ■ ■ 

「ちびまる子ちゃん」のエピソードのひとつに、テレビばかり見ているまる子に向かってお父さんが「いったい将来、なにになるつもりだ?」と質問すると、まる子がテレビを指しながら「クレイジーキャッツに入りたい!」と答える。「それは、無理だ。」とお父さんが言うと、まる子は、「じゃぁ、この歌を作った青島幸男さんみたいになりたいよ。」というのがある。

かたや70年代初頭から日本のロックの創始者の一人として活躍し、目標としたのは欧米のミュージシャンではなく、クレイジーキャッツの作、編曲者であった故・萩原哲晶さんだった、というコミック・ソング好きのレコード・プロデューサーがいる。

$鳥肌音楽 Chicken Skin Music

このふたり、さくらももこと大瀧詠一のダブル・オーレコード専属プロデューサーコンビが95年新春大ヒットアニメ「ちびまる子ちゃん」の復活とともに、今年最大の話題を作りだした。

84年に『EACH TIME』(SME)を出して以来、永い沈黙を続けていた大瀧詠一が久しぶりに音楽会へ復帰した。作詞は原作者でもあるさくらももこが手がける。オープニング・テーマを歌うのは、さくら&大瀧両プロデューサー推薦の、渡辺”ファニーボーカル”満里奈さん。そしてエンディング・テーマを歌うために特別に参加していただいたのは、両プロデューサーの憧れのあの植木等さんである。

今回ようやく、「まる子」のアニメ復活と、大瀧氏の本格的音楽界復帰の時期が重なり、はれて実現する運びとなったが、実はこの企画、4年前の前回シリーズオンエアー時より、さくらプロダクションから何度か作曲をお願いしていたが。かねてから、「おどるポンポコリン」のヒットを”平成のスーダラ節”と高く評価し、引受けるからには完璧を期すレコードプロデューサーとして知られる大瀧氏にとって、今回のCDに収められた数々のアイディアを実現するには時間が必要であった。



実に構想4年半、レコーディングに約3カ月、遂に実現したダブル・Aサイドのナイアガラ・スーパーセッションによる夢のカップリングは、プロデューサー大瀧詠一の夢の実現である。

さくらももこは”青島さんのようになって植木さんに詩を書く”という子供の頃からの夢、そして大瀧氏とのコンビネーションによる作品制作という夢の実現。

そして、この作品を発表するダブル・オーレコードも、その設立コンセプトであるプロフェショナル・プロデューシングという夢の実現を早くも具体化し、本格的始動第1弾として、この作品をお届けする。



■ ■ ■ ■ ■ ■ <Yoo-Loo>の故事来歴 大瀧詠一 ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

大瀧詠一のプライベート・レーベルの構想は73年に始まり,9月21日のに於ける伊藤銀次率いるココナッツ・バンクのステージが実質的なスタートでした。ここで演奏された「空飛ぶ・ウララカ・サイダー」は大瀧がに至る経緯をメドレーにしたものです。

73年暮、ココナッツ・バンクの解散。74年シュガー・ベイブと契約し、レコーディングを開始。そして75年4
月の『SONGS』(シュガー・ベイブ)を第一弾として<ナイアガラ・レーベル>がスタートしました。ところが、販売を引き受けたエレック・レコードが倒産してしまいます。

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75年12月、株式会社ザ・ナイアガラ・エンタープライズを旗揚げし、販売を日本コロムビアと契約します。76年の『ナイアガラ・トライアングルVOL.1』を皮切りに、78年『レッツ・オンド・アゲン』までの3年間に11枚のアルバムを発表し、契約発表後、また休止をします。

82年に発表したインスト・アルバム『ナイアガラ・ソング・ブック』をBGMにした、環境ビデオの草分け作品ともいえる同名のビデオ作品は、実は<KEG-ON>というレーベルから発表されたのです。これは、ナイアガラに続く、”滝シリーズ”の第二弾でもちろん<華厳の滝>からヒントを得たものでした。映像関係をこのレーベルで行おうという意図だったのですが、未だに後に続くものは出ていません。

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また、同様に<養老の滝>からヒントを得た<Yoo-Loo>も設立。大瀧以外のプロデューサーを起用する場合や、ナイアガラとは別企画の品を提供する場合のレーベルとして用意しておきました。

ところが、ナイアガラ本体が休止状態にあり、それらを使用する機会に恵まれませんでした。

94年、ダブル・オーレコードの設立に参加、ここでようやく<Yoo-Loo>の出番がやって来たのです。その第一弾が「ちびまる子のテーマ」である「うれしい予感/針切じいさんのロケン・ロール」です。渡辺満里奈/植木等という移植カップリングからもお分かりいただけることと思いますが、このレーベルでは、ナイアガラのみならず、時にはレコード会社をも超えた<企画中心>のものを提供していく予定です。

しかし、私の前歴から、最初でありながらこれが最後の、<Yoo-Loo作品>にならない保証はありません。が、10数年前に苦労して獲得していた<商標>を、ついにここへ着て使う事ができただけで、私は十分に満足なのであります。


■ ■ ■ ■ ■ ■ RECORDING MEMBER ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■



Track.1 「うれしい予感」
作詞:さくらももこ 作曲:大瀧詠一 編曲:CHELSEA

Drs:青山純 Bass:長岡道夫 E.Gt:鈴木茂 A.Gt:吉川忠英 笛吹利明 石川鷹彦 安田裕美
Key:国吉良一 中西康晴 福田裕彦 西脇辰也 L.Per:浜口茂外也 鳴島英治 川瀬正人 阿逹養之助 水野茂
Bell:重実徹 Apf:Paul Riverbeach Timp:金山功 Harm:知久寿焼 Vo:渡辺満里奈
Cho.佐々木久美 Candee 大滝詠一
Recording Engineer:吉田保 相茶紀緒



Track.2 「針切じいさんのロケン・ロール」
作詞・作曲:SHEB WOOLEY 訳詞:さくらももこ 編曲:RINKY O'HEN

Key&Programing:小野沢篤 Drs:イーハトヴ・田五三九 E.Gt 野村義男 Steel.Gt:駒沢裕城
Fl:ハービー国吉 雄叫び:バリ・ハイ野澤 Vo.植木等 
Cho:タラコ イルカ さくらももこ 渡辺満里奈 大滝詠一
Recording Engineer:吉田保 田辺章男 相茶紀緒

Track.1&2 Re-Mix Engineer:吉田保
         Mastering Engineer:笠井哲平
         Producer:大瀧詠一


■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■ ■

他から突っ込まれる前に

>私の前歴から、最初でありながらこれが最後の、<Yoo-Loo作品>にならない保証はありません。が、10数年前に苦労して獲得していた<商標>を、ついにここへ着て使う事ができただけで、私は十分に満足なのであります。

と書いている大瀧師匠ですが、いちおうこのシングルだけでなく ソロ・デビュー・アルバムのリイシュー『大瀧詠一 (アルバム)』(OOCO-1、1995年再発盤)と渡辺満里奈『Ring-a-Bell』(OOCO-15)がリリースされています。頑張りました(笑)。

大瀧詠一/大瀧詠一


Ring-a-Bell/渡辺満里奈
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1967年4月4日〜7日のスマイル

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1967年4月4日(火) スマイル・セッション 73
ウェスタン・レコーダーズ・スタジオ3st カリフォルニア州ハリウッド


「ヴェガ・テーブル(ヴェジタブル)」のヴォーカル・セッションが行われる。この時点ではまだタイトルがついておらず、「ジ・エレメンツ」組曲の中の”大地”となる予定だった。

1967年4月5日(水) スマイル・セッション 74
ウェスタン・レコーダーズ・スタジオ3st カリフォルニア州ハリウッド


引き続き「ヴェジタブル」のバック・トラックとビーチ・ボーイズによるヴォーカル・セッションが行われる。

1967年4月6日(木) スマイル・セッション 75
ウェスタン・レコーダーズ・スタジオ3st カリフォルニア州ハリウッド


「ヴェジタブル」のバック・トラック・セッションが行われる。

1967年4月7日(金) スマイル・セッション 76
コロムビア・スタジオAst カリフォルニア州ハリウッド


スタジオを変えて引き続き「ヴェジタブル」のヴォーカルとバック・トラックのセッションが行われる。ブライアン・ウィルソンはなかなかまとまらない「英雄と悪漢」はいったん放置して「ヴェジタブル」を一気に仕上げ次のシングルにしようとしていたようです。

SMiLE~The Mujan Remix: Part 17- Vega-Tables


「スマイル・セッション」がなにかとゴタゴタ続きで「バッド・ヴァイブレーション」を感じることの多いブライアンは、といってもそれは傍目では自らが招いたことなのですが、心機一転のためかローレル・ウェイの自宅を売却し、数キロ東のベル・エアー地区のベラージョ・ロード10452番地へと引っ越します。1937年に建てられたという14の部屋を持つ2階建てのスペイン風の邸宅で、ターザンの作者エドガー・ライス・バロウも住んでいたという由緒ある建物でした。

