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20世紀に最もオンエアされた曲「ふられた気持ち」

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RIGHTEOUS BROTHERS THE GREATEST HITS
(1981 Phil Specter International 2335 229 )

 



ライチャス・ブラザースの「ふられた気持ち You've Lost That Lovin' Feelin'」についてのちょっと面白い記述をみつけたので紹介しておきます。

 

>ミキシングが完了したが未解決の問題がひとつあった。この件では(ラリー・)レヴィンが熟練したエンジニアがおおいに役に立つことを証明してくれた。4分近い長さの「ふられた気持ち」は当時のラジオで かかるシングルの標準より長いものでした。「3分50秒あったんだ、フィル(・スペクター)はDJたちがかけてくれないんじゃないかと本当に心配していた。」レヴィンは回想します。「そこで私は提案したんだ、レコードには3分05秒って書けばいいって。誰かに指摘されたらタイプミスだって言えばいい。フィルは受け入れたよ。私たちは編成担当が一度聞いたら気づくだろうことは分かっていた。でも少なくとも一度はオンエアされるに違いない、それこそが重要だったんだ」 by Dan Daley

 

 

フィル・スペクターのプロデュースによる「ふられた気持ち」は1964年の11月に発売されています。それ以前のスペクター・プロデュースのヒット曲にあった強力なバック・ビートこそありませんでしたが、スペクターによるサウンドは深く厚く強靭で「音の壁」の完成形といっていいものでした。
 

スペクターにとっては自信作ではあるものの、63年8月のロネッツの「ビー・マイ・ベイビー」以降トップ10ヒットには恵まれず、ようやく100位内という曲もあり、「ふられた気持ち」までの7枚のシングルのランキングの平均は51位となっています。この平均順位はフィレス・レコードから発売された最初のシングルであるクリスタルズの「ゼアズ・ノー・アザー(ライク・マイ・ベイビー)」が20位とスマッシュ・ヒットしてから「ビー・マイ・ベイビー」までの13作の平均順位が21位であったことと比較するとスペクター作品の人気が落ちてきていたのは明白でした。これにはビートルズのアメリカ上陸なんていうことも関係していると思われますが、それはまたの機会に。

 


そして引用した記述にもあるシングルの尺(収録時間)の問題。当時のAMラジオでDJたちがかけるシングル盤のほとんどの収録時間は3分以内でした。そしてTOP40のヒット曲もほとんどが3分以内のシングルでした。なぜ3分なのということについてはSP盤時代の高音質で収録できる時間の目安が3分15秒だったみたいな、メディアそのものによる規制がEP盤の時代になっても続いていたということのようです。これもまた機会があれば詳しく調べてみたいと思います。

「ふられた気持ち」が発表された64年には23曲の全米NO.1ヒットが生まれていますが、うち22曲が2分台で唯一ローン・グリーンLorne Greeneの「リンゴRingo」のみが3分超えの3分15秒。23曲の平均時間は2分37秒でした。スペクター・プロデュースでフィレス・レコードから発売された「ふられた気持ち」以前の20枚のシングルで最長だったのがロネッツの「ザ・ベスト・パート・オブ・ブレイキン・アップ」の3分2秒で平均時間が2分45秒と革新的なサウンドを追及したスペクターですが、尺については従来の慣習に倣っていたといえます。
 

 

自分が求めてきた「音の壁」の絶対の自信作ができたものの、調子に乗って作り込んだらラジオでかかるヒット曲の標準時間を1分間も越えてしまっていた、出す曲出す曲がTOP20に入るような勢いがあればまだしもここ最近は思ったようにはヒットが生み出せていないとあってはいかに自分の才能に傲慢なまでの自信を持っていた独裁者=フィル・スペクターとはいえ不安になってしまったということなのでしょうね。
 

そんな時に相棒であるエンジニアのラリー・レヴィンからの収録時間の<ねつ造>提案はスペクターにとっては「そんな手があったのか。」と目からウロコだったのかも知れません。フィレス・レコードにとっての初のNO.1シングル「ヒーズ・ア・レベル」の時は21歳年上のレスター・シルから多忙で録音に参加できないクリスタルのゴースト・シンガーとしてダーレン・ラヴを使う事を助言されていたし、今回は11歳年上のレヴィンからの助言ということで当時25歳のスペクターはまだまだスレていない若造だったのかと(笑)

レヴィンの悪知恵は功を奏したようでシングルは無事ラジオでオン・エアされリクエストも殺到したのか翌65年の2月6日、13日に見事全米NO.1に。80年代には大ヒット映画「トップ・ガン」で印象的に使用されリバイバル・ヒットをします。

 

 

この「トップ・ガン」の貢献もあってか、20世紀にラジオ、TVで最もオンエアされた曲という栄誉を得ています。その回数は800万回以上、ちなみにその後には700万回以上でジ・アソシエーションの「かなわぬ恋」、ザ・ビートルズの「イエスタデイ」、ベン・E・キングの「スタンド・バイ・ミー」、オーティス・レディングの「ドック・オブ・ザ・ベイ」と続いています。

またRIAA(Recording Industry Association of America)が選ぶ20世紀の楽曲ランキングでも9位と、まさに20世紀を代表するヒット曲となっているといえますが、もしレヴィンの悪知恵がなければそんな名曲も生まれていなかったかもと思うとレヴィンに大感謝です。
 


 

当時のシングルの画像を見ると確かに「3:05」と「タイプ・ミス」されていますね(笑)。

以下は余談となります。
 

 

 