そのような由緒ある建物ですが、引越しそうそうブライアンは建物を鮮やかなパープルに塗り替えさせ、近隣の住人から顰蹙を買います(楳図かずおさんと一緒ですね)。委員会まで作られた住人の講義に折れたブライアンは紫のペンキの上から黄色のペンキを塗らせたといいます。あんまり懲りていないというか住人の抗議の意味を理解してないのでしょうね、きっと。

奇行はとどまらず、今度は裏庭でキリンを飼おうとしますが(宝くじあたった香取くんか)、申請は市によって却下されます。

$鳥肌音楽 Chicken Skin Music

とはいいながらブライアンが引越しをした一番の目的は思い立ったら昼であろうが夜であろうがレコーディングができるホーム・スタジオを持ちたいというところにありました。『スマイリー・スマイル』や『ワイルド・ハニー』といったアルバムはそのホーム・スタジオから生まれることとなります。


ということで、シングル曲も変え住まいも変えることを決め少し前向きになった気がするブライアンですが、4月10日にある人物がスタジオを表敬訪問することになります。スタジオでセロリを齧らされたこの人物『スマイル』の行方にも大きな影響を残すのですが・・・。続きは後日。

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1967年4月10日のスマイル

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1967年4月10日(月) スマイル・セッション 77
ウェスタン・レコーダーズ・スタジオ3st カリフォルニア州ハリウッド 8:00PM-2:00AM

$鳥肌音楽 Chicken Skin Music

「ヴェジタブル」の録音を続けるブライアン・ウィルソンのもとへお互いの才能を認め合う最大のライバルであるポール・マッカートニーが表敬訪問をします。ちょうど実際の野菜を使ったSEを録音しているところでポールもセロリを手渡されマイクの前でかじってパーカッション的な効果音を録音します。休憩時間には元元はビートルズの、そして現在はビーチボーイズの広報担当であるデレク・テーラーのリクエストでポールは持参していた「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」のアセテート盤をブライアンに聴かせます。



その後でポールはピアノに向い「シーズ・リーヴィング・ホーム」を弾き語ります。



ブライアンの横で一緒に聴いていたマリリン(ブライアンの妻)は感極まって涙を流してしまったといいます。

歌い終えたポールはブライアンに『スマイル』の曲をリクエストします。完成曲のないブライアンは「ワンダフル」の断片をポールに聞かせています。



断片ながら、素晴らしい完成型を予感したのかポールはブライアンに”早く『スマイル』を完成させた方がいいよ。僕たちのニュー・アルバムは6月に発売予定だから、2枚がレコード・ストアで鉢合わせしないようにね。”と進言します。

もちろんポールは66年の8月から録音が始まった『スマイル』が完全に迷走状態になっていることは知らなかったでしょうからブライアンを励ますつもりで言ったのでしょう。しかしブライアンにとっては、変な例えですが、残り2ケ月という余命を宣告されたようなものです。なにせ「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」というビートルズの最高傑作のひとつを聴かされたわけですから、それ以上のものを作るというのは天才ブライアンと言えどもプレッシャーはますます重くのしかかってくることになったのは想像にかたくありません。

深夜になるとポールはギターを手に取りブライアンとビーチ・ボーイズのメンバーにコーラスをつけてもらい即興で歌いだします。即興演奏されたのはウィーバーズの51年のヒット「オン・トップ・オブ・オールド・スモーキー」。いかにもポールが好きそうな曲だしコーラスも魅力の歌ということで、みんなで楽しそうに歌う姿が想像できます。

On Top of Old Smoky - The Weavers


その後、ポールとブライアン夫妻はママス&パパスのジョン&ミッシェル・フィリプス夫妻の家を訪ねそこでも明け方まで演奏をしながら楽しく過ごしたようです。


Smile Sessions/Beach Boys


Sgt Pepper’s Lonely Hearts Club Band/Beatles

シフォンズのマイ・スウィート・ロード

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The Chiffons - My Sweet Lord


「マイ・スウィート・ロード」について調べていたら出てきた、75年に発売されたシフォンズのシングル。もちろん75年といえば盗作問題でジョージ・ハリスンと出版社ブライト・チューンズは係争中。まったくの悪い冗談と思ってしまうのですが、こういうところがポピュラー音楽業界らしさとも言えるのではないでしょうか、純粋音楽もしくは芸術音楽を作っているわけじゃないという開き直りというか、売れる可能性があればなんでも試してみる。

とにかく「マイ・スウィート・ロード」問題は盗作云々の是非もあるでしょうが、それ以上に米国音楽業界の「裏」みたいなものがドロドロ渦巻いていたのだなぁと、今回初めて気づいた次第です。ビートルズ絡みということで例によってアラン・クラインが暗躍しています、しかし本当に下衆男ですクライン。

長くなりますので、今日はまくらということで・・・

Jody Miller - He's So Fine


71年7月31日カントリー・チャート5位、「マイ・スウィート・ロード」の盗作か(笑)

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光の天使キャラクターの「こえ」と「名前」が決定し、このたび正式デビュー!!

ALL JAPAN POP 20 1974年4月第3週&そよ風のバラッド

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「マイ・スウィート・ロード」に行く前にルーティンのALL JAPAN POPS 20を、1974年4月第2週のランキングです。TOP3は今週も入れ替えなし。リンゴとポールがじわじわ上がりTOP3入りを狙っています、ビートルズ勢やはり強いですね。初チャート・インは3曲といつもより多めになっています。



1位(1位) ミッシェル・ポルナレフ/僕はロックン・ローラー
2位(2位) ジョン・レノン/マインド・ゲームス
3位(3位) アート・ガーファンクル/ひとりぼっちのメリー
4位(4位) ラロ・シフリン/燃えよドラゴン
5位(6位) リンゴ・スター/ユア・シックスティーン
6位(9位) ポール・マッカートニー&ウィングス/ジェット
7位(5位) スリー・ディグリーズ/荒野のならず者
8位(11位) ポール・サイモン/アメリカの歌
9位(7位) スージー・クワトロ/デイトナ・デモン
10位(14位) トニー・デフランコとデフランコ・ファミリー/アブラ・カ・ダブラ
11位(10位) シェール/悲しき恋占い
12位(8位) カーペンターズ/ジャンバラヤ
13位(13位) ジョーディ/君にすべてを
14位(12位) ラズベリーズ/君に首ったけ
15位(19位) ティーンエイジ・ドリーム/マーク・ボランとTレックス
16位(18位) ジム・クロウチ/タイム・イン・ア・ボトル
17位(21位) イマジネーション/グラディス・ナイト&ピップス
18位(15位) Tレックス/トラック・オン
19位(23位) そよ風のバラッド/テリー・ジャックス
20位(24位) ジリオラ・チンクェッテイ/太陽のとびら

初ランキング曲です。

17位(21位) イマジネーション/グラディス・ナイト&ピップス
I'VE GOT TO USE MY IMAGINATION - GLADYS KNIGHT & THE PIPS


20位(24位) ジリオラ・チンクェッテイ/太陽のとびら
Gigliola Cinquetti - Alle porte del sole


上2曲はほとんど記憶に残っていませんでした。74年当時聴いてはいると思うのですが、その後ラジオでかかることもなかったりして記憶から消えていったのかとも思います。もともと女性ボーカルものってそんなに好きじゃなかったことも手伝っているかもしれません。

19位のこの曲は全米NO.1にもなったこともあり、その後のオールディズ番組でも良くかかったし、70年代コンピの常連曲でもあるのでよく憶えています。なにより一度聴いたら耳に残るちょっと変な感じの歌というのが大きいかもしれません。今回あらためて歌詞を見てみると「そよ風のバラッド」という邦題とはほど遠い内容の歌だということを40年近く経って始めて知りました。こんなことばかりです、いかに当時歌詞なんて気にしていなかったかということです。

19位(23位) そよ風のバラッド/テリー・ジャックス
Seasons In The Sun - Terry Jacks


さよなら信じていた友よ
九つか十くらいからの友達だ
丘をかけ木に登った
恋やABCもいっしょに憶えた
心を傷つけたり
膝を傷つけたりもした

さよなら友よ 死ぬのはつらい
鳥は空で鳴いているというのに
春らんまんなのに
素敵な娘がいっぱいなのに
ぼくを思っておくれ 僕はそこにいる

楽しんだし 愉快だった
太陽の下で季節が過ぎていった
ぼくたちのあの山は
季節外れだった

さよなら とうさん 祈っておくれ
家族のはみ出しものだったけど
ぼくを正しく導こうとしてくれた
たくさんのワインとたくさんの歌を
ぼくはどんなに楽しんできたことか
   
さよなら とうさん 死ぬのはつらい
鳥は空で鳴いているというのに
春らんまんなのに
可愛い子供たちでいっぱいなのに
ぼくを思ってくれたら 僕はそこにいる


読んでいただけばお分かりかと思いますが、死にゆく男が親友や父親(はしょってますが奥さんも)に対して語りかけるといった内容の歌です。最初、自殺かと思ったのですがどうやら山で遭難しているようです。しかし日本のメーカー(Bellだからソニー?)のディレクターは何を思って「そよ風のバラッド」という爽やかな邦題をつけたんでしょうね、本人のルックスもさほど爽やかでもないしなぞです。

歌詞を読んで改めて曲を聴くと頭のリンク・レイの弾く例のギターが、なんとも不気味な感じがするし、頭に残る”We had joy,we had fun・・・”の部分もなんか諦めのような気持ちを感じる歌い方に聴こえてきます。

この歌、実はカバーでオリジナルは61年のジャック・ブレルによるシャンソン「Le moribond」(瀕死の人という意)だといいます。

Jacques Brel - Le moribond


これまた悲しい曲なのに、なんとも楽しげに聴こえるのがシャンソン流なのか?この曲を気に入ったロッド・マッケンが英語に訳して最初に歌い64年には人気フォーク・トリオであるキングストン・トリオが、そして68年には英国のバブル・ガム・バンド、フォーチューンズがカバーしましたがさしたるヒットもしませんでした。

KINGSTON TRIO - Seasons in the Sun


Fortunes-Seasons in The Sun

(フォーチューンズのは彼ららしい、良いカバーなんですけどね)

奥方スーザンとのグループ、ポピー・ファミリー時代にこの歌を聴いたテリー・ジャックスはビーチ・ボーイズへの参加を打診された時に、この歌をビーチ・ボーイズに薦め自らがプロデューサー役を買って出てレコーディングも行っています。

The Beach Boys- Seasons in the Sun


テリーのビーチボーイズへの参加自体がお流れになったからか、なんかビーチボーイズらしくないフニャフニャした歌なのが気に入られなかったのか、結局ビーチ・ボーイズはこの歌をボツにします。

このビーチ・ボーイズでのレコーディングの際にジャック・ブレルのもと歌やロッド・マッケンの訳詞にあった、親友と自分の奥さんの不実について知っているんだという歌詞をカットし”さよならミッシェル可愛い人 君のくれた愛で僕は太陽をみつけた 僕が落ち込むと いつだって君は僕がしっかりと大地に立てるように助けてくれた”という歌詞に変えています。これはおそらくポピー・ファミリー時代に歌おうとして妻スーザンに気を使って書き変えたのではないかと思います。夫婦デュオで不倫の歌は歌えないですもんね、あっヒロシ&キーボーがあったか(笑)。

ビーチ・ボーイズに蹴られ最終的に自分レーベルからのソロ・シングルとして故郷カナダで発売する(自主制作レコードってことですか)のですが、まずカナダで週間売り上げの記録を更新するほどの大ヒットとなり噂を聞きつけたベル・レコードが契約、アメリカで発売すると見事に全米NO.1となったというわけです。ビーチ・ボーイズと上手く行っていて彼らのシングルとして出ていたら、当時のBB5の状況を考えるとチャート・インも難しかったでしょうから、怪我の功名といえるかもしれませんね。


PS.この曲ニルヴァーナが歌っている動画があります。ほんのお遊びというかボロボロの歌なのですがその後のカート・コバーンを思うとちょっと泣けてきます。

Nirvana - Seasons In The Sun


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ALL JAPAN POP 20 1974年4月第2週&そよ風のバラッド

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74年4月第3週のランキングです。不動だったトップ3の一角がついにくずされました。3位にポールとウィングスの「ジェット」がランク・イン。2位3位5位が元ビートルズのメンバー、やはり強いです。
初登場は1曲、スティーヴ・マックィーン、ダスティ・ホフマン主演の映画「パピヨン」のテーマです。



1位(1位) ミッシェル・ポルナレフ/僕はロックン・ローラー
2位(2位) ジョン・レノン/マインド・ゲームス
3位(6位) ポール・マッカートニー&ウィングス/ジェット
4位(3位) アート・ガーファンクル/ひとりぼっちのメリー
5位(5位) リンゴ・スター/ユア・シックスティーン
6位(4位) ラロ・シフリン/燃えよドラゴン
7位(8位) ポール・サイモン/アメリカの歌
8位(10位) トニー・デフランコとデフランコ・ファミリー/アブラ・カ・ダブラ
9位(7位) スリー・ディグリーズ/荒野のならず者
10位(15位) ティーンエイジ・ドリーム/マーク・ボランとTレックス
11位(11位) シェール/悲しき恋占い
12位(9位) スージー・クワトロ/デイトナ・デモン
13位(13位) ジョーディ/君にすべてを
14位(16位) ジム・クロウチ/タイム・イン・ア・ボトル
15位(19位) そよ風のバラード/テリー・ジャックス
16位(12位) カーペンターズ/ジャンバラヤ
17位(17位) イマジネーション/グラディス・ナイト&ピップス
18位(22位) ジェリー・ゴールドスミス アンディ・ウィリアムス/パピヨンのテーマ
19位(21位) ドーン/いちご畑のサリーちゃん
20位(20位) ジリオラ・チンクェッテイ/太陽のとびら

初登場曲

18位(22位) ジェリー・ゴールドスミス アンディ・ウィリアムス/パピヨンのテーマ


アンディ・ウィリアムスの歌う「パピヨン」の歌詞ってどんなんかなと検索したのですが出てこないのでAJP20はここで終わりにして、今日は久々の出張で高松に来ましたので、少し街をブラブラ。

鳥肌音楽 Chicken Skin Music-鳥肌音楽 Chicken Skin Music


高松駅を出て繁華街に向かおうとすると、目の前の空になにやら不思議な光景が。虹のように見えるのですがアーチになっていなくて、空に水平な状態で浮かんでいます。こんな虹は50年以上生きてきて初めて見ました。

鳥肌音楽 Chicken Skin Music

街中に貼ってある「うどん県」のポスター。香川県出身の芸能人が大集合、要潤くん一人がどアップのやつも見かけました。確かにうどん屋さん多いですね。ちなみに本日の晩飯もセルフのうどん屋で済ませました。¥360也、和製ファスト・フード、そのせいで香川は人口に対するマクドナルドの件数の比率が一番低いと聞きますが本当なのでしょうか?

鳥肌音楽 Chicken Skin Music-鳥肌音楽 Chicken Skin Music

オリーヴ・ホールというライヴ・ハウスが商店街沿いにあったのですが、今日の出演は山口富士夫バンド・フィーチャリング・花田裕之でした。スケジュールを見ると友部正人やよしだよしこ、和田アキラ、曽我部恵一BAND、浜田真理子などの名前が。今日、友部か浜田真理子だったらなぁ。

上記の他に渡辺美里の名前も(チラシがいっぱい貼ってある方の写真の右上)、へぇこういうライヴ・ハウスでやってるんですね。ファンからすれば目の前で見れるから嬉しいのかもしれませんが、厳しい業界ですね。

鳥肌音楽 Chicken Skin Music-鳥肌音楽 Chicken Skin Music

メインの商店街から少し横道にそれてみると、さびれたビルの地下に名画座が。今月の上映は「ひまわり」と「東京プレイボーイ・クラブ」という変な組み合わせ。「東京・・・」の方は臼田あさ美が出てるのでちょっと気になったのですが、最終上映時間が「ひまわり」が4時半から、仕事中だっていうの。少し残念。

ひまわり


ヘンリー・マンシーニはいいですね。

鳥肌音楽 Chicken Skin Music

ちょっと歩き疲れて一休みしたいなと思ったら観光通りのビルの谷間にかわいい神社が。琴平神社という名前のようで小さくとも夏にはこの神社の夏祭りで商店街はにぎわうようです。

鳥肌音楽 Chicken Skin Music

この可愛いヘビを自分の家の方向なんかに向けて祈願をすると願い事がかなうのだとか、でもなんかあまりご利益がなさそうな・・・

$鳥肌音楽 Chicken Skin Music

仕事に行く時間が迫ってきたので高松駅近くのホテルに戻ることに、高松城の横を歩いていたら琴電の電車が走ってきたのでパチリ。この後この電車に乗って仕事に向かいました。


雨は降っていませんが・・・

チューリップ/悲しきレイン・トレイン

AMERICANA by Neil Young & Crazy Horse

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書きかけてすっかり放置していたのでニュース・ソーフとしては古くなってしまいましたが6月にニール・ヤングのニュー・アルバムが発売されます。今回は『グリーンディール』以来9年ぶりとなるクレイジーホースとのアルバムなのですが、内容はアメリカのフォークやトラッドをカバーしたものとなっているようです。クレイジー・ホースでフォーク、それも子供の合唱も入って、きまぐれニールさん、いったいどんなアルバムになっていることやら。

アメリカーナ/ニール・ヤング&クレイジー・ホース


ニール・ヤングとクレイジー・ホ-スは新しいLP『アメリカーナAmericana』を6月5日に発売する。クレイジー・ホースとは2003年の『グリーンディール』以来のアルバムとなり、ビーリー・タルボット、ラルフ・モリーナ、フランク”パンチョ”サンペドロというフル・メンバーのクレイジー・ホースとしては1996年の『ブロークン・アロー』以来となります。『アメリカーナ』の収録曲は全てアメリカン・フォーク・クラシックスで「我が祖国This Land Is Your Land」「絞首台のポールGallows Pole」「トム・ドゥーリーTom Dooley」「クレメンタインClementine」(「いとしのクレメンタイン

今年の頭に開催されたスラムダンス映画祭でニール・ヤングはアルバムについて語っています。

”(このアルバムでは)子供たちの若々しいコーラスがクレイジー・ホースの演奏とともに録音されている””幼稚園の頃から耳なじんだ曲ばかりなんだ、それをクレイジー・ホースがアレンジして僕たちのサウンドになっている”

ニュー・アルバムのプレス・リリースには”これらの曲がアルバムとなったのは、遠い昔の曲なのにアメリカを表現しているという事実による。”と書かれています。”これらの曲の背景にある感情や物語は現在、200年前ほどの衝撃は無いにしても、昔となんら変わらず共鳴できるものだ。歌詞は昔と同じ懸念を表しているし、経済的、文化的に変化の時を迎えている社会にとって大きな意味を持っている、特に選挙の年には。曲が書かれた時代とまったく変わらす今日も力強く心に訴えかけます”

アルバムはオーディオ・カサ・ブランカで録音され、ニール・ヤングとジョン・ハンロンそしてマーク・ハンフレイによって制作されています。

ニール・ヤングとクレイジー・ホースはLAのミュージック・ケアズで行われたポール・マッカートニーのトリビュート・コンサートで2004年以来のライヴを行いました。演奏された「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」はコンサートのハイライトであったと評されていますがバンドに今のところツアーの予定はないようです。

”正直言うけど、誰からもツアーの話は聞いてないよ”クレイジー・ホースのドラマーのラルフ・モリーナーは先月フェイス・ブックに書き込みしています。

アルバム『アメリカーナ』の収録曲は以下の通り。

「おースザンナOh Susannah」
「クレメンタインClementine」
「トム・ドゥーリーTom Dooley」
「絞首台のポール
Gallows Pole」
「ゲット・ア・ジョブGet A Job」
「トラベル・オンTravel On」
「ハイ・フライン・バードHigh Flyin’ Bird」
「あの子が山にやってくるShe’ll Be Comin ’Round The Mountain」
「我が祖国This Land Is Your Land」
「ウェイフェリング・ストレンジャーWayfarin’ Stranger」
「女王陛下万歳God Save The Queen」

「ローリング・ストーン」誌Web3月19の記事より



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1967年4月11日〜14日のスマイル

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1967年4月11日(火) スマイル・セッション 78
ウェスタン・レコーダーズ・スタジオ3st カリフォルニア州ハリウッド 2:00PM-5:00PM


カール作曲の「チューンX」あらため「トーンズ・パート3」のインストゥル・メンタル・トラックを録音。その後「ヴェジタブル」のヴォーカルをオーヴァー・ダブ。となっているが、ユニオン・ログ(スタジオの記録)によればミュージシャンが到着した後でセッションはキャンセルになったことになっている。

参加ミュージシャン:ライル・リッツ(Uplight B,Mn)、ロン・ベンソン(G)

1967年4月12日(火) スマイル・セッション 79
ゴールド・スター・スタジオ カリフォルニア州ハリウッド 2:00PM-5:00PM


「ヴェジタブル」の”フェード・トゥ・ヴェジタブル”部分のインストゥルメンタル・ロラックのセッションが行われる。

マイクが低音で”ロウ、ロウ、ロウ、ロウ、ロウ”と歌い全員が”イーオラ、イーオラ、イーオラ”と返したり口笛や笑い声などがオーヴァー・ダブされモノ・ミックスが作られた。ブライアンは本当にシングルにする気だったのだろうか、「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」を聴いて焦ったのか・・・・。

*この日のコーラスは『ワイルド・ハニー』の「ママ・セズ」の元となっているとのこと。

Beach Boys / Mama Says


1967年4月13日(木) スマイル・セッション 80
ウェスタン・レコーダーズ・スタジオ3st カリフォルニア州ハリウッド


ライヴ班はあらたなツアーのため不在となりブライアン・ウィルソン一人で「ヴェジタブル」の仕上げにかかる。パーカッション、ベース、ボンゴ、ストリングスを加え1分42秒にまとめられている。

1967年4月14日(金) スマイル・セッション 81
ウェスタン・レコーダーズ・スタジオ3st カリフォルニア州ハリウッド


ブライアンは12日にミックスした「ヴェジタブル」に新しくリード・ヴォーカルをオーヴァーダブして曲を完成させる。

この日、スタジオでブライアンとまたもや言い争いになったヴァン・ダイク・パークスはスマイル・セッションから手を引くことを決意する。74年のラジオ・インタビューでヴァン・ダイク・パークスは次のように語っています。

”もう疲れてしまったんだ。それで手を引いて、僕のビーチボーイズとの関係は切れることとなったんだけど、本当はもうクビになることが決まっていたのさ。マイク・ラヴは既に僕をクビにするつもりだったし、グループの中で一番名前の知られていないメンバーもそう思っていた。それは僕が不可解で不必要な歌詞を書くからだった。つまり『ペット・サウンズ』の作詞家の方が『スマイル』の作詞家よりもずっと良かったって訳だ。”

たった一人の理解者もなくし『スマイル』はまさに瀕死の状態に。、この後約1箇月間ブライアンはセッションをお休みして自宅に閉じこもります。完全なる逃避、いいのか、それで。

泥沼の『スマイル』セッションから晴れて自由の身になったヴァン・ダイク・パークスはワーナー・ブラザースとソロ・アーチストとしての契約を結び翌68年にサイケなアメリカーナ・アルバム、ヴァン・ダイク・パークス版『スマイル』と言えるような『ソング・サイクル』を発表します。ブライアンと知り合った頃は日銭にも困るような状態だったことを考えると、『スマイル』で唯一得をしたのはヴァン・ダイク・パークスだったのかもしれません。

Van Dyke Parks - Palm Desert



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マイ・スウィート・ロード盗作問題その1

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1週間ほど前にマクラをふってそのままになっていたジョージ・ハリスンの「マイ・スウィート・ロード」についてです。

The Chiffons - He's So Fine - 1963


シフォンズの「ヒーズ・ソー・ファイン(He's So Fine 以下HSF)」は1962年ロナルド・マックにより作られました。62年の末に発売され翌63年の3月30日から4月20日までの4週間に渡り全米NO.1を獲得、年間チャートでも5位に入ったガール・グループを代表する大ヒット曲です。作者のロナルド・マックは残念ながらこの曲のヒットの後ガンによって亡くなっています。HSFの著作権は71年の段階ではブライト・チューンズ社Bright Tunes Music Corpによって管理されていました。

初期のビートルズは米国のガール・グループから大きな影響を受け、カバーも歌っていたので、当然のことながらジョージ・ハリスンもシフォンズのHSFについてはよく知っていました。

1969年12月ジョージ・ハリスンはツアー中のデラニー&ボニーをコペンハーベンに訪ねます。ハリスンはアップル・レコードにデラニー&ボニーを招きたかったようです。ハリスンはギターを弾きながら”ハレルヤ”や”ハレ・クリシュナ”という言葉に合うコードを探していました。そして後に「マイ・スウィート・ロードMy Sweet Lord 以下MSL」となる新曲はデラニ&ボニーのツアー・メンバーでもありゲット・バック・セッションズにも参加していたビリー・プレストンのアップルからの2ndアルバム『エンカレッジング・ワーズEncouraging Words』用の曲として贈られます。

Encouraging Words/Billy Preston
$鳥肌音楽 Chicken Skin Music-

アルバム『エンカレッジング・ワーズ』は70年9月11日に発売されています(英国発売、米国は11月9日発売)。

このアルバムの共同プロデューサーでもあったハリスンによればプレストンのバージョンの下敷きにしたのはエドウィン・ホーキンズ・シンガーズによって69年にリバイバルしていた「オー・ハッピー・デイ」だったといいます。

The Edwin Hawkins Singers - Oh Happy Day


ハリスンの言うとおりプレストンの”マイ・スウ~ィ~ト・ロォ~ド”というボーカルに”ハァレル~ヤ”というコーラスがコール&レスポンスしてゴスペルっぽいアレンジになっています。MSLの盗作問題を考える時に作者のジョージはおいといて、セッション・ミュージシャンや周りのスタッフたちは何故”この曲シフォンズの曲と似てるよね”と言わなかったのかが不思議なのですが、このプレストンのバージョンを聞く限り「オー・ハッピー・デイ」に似てるねとは思うけどHSFに似てると気づかない可能性もありますね。

このバージョンを録音した際にハリスンはビートルズ時代からのマネージャーであったアラン・クラインに法的に問題ないかと相談したと言われています。「オー・ハッピー・デイ」は元々は18世紀に作られた讃美歌であり、すでにパブリック・ドメインなのでなんら問題なしということで発表されています。ビートルズ時代にアラン・クラインがマネージャーとなってはじめてハリスンの曲がシングルのA面(「サムシング」のこと)に抜擢されたこともあってハリスンはクラインに対して絶対の信頼を寄せていたようです。

プレストンにプレゼントをした曲ではあったのですが、ハリスンもビートルズ解散後の初めてのソロ・アルバム『オール・シングス・マスト・パス』用に録音することにしました。アルバムは70年の11月27日に米国で発売されますがその1週間前にリード・シングルとしてハリソン版のMSLが発売されています。

All Things Must Pass/George Harrison
$鳥肌音楽 Chicken Skin Music-

MSLは瞬く間にチャートを駆け上がり70年の最終週12月26日全米1位となり1月16日までの4週間首位をキープする大ヒットとなります。この曲の盗作疑惑が囁かれ出したのはビルボードの記事が発端だったようですが、1月発売のローリング・ストーン誌のアルバム・レビューでも”明らかにHSFの改作だ”と書かれています。そして71年の2月10日にHSFの著作権を管理しているブライト・チューンズから盗作との訴えが裁判所に提出されその後長期に渡る裁判が始まることとなります。訴えられたのはハリスン本人と彼の出版社ハリスン・ミュージックLtd(英国)、ハリスン・ミュージックInc.(米国)、アップル・レコード、BMIそしてハンセン出版社でした。

ここで、アラン・クラインがふたたび登場します。訴訟が起こされた際にクラインはまずブライト・チューンズ社長のセイモア・バラシュと面会を行います。クラインはハリンスンがブライト・チューンズの持つ管理楽曲全てを買う用意があることを伝えます。しかしバラシュは管理楽曲を売ってしまえば、盗作であるMSLからの入るはずの収益がゼロになるということでこの提案を却下します。まぁ当然でしょうね、こういう提案をするクラインの方が厚顔無恥という気がします。

クラインはこの時点では裁判に備え弁護士の手配や音楽学者を雇い入れハリスンをサポートしています。ところがビートルズ解散後にポール・マッカートニーがクラインとの関係を絶つためにクラインとレノン、ハリスン、スターに対して起こしていた訴訟が結審されマッカートニーが勝訴。これによりクラインとビートル3人の仲も怪しくなり73年3月のクラインとの契約切れ後3人との再契約行われませんでした。それどころかビートルズから必要以上の報酬を搾取していたとして3人から訴訟を起こされてしまいます。

その後法廷での議論が続く中ハリソン側からブライト・チューンズに和解金として14万800ドルが提示されます(当時の相場だと4000万円くらいでしょうか)。この金額は米国でMSLにより稼ぎ出される著作権料の40%にあたるもので、さらにハリスン側はMSLの著作権はハリスンに残すことを条件としていました。

ここで思い出していただきたいのがビートルズの「カム・トゥゲザー」がチャック・ベリーの「ユー・キャン・キャッチ・ミー」の盗作であるとベリーの著作権を管理していたモリス・レヴィーから訴えられた件のこと。この時の訴訟はレノンが自身のアルバムでモリス・レヴィーが著作権を持つ楽曲を3曲カバーする(つまりはレヴィーの元に印税が入る)という条件で和解が成立し「カム・トゥゲザー」の作者はレノン=マッカートニーのままで変更されることはありませんでした。

Chuck Berry - You Can't Catch Me


この例にもあるようにポップス界に置いて「盗作」の疑惑が発生した際は訴えた著作権者側にそれ相応の金額が支払われれば後は多目に見るといった事が多かったようです。この「カム・トゥゲザー」について考えても、「カム・トゥゲザー」が売れたからといってチャック・ベリーやモリス・レヴィーに直接的な損害があったかと言えばそんな事はないわけで、もしきちんと「チャック・ベリー」という名前がレノン=マッカートニーとともにクレジットされていたとすれば入ったであろう印税にプラス・アルファの金額が支払われればラッキーみたいな感じだったのではないかと思われます。

ところがブライト・チューンズの弁護士はこの申し込みを評価はしますが、最終的には示談を却下します。

これには二つの理由があったようです。

ひとつは、HSFの作者であるロナルド・マックの遺族からHSFの印税について多額の未払いがあると訴えられていたこと。その支払いのために多額の現金が必要であった。

もうひとつはビートル3人から首をきられたクラインの暗躍でした。

一気に書くつもりでしたが、眠くなってきたので今日はここまで。続きは後日。

PS.アラン・クラインについては以前にエントリしたことがありますのでお暇ならそちらもお読みください→「YOU NEVER GIVE YOUR MONEY」

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The Band's Levon Helm dies at 71 R.I.P.

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(CBC NEWS.CA)

$鳥肌音楽 Chicken Skin Music

Award-winning singer and musician Levon Helm, drummer and the only non-Canadian member of the legendary '70s rockers The Band, has died at Memorial Sloan-Kettering Cancer Center in New York. He was 71.

Helm died peacefully Thursday afternoon, surrounded by family, friends and bandmates, according to a note on his official website.

His family revealed on Tuesday that Helm was in the final stages of a long-running battle with cancer.

Helm was diagnosed with throat cancer in 1998 and the illness reduced his voice to a whisper. But he still continued to sing on albums and play at rollicking concerts at his Woodstock, N.Y., home.

Robbie Robertson, a former member of The Band who had been estranged from Helm, wrote that he went to see the musician when he heard of his illness.

In an online posting Wednesday, Robertson said he recalled "the incredible and beautiful times we had together."

“Levon is one of the most extraordinary talented people I’ve ever known and very much like an older brother to me. I am so grateful I got to see him one last time and will miss him and love him forever,” Robertson said.

The Band was hailed for a string of classic records, including their self-titled 1969 album, The Band. Helm was influential as a singer and a songwriter, contributing his southern-tinged voice to hits such as The Weight, W.S. Walcott’s Medicine Show, and The Night They Drove Old Dixie Down.

The Band held a farewell concert at Winterland in San Francisco on Thanksgiving 1976 that pulled together Ronnie Hawkins, Dr. John, Muddy Waters, Ringo Starr, Bob Dylan, Eric Clapton and an all-star guest list of peers and friends. Martin Scorsese's concert film titled The Last Waltz is considered a seminal piece of rock history.

Helm had long periods as a solo artist, and his Woodstock home studio was considered an influential staging ground for new music, as well as the site of legendary jam sessions.

He was on the stage as Bob Dylan was booed for going electric, he played at Woodstock, and recorded Muddy Waters in Woodstock at his home studio. He has worked with artists ranging from Emmylou Harris and Allan Toussaint to Elvis Costello and Norah Jones.

Born May 26, 1940, on an Arkansas cotton farm, Mark Lavon Helm was the second of four children. His family always went to the tent shows that travelled the South, bringing a variety of musical acts and inspiring songs such as W.S. Walcott’s Medicine Show.

“It was the only time country people like us could see a real staged show with costumes and lights and everything so that was high rolling back in the cotton country, “ Helm recalled in a March 2012 interview with PBS.

As a youngster, he learned to play guitar and harmonica and he and his sister Linda would enter talent contests together on the 4-H Club (a youth farm club) circuit.

He saw Elvis Presley in 1954 at a show with Johnny Cash before the King’s fame exploded, and then he heard Elvis again in 1955, after he’d added drums to his act. That sound convinced Helm that rock 'n' roll was the way to go, according to a biography on his official website.

Levon formed his own rock band, the Jungle Bush Beaters, in high school and took up the drums. He met Ronnie Hawkins in 1957, when the musician was putting together a band to play on the Canadian live music circuit.

Helm promised his father he’d finish high school on the road and joined the Hawks, who had hits in 1959 with Forty Days and Mary Lou, and appeared on Dick Clark's American Bandstand.

Hawkins and Helm recruited four talented Canadians — Richard Manuel, Rick Danko, Robbie Robertson and Garth Hudson — in the early 1960s and their rock 'n' roll style became influential.

But Helm and his fellow bandmates broke from Hawkins and formed a group they called Levon and the Hawks. That was the band Bob Dylan chose to back him up when he moved from his folk sound to “go electric” in 1965, according to Helm's official bio. Helm was on drums as die-hard folk fans booed Dylan night after night, an experience he says put him off the music business.

Helm left the group temporarily and headed to Arkansas, while Dylan and the rest of the band took up residence in Woodstock, N.Y., in a large, pink house where they wrote and rehearsed new material. Capitol Records gave them a recording contract and Danko coaxed Helm into rejoining them in creating the new sound that emerged in 1968’s Music from Big Pink.

The people of Woodstock called the group of musicians “the band” and that was the name that stuck as the group went forward together.



They became household names appeared on The Ed Sullivan Show in 1969 and made seven albums before breaking up in 1976. Many of the roots-tinged songs were versions of traditional songs Helm knew as a child in Arkansas.

In his autobiography This Wheel’s On Fire, Helm claimed that Robertson took undue credit for writing certain Band songs, when they were in fact a group effort, a point of acrimony that led to a falling out between the former friends.

Helm had built his own barn and studio, and Muddy Waters in Woodstock was one of the first works recorded there, going on to win a Grammy. He began working solo with the RCO All-Stars in 1977, followed by Levon Helm and American Son, released in 1980.

That same year Helm played Loretta Lynn’s father in Coal Miner’s Daughter, winning great reviews for his first film appearance. He later had film roles in The Right Stuff, The Three Burials of Melquiades Estrada and 2007's Shooter with Mark Wahlberg.

Helm worked with The Band’s Danko on a 1983 tour, and in the 1990s, most of the original members got together again and issued three more albums: Jericho, High on the Hog and Jubilation.

In 1998, Levon was diagnosed with throat cancer, a development that silenced his voice, though he was able to return with whispered vocals in a number of recent recordings. In 1999, Danko died, putting an end to any hope of a further reunion of The Band.

Instead, Helm began what he called the Midnight Ramble Sessions, a series of live performances at his home studios, which gathered artists such as blues pianist Johnnie Johnson, Phil Lesh, Billy Bob Thornton and the Boxmasters, the Muddy Waters Band, Kris Kristofferson, the Black Crowes and Steve Earle to play with Helm.

“I’ve got the best seat in the house,” Helm said in an interview with PBS, referring to his usual spot in the drummer’s chair.

“I’ve got the best players in the world I get to play with. They just play anything and do anything. I don’t have to worry — it’s a free ride for me.”

The Rambles helped pay Helm’s medical bills and paid off his mortgage.

Samples of the concerts were released as Midnight Ramble Music Session, Vol. 1 and Midnight Ramble Music Session, Vol. 2 in 2006. The following year saw the release of Dirt Farmer, Helm's first solo album in 25 years, followed by Electric Dirt in 2009. Those albums also drew on traditional songs Helm recalled from childhood.

“That seemed to be the place to start, some of those old tunes. Those were the ones that made me love music. I went right back to the beginning and tried to make those tunes sound as good as I remember them sounding,” he said in a 2007 interview with CBS.

Helm is survived by his wife, Sandy and his daughter Amy, also a musician.




なんのかんのいってもザ・バンドはこの人のタイトなドラムがあってこそ。そしてザ・バンドに出会って僕の音楽の聞き方も大きく変わりました。レヴォンさん素敵な歌をありがとう、天国のリチャードとリックによろしく。そっか、これでザ・バンドの3つの声が失われてしまったのか、ほんと悲しいです。

マイ・スウィート・ロード盗作問題その2

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The Chiffons - He's So Fine_____________________George Harrison / My Sweet Lord
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「ヒーズ・ソー・ファイン(以下HSF)」の作者ロナルド・マックの遺族がブライト・チューンズを訴えた件は日本版ウィキにも記述があるのですが、そこでは作者はリチャード・セルフとなっています。このリチャード・セルフとRマックがどういう関係(同一人物、記述ミス?)なのかは分かりませんが、未払いで訴えられてはいたようです。ハリスンはこの件について「何年も前に死んだ彼の会社を引き継いだ会計士たちが、金目当てに僕を訴えている」とコメントしていたようで、確かに出版社として著作者にきちんと印税も支払っていないような会社から「盗作」であるという訴えを起こされることは確かに金目当てという気がしてハリスンに同情してしまいます。

ブライト・チューンズもあくどい気がしますが、もっとあくどいのはやはりアラン・クラインでした。ビートルズとの契約が解除され大口のクライアントを失うだけでなく、報酬の過剰請求で訴えられるという飼い犬に手を噛まれるような状態にあったクラインはこの「マイ・スウィート・ロード(以下MSL)」裁判においてハリスンへの復讐とも言える行動に出ます。

ハリスンは知りませんでしたが、この時アラン・クラインは再度ブライト・チューンズの株式を全て買い取ろうと画策していました。ハリスンがMSLを作った際に権利上問題が無いか相談されていて、つまりハリスンには自信が無かったことを知っているクラインはこの裁判がハリスンの敗訴で終わるだろうことは十分承知していました。その上で以前はクライアントであるハリスンのために画策した買収策を今度は自分の会社ABCKOのために行なったというわけです。

”クラインよ、お前もワルよのー”なんて言いたくなりますが、クラシックの様な純粋音楽の世界ではなく、商業主義音楽の世界での出来事ですから、こういうことは日常茶飯事だったと思われます。金になると思われればなりふり構わないと言いますか。先日の前ふりでご紹介したジョディ・ミラーの「ヒーズ・ソー・ファイン」も71年3月に裁判がスタートした後で発売されているのですが、聴いてもらえば分かるのですがアコギのイントロからスタートしシフォンズの元歌にある印象的な”ドゥ・ラング ドゥ・ラング・ラン”というコーラスをカットしていきなるり歌に入るという構成はMSLと同じだし、53秒あたりから始まるスライド(ドブロ?)のギター・ソロはもろにMSLのハリスンのフレーズ、これはどう考えても意図的なパクリなのですがね。それなのにカントリー・チャートで5位の大ヒットとなり、グラミーのカントリー部門にノミネートされたといいますから、いいのかそれで。

Jody Miller - He's So Fine
-鳥肌音楽 Chicken Skin Music

他にもフィニルさんのコメで教えてもらったベルモンツ(ディオンのバックだったベルモンツです)の72年のアルバム『シガー・アカペラ・キャンディ』に入っている「マイ・スウィート・ロード」というのもあります。

Belmonts / My Sweet Lord
-鳥肌音楽 Chicken Skin Music

白人ドゥー・ワップの老舗らしいコーラスから始まるのですが2分4秒あたりから”ドゥ・ラング ドゥ・ラング・ラン”というコーラスが始まり”ヒーズ・ソー・ファ~イン”ともろにHSFが引用されています。この曲についてはヒットしたかは定かではありませんが、こんな風に気軽に”この二つ一緒やんけ”みたいなカバー・バージョンが生まれるというのは、HSFとMSLのような「盗作」問題というのを茶化して面白がる、逆に言えばそんなに深刻に考える必要はないよく有ることだよみたいな事の現れじゃないかと思えます。

この2曲は洒落と笑える気もしますが、係争中の75年に本家のシフォンズがMSLをカバーしてしまうというのは、そこまでやるのねと空いた口が塞がらない気がいたします。でも考えてみれば裁判にブライト・チューンズが勝ったとしてもブライト・チューンズとロナルド・マックの遺族に印税が転がり込むだけでシフォンズは蚊帳の外ですもんね。だったら本家が掟破りの逆カバーをしたという話題でレコードを売って歌唱印税を貰った方が利口ってことになりますね。

The Chiffons - My Sweet Lord


掟破りではありますがこのボサノヴァ調のアレンジは、先の2曲よりも優れたカバーに思えてしまいます。

ということで甘い汁を吸おうというカバーも相次いだ裁判ですが76年9月に結審します。判決内容はハリソンにはHSFを盗用する意思は無かったものの2曲の類似点は多く事前にHSFを聴いていたハリソンが無意識のうちにHSFのメロディを盗用してしまった「無意識による剽窃行為」があったとしてハリソンに有罪判決が言い渡されます。

ふたたびつづく。

アラン・フリードと悲しきサルタン

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Dire Straits / Sultans Of Swing


暗闇の中で身震い
公園じゃ雨が降り続いている
川の南におまえは佇み考え込む
バンドはデキシー・ランド・ジャズを
倍のビートで演っている
おまえはその演奏を聴きながらこいつはいけるかもと思う

店の中に入っても お客はあんまりいない
雨が降ってる日にわざわざジャズなんて見にきゃしない
たくさんの場所で たくさんのコンペがある
だけどあの音を出せるホーンはそんなにはいない
ロンドンの南部の下町あたりには

おまえはギターのジョージをチェックする 全てのコードを知ってるやつさ
あいつはリズムが正確でギターを泣かしたり歌わしたりなんてのはおよびじゃないのさ
自分のパートをライトの下で弾くときの
古ぼけたギターがやつの全てさ

ハリーは有名になれなくたってかまわない
昼の仕事があり 満足してるんだ
誰にも負けないくらいホンキートンクが上手い
そいつは金曜の夜のためにとってある
サルタンズと サルタンズ・オブ・スウィングとギグるために

若いヤツラは店の隅で馬鹿騒ぎ
一張羅の茶色のバギー・パンツとロンドン・ブーツで決めて酔っ払っている
トランペットのソロなんかもちっとも聴いちゃいない
こんなのロックン・ロールじゃねぇんだと
たしかにサルタンズは そうサルタンズはクレオール・ジャズなんてやってるからね・・・

その時ライトの中 (審査員の)男がマイクに近づく
終演のベルがなりやっとしゃべりだす
”おやすみ さぁ帰る時間だ”
そしてもう一言早口で言った
”(君たちのバンド名に例えていえば)我々こそがサルタンズ・・・ 
サルタンズ・オブ・スウィング(スウィング界の権力者)かもな”


ちょうど1年ほど前に”「My Favorite Artists A to Z」 #4 「D」の巻”として取り上げたダイアー・ストレイツの「悲しきサルタン」です。歌詞にも出てくるようにサルタンズ・オブ・スウィングというのはニューオリンズ・ジャズを演奏するバンドの名前です。このサルタンズ・オブ・スウィングというバンド名、最近読み直していた本の中に出てきて”へぇー”と驚いてしまいました。その本というのはアーメット・アーティガンの伝記「MUSIC MAN」、日本題「アトランティク・レコード物語」です。

アトランティック・レコード物語/ドロシー ウェイド
$鳥肌音楽 Chicken Skin Music

この本確か発売されて間もなくに図書館で見つけて読んだはずで、発売年を見ると1992年となっていました、もう20年も前の事になります。さすがに20年も経つと内容はほとんど忘れていて、ほぼ初めて読むといった感じで、サルタンズ・オブ・スウィングのくだりも全然記憶にありませんでした。この20年間で、それなりにロックン・ロールの歴史やアメリカの音楽業界についての知識も増えたこともあってか、読みながら”あぁこれはそういうことだったのね”とうなづきながら非常に楽しく再読いたしました。

問題のサルタンズ・オブ・スウィングが出てくるのは「ロックン・ロール」の名付け親として有名なDJアラン・フリードについて書かれた部分です。

”フリードは1922年、ペンシルヴァニア州ジョンズタウンで生まれ、二人の兄弟と共に、オハイオ州の小さな町セーラムで幼年時代を過ごした。ハイスクールに入った彼はトロンボーンを手にし、サルタンズ・オブ・スウィングというジャズ・バンドのリーダーとして活動した。・・・”

そうですサルタンズ・オブ・スウィングはアラン・フリードの高校時代のバンドの名前だったんです。22年生まれということで高校時代といえば30年代後半、もちろんロックン・ロールの「ロ」の字もない頃で、その名の通りスウィング・ジャズを演奏するバンドだったかと想像します。サルタンズ・オブ・スウィングというバンド名自体パッとひらめくような名前でもないでしょうし曲中でデキシー・ランド・ジャズをやるバンドとも歌っており、作者のマーク・ノプラーはアラン・フリードのバンド名と知った上でタイトルを付けているものと思われます。

そう思って歌詞を読み直すと最後に登場するバンド・オーディションの審査員の男(ライヴ・ハウスのオーナーか)の"We are the Sultans We are the Sultans of Swing(我々が権力者だ、このスウィング界を取り仕切る王様だ)"という言葉は、自らの番組で曲をオンエアーすることでロックン・ロールのヒットを牛耳っていた絶頂期のアラン・フリードの姿を彷彿とさせます。

Rock & Roll Dance Party/Alan Freed


「アトランティック・レコード物語」によれば50年代前半にオハイオ州クリーヴランドのWJWというラジオ局で「ムーンドッグ・ロックンロール・パーティ」という黒人のR&Bをオンエアーして人気を得ていたDJアラン・フリードを54年にNYに連れてきてWINSで番組をもたせたのはモリス・レヴィーでした。そうジョン・レノンの「カム・トゥゲザー」をチャック・ベリーの盗作として訴えたモリス・レヴィーです。この本によればレヴィーは靴磨き少年から立身出世しNYのマフィアの息のかかったナイト・クラブのオーナーになります。世間の裏の裏まで知り尽くしたレヴィーからすれば黎明期の音楽業界は甘い汁が吸い放題に見えたようで、あっという間に業界の顔役的存在になります。

マフィアとのつながりもあり文字通りヤクザなレヴィーですが「ロックンロール」という言葉が世に広がるお膳立てをした男としてロック史に残るべき人と思います。ところがそんなレヴィーでもアラン・フリードがコントロールできなくなります。NYで人気DJとなりWINSを聴取率NO1に導いたフリードはまさにラジオ界の王様的存在になります。フリードの番組で曲が紹介されればヒットへと繋がるというわけでレコード会社の人間やマネージャーはフリードに自分のアーチストの新曲を渡そうと殺到します。そして他社より自分のアーチストを優先的にかけてもらうために賄賂(米国ではペイオラと呼ばれます)を払うこととなるのですが、フリードの場合はその金額も桁違いであったようです。

ペイオラ自体は商慣習として定着しており違法ということでは無かったのですがDJ達の選曲があまりにペイオラに左右され放送倫理が腐敗しているとしてASCAP(米国作曲家作詞家出版者協会)が訴え新法が成立されることとなりその際に開かれた公聴会においてフリードはDJの代表的存在としてペイオラ・スキャンダルのスケープ・ゴートにされてしまいます。この時にフリード自身があっさりとペイオラを受け取っていたことを認めてしまい、ロックンロールの生みの親としてのフリードの栄光は一瞬にして地に落ちてしまいます。同じくつい先ごろ亡くなったディック・クラーク(まーしーさんのブログご参照ください)も非難の矢面に立たされそうになったのですが、自分がペイオラに関わったことを一切否定し難を逃れています。クラークの場合ペイオラ以前の問題として自分が経営者の一人であるカメオ・パークウェイのアーチストを番組でがんがん紹介していたわけで倫理的にいったら、そっちの方がえぐいんじゃないのと思ってしまいます。

アラン・フリードは私腹を肥やすためにペイオラをもらいオンエアーする楽曲を選んでいたように思われるかもしれませんが、レコード会社やマネージャー達の持ち込みであっても、自分が本当にいいと思った曲しかかけなかったようです。つまり基本的に彼のラジオでかかるのは黒人たちのR&Bでした。フリードは白人でありながら、当時の白人向けラジオではタブーとされていた黒人の音楽を積極的にかけて白人の若者たちの心をつかんでトップDJに上りつめています。これは彼の番組でかかるのは今までラジオから完全に閉め出されていたR&Bをレコードとして発売していたマイナー・レーベル、アトランティックもそのひとつ、のレコードがオンエアされるということを意味していました。それによりR&Bのレコードは黒人だけでなく白人の若者たちにも売れるようになっていきます。

当時のポップ・チャートの集計ではR&Bのレコードは対象外とされていませんでしたので、黒人白人関係なく売れまくってもチャートの上位に上ってくることはありませんでしたが、実際はポップ・チャートの1位のシングルよりも売れたR&Bのシングルはたくさんあったようです。トム・ダウトによれば、クライド・マクファターのシングルを出す際にB面曲が用意されておらず、ダウドがやっつけで書き上げた楽曲が収録されたことがあるらしいのですが、数ヵ月後に彼の手元に来た印税証明書の売り上げ枚数は45万枚となっていたとのことです。当時のポップ・チャートでは20万枚売れればだいたい1位をとれていたようなので特大ヒットということになりますね。

そんなわけでマイナー・レーベルからすればフリードは救いの神様というわけでそれは謝礼(ペイオラ)も高額になるというものです。フリードはトップDJになっても黒人音楽およびその息子的ロックン・ロールの紹介者としてのスタンスを変えなかったようです。このことは逆に言えばフリードの登場以前までラジオでかかる曲をほぼ独占していたメジャーなレコード会社の白人音楽はかけてもらえなかったことを意味します。メジャーの人間も当然ペイオラ(メジャーゆえ金額もメジャー級でしょう、おそらく)を持っていくわけですが、フリードは決して甘ったるい白人音楽はオンエアしなかったようです。

当然メジャー各社としてはフリード憎しとなるわけで、ASCAPを通して間接的にフリード(やDJたちを)をつぶしにかかったということだと思われます。今までの僕の認識としてはフリードの行き過ぎたペイオラ搾取が「悪」として裁かれたと思っていましたが、事はそう単純じゃなかったということですね。このペイオラ・スキャンダルもひとつの要因となってアメリカではロックン・ロールは50年代後半にいったん衰退してしまいます。

中ほどにも書きましたがディック・クラークが「アメリカン・バンド・スタンド」という人気TV番組の司会という立場を利用し自分が経営に参加するレコード会社のアーチストを出演させて大ヒットを生みだすといった具合に器用に立ち回り現在もロックンロールの功労者としての名声を持ったまま死んでいったのに比べ、アラン・フリードは自分の愛するR&BやR&Rによって名声と大金を得たことに最後まで馴染めず不器用なままアル中で死んでしまいます。

フリードの人生を振り返るとき、そのバンド名からとられた「サルタンズ・オブ・スウィング」につけられた「悲しきサルタン」という邦題は実に深いなぁと思ってしまいます。おそらくそこまで考えてはいないと思いますけど・・・


Chubby Checker-The Twist

ALL JAPAN POP 20 1974年4月第4週

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うっかり忘れるところでしたが、1974年4月第4週のAll Japan Pop 20のランキングです。

Paul Mccartney & Wings "Jet" 1976


来ました来ました「ジェット」。ラズベリーズやジョーディといった”パワー・ポップ”新興勢力の台頭に”ちょっと待ったぁ! 本家はワシや!”と啖呵を切っている感じのハードエッジなポップ・ナンバー。当時中学生だった僕からすればヨーコの尻にひかれているようなジョン・レノンよりは、ポール・マッカートニーの方が断然かっこよく思えたものでした。

トップ10は微妙に順位が入れ替わっている感じですが11位以下では圏外からジャンプあった曲が3曲もあり、来週以降上位にも大きな変動がありそうな予感。

1位(3位) ポール・マッカートニー&ウィングス/ジェット
2位(1位) ミッシェル・ポルナレフ/僕はロックン・ローラー
3位(4位) アート・ガーファンクル/ひとりぼっちのメリー
4位(2位) ジョン・レノン/マインド・ゲームス
5位(6位) ラロ・シフリン/燃えよドラゴン
6位(5位) リンゴ・スター/ユア・シックスティーン
7位(7位) ポール・サイモン/アメリカの歌
8位(8位) トニー・デフランコとデフランコ・ファミリー/アブラ・カ・ダブラ
9位(10位) ティーンエイジ・ドリーム/マーク・ボランとTレックス
10位(14位) ジム・クロウチ/タイム・イン・ア・ボトル
11位(18位) ジェリー・ゴールドスミス アンディ・ウィリアムス/パピヨンのテーマ
12位(9位) スリー・ディグリーズ/荒野のならず者
13位(15位) そよ風のバラード/テリー・ジャックス
14位(25位) カーリー・サイモン&ジェームス・テイラー/愛のモッキンバード
15位(13位) ジョーディ/君にすべてを
16位(28位) ディープ・パープル/紫の炎
17位(16位) カーペンターズ/ジャンバラヤ
18位(12位) スージー・クワトロ/デイトナ・デモン
19位(11位) シェール/悲しき恋占い
20位(24位) オズモンズ/ムーヴィー・マン

初登場曲です。

14位(25位) カーリー・サイモン&ジェームス・テイラー/愛のモッキンバード
Mockingbird - Carly Simon & James Taylor


モノマネ (そう)
してる (そう)
ツグミ (そう)
イエー (イエー)
マネシツグミ

さぁさぁみんな 
聞いてくれる (聞いてくれよ)
彼ったらマネシツグミを買ってくれるの (マネシツグミを買ってやろう)
もしマネシツグミが鳴かないなら (マネシツグミが鳴かないなら)
ダイヤの指輪を買ってくれるって (ダイヤの指輪を買ってやる)
ダイヤの指輪が輝かなければ (ダイヤの指輪が輝かないなら)
あぁ もう私の心はズタズタよ (そうだな そしたら俺の心もズタズタさ)
だってさぁ (分かるよ)
みんなに聞かせるわよ (あぁ そうさ 分かるって)
言うわよ (あぁ そうさ)
わぉ わぉ (あぁ わぉ)

聞いてよ
そして分かって (分かってるって)
彼ったら 私に心の安らぎを感じるんだって (彼女といれば安らぐんだ)
その安らぎがいつまでも続かないとしたら (安らぎが続かなければ)
もっとましな生き方を見つけるわ (もっとましな生き方を買えるかな)
もしそんなものが無いのだったら (もし無かったら)
潮に乗り流れにまかせるでしょう
だってさぁ (分かるよ)
あなたの耳元で叫ぶわよ (あぁ そうさ 分かるって)
言うわよ (あぁ そうさ)
わぉ わぉ (あぁ わぉ)・・・
etc (メインをカーリー、( )内がジェームス、赤字は二人で歌っています)

全米チャートで5位という大ヒットなった、当時はおしどり夫婦であったカーリー・サイモンとジェームス・テイラーの「愛のモッキン・バード」です。”愛の”という言葉が付き掛け合いで歌っているのでつがいの小鳥になぞらえて恋人同士のことを歌った歌なのかなと思っていましたが、少しばかり違ったようです。モッキン・バードというのは日本名が「マネシツグミ」というツグミの仲間ではあるようですが、その名の通り周りの鳥たちの鳴き声をマネするのが得意というけったいな小鳥のようです。実際のモッキン・バードの鳴く姿を撮った動画をアップいたしますが、確かにいろんな鳴き方をしているように聞こえます。

Northern Mockingbird Sings


”マネシ”という事を頭に置いてこの歌を聴き直すと女の言葉を男がそのままマネしている風に聞こえ、わがまま女とその女にぞっこんで我を忘れている金持ち男というバカップルの姿を面白おかしく歌っているように聴こえてきますし、二人の歌い方もノヴェルティっぽく聴こえてきます。

この歌実はカバーで1963年イネズ&チャーリー・フォックスというR&Bデュオが作/歌唱によりR&Bチャートで2位、ポップ・チャートでも5位というクロス・オーバー・ヒットを記録しています。

Mockingbird , Inez & Charlie Foxx


元々がR&Bということでノヴェルティーな歌詞も納得なのですが、チャーリさんのマネっこレスポンスはジェームス・ティラー以上に”情けない男”感が出ていますね。同じ姓なので夫婦なのかと思ったのですが、二人は姉と弟というデュオのようです。大ヒットしたこの曲をジェームス・テイラーが大好きだったようで10代の頃から妹のケイト・テイラーを相手によく歌っていたようで、カーリーのアルバム『ホットケイクス』を制作中にジェームスが思い出しデュエットで収録されました。

ところでこの歌がオリジナル版もカーリー&ジェームス版も両方とも大ヒットしたのは、その歌詞が誰でも知っている子守唄をベースにしていたというのも大きかったようです。

Hush Little Baby(Mockingbird Song)


赤ちゃん しずかにおやすみ
パパがマネシツグミを買ってやるから

マネシツグミが歌わなかったら
パパがダイヤの指輪を買ってやる

ダイヤの指輪が真鍮になってしまったら
パパが鏡を買ってやる

鏡が割れてしまったら
パパが雄ヤギを買ってやる

雄ヤギがもし働かないなら
パパが荷車と雄牛を買ってやる

荷車と雄牛が転覆したら
パパがローヴァーと言う名の犬を買ってやる

ロヴァーが吠えなかったら
パパが荷馬車と馬を買ってやる

荷馬車と馬が倒れてしまっても
あなたは街一番の可愛い赤ちゃんよ


韻を踏みながら言葉がどんどん変わっていくとても楽しい子守唄です。小さい頃からこういうの聴いて育ったら自然と韻を踏むくせなんかが自然と付くのでしょうね。内容的には子煩悩なパパの姿を歌ったものだったのが、R&Bへと引用されたとたんにパパはパパでも違ったパパが若い女に煩悩たっぷりとなる歌になったわけで、その辺が大人に受けたのかもしれないですね。ただしパトロンを”パパ”というのは日本だけのような気もするので、勝手な妄想とは思います・・・。

16位(28位) ディープ・パープル/紫の炎

Deep Purple / Burn


高校生になって、こういうハード・ロックは聴かなくなるのですが、中学時代は”ロック”といえばハード・ロックかプログレのことだと思うておりました。まぁその辺は今だって洋楽を聴かない人からしたら同じようなものかも知れませんね。しかし高校時代の文化祭に出てくるバンドは必ずといっていいほどこの曲をやってましたね。ほんと人気がありました。

20位(24位) オズモンズ/ムーヴィー・マン

Osmonds - The Plan - Movie Man - Track 4


この曲は残念ながら記憶に残っていません。あしからず。


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