ビリー・ジョエルの74年のシングル「エンターティナー」に以下のような歌詞があります。

僕はエンタティナー
ショーのためにやってきた
僕の新曲を聴いてくれ

ラジオでかかってるやつさ
何年もかかって書いたのさ

それは人生で最高の年月だった
美しい歌なんだ
だけどとても長すぎる
もしヒットさせたけりゃ
合わせなきゃね
だから3:05にしたんだ 



この歌詞は今ではビリー・ジョエルの代名詞とも言える名曲「ピアノ・マン」をシングルで発売しようとしたときにCBSにテープを切り貼りされ元々5分38秒あった曲が4分30秒に編集されて発売されたことを皮肉った歌詞のようです(プロモでは3分16秒)。つまりは「ふられた気持ち」から10年経っても音楽業界の中にはシングルは3分じゃないとダメという慣習が生き続けていたということかなと思われます。「エンタティナー」自体も元々のアルバム・バージョンは3分41秒だったのですがシングルでは30秒短縮されて3分11秒のバージョンになっていますが、タイプ・ミス(!?)でレーベルには「3:05」と書かれています。



「3:05」!ひょっとして「ふられた気持ち」のエピソードがビリーの頭にあったのかな・・・・あくまでも個人の妄想です。

 

 


おとぎ話とディズニー・ガール そんな時代に戻るんだ

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我等がビーチ・ボーイズの新譜『ビーチ・ボーイズ・ウィズ・ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団

』が発売されています。エルヴィスから始まりロイ・オービソン、アレサ・フランクリンと来て今回のビーチ・ボーイズと、マスター・テープのヴォーカル・トラックと必要最低限のバック・トラックを抜きだし世界屈指のロイヤル・フィルのオーケストラ演奏を加えるこのシリーズ、聴き慣れているはずの歌声が時にはまるっきり表情を変えて聞こえたりするのがなんとも新鮮です。
 

 

 


アルバム『ペット・サウンズ』のことを「神に捧げるティーン・エイジ・シンフォニー」とブライアン・ウィルソン自身が言っているようにビーチ・ボーイズの歌とオーケストラの親和性は高いんだろうなぁと聴く前から期待はしていましたが、もちろん曲によっての違いはありますけどおおむね楽しんで聴くことができました。

最初、通して聴いた時にこれはぴったりくるなと思ったのはブルース・ジョンストン作の「ディズニー・ガール(1957)」でした(だいたい予想できましたけど)。もともとゆったりとした演奏と歌でしたが、テープ操作でさらにピッチを落としてるのでは思えるような、春の海の波のようなのどかさ、いいですコレ。ということで『サーフス・アップ』を引っ張り出してきてオリジナルの「ディズニー・ガールズ(1957)」も聴くことに。

 

 

空は晴れ 涙は乾き
君の笑顔がみえる
暗闇は去り 柔らかい日差しがさし
僕の生活も変わっていく

言葉は今 韻を踏み
君の魂を祝福する
そして君の手にキスし
キャンディでいっぱいにしよう

現実的な話なんて 僕には似合わない
苦笑いだよ
おとぎ話とディズニー・ガール
そんな時代に戻るんだ

パティ・ペイジと夏の一日
懐かしきコッド岬
ガレージでワインを作った 幸福な日々
田舎の日陰 レモネード

そうさ ゆっくり生きるとしよう
自分の世界を変えるんだ
ちっちゃな町の
隣近所の女の子と

オープンカーと澄み切った星空
ずっと忘れていたことだ
だけど おとぎ話とディズニー・ガール
そんな時代に戻るんだ

ラヴ...
さぁリック ディヴ
さぁ父さん おはよう母さん
ラヴ...
目を覚ましなよ
大好きなあの娘をみつけたよ
ほんと素敵なんだ
だって彼女の好きなものと来たら
教会 ビンゴ・ゲームそして昔風のダンス

振り返ったら 僕はずっと君を夢見て
夜を過ごしてきた
ずっと忘れていた温もりや
ずっと望んできたことが
すべて現実になる

君に捧ぐ愛を手に入れ
一緒に生きる場所をみつけた
ここにいれば
幸福な生活になるだろう
永遠のつれあいと
いつか生まれる子供たちとともに

夜は始まったばかり
枕投げの時間
君のやさしい笑顔
おとぎ話とディズニー・ガール
そんな時代に戻るんだ


ブライアンがツアーをリタイアしスタジオでの作業に専念することになり、ツアーでのブライアンの代役を当初はグレン・キャンベルが務めることになります。しかし自身の活動のためにグレンはツアーから抜け、その後釜として参加したのがブルース・ジョンストンでした。つまりはツアーにおけるブライアンのスーパー・サブ。その後、準メンバーとなりレコーディングにも参加。ブライアンがツアーだけでなくスタジオからもリタイアし始めた『ワイルド・ハニー』からは正式メンバーとして完全にブライアンの代役を果たすこととなります。
 

キャピトル時代こそ自身の提供曲のなかったブルースですがリプリーズに移籍した『サンフラワー』以降は楽曲の提供もスタート。従来のビーチ・ボーイズとは違った新鮮な曲想がビーチ・ボーイズにとって新たな魅力となっていました。そして1971年に発売されたアルバム『サーフス・アップ』に提供されたのが「ディズニー・ガールズ」でした。

 

前作の『サンフラワー』はビーチ・ボーイズの柱であるブライアンが半ばリタイア状態の中でメンバー全員が力を出し合い作り上げたアルバムで、収録曲の「アド・サム・ミュージック・トゥ・ユア・デイ」の歌詞にもあるように、生活の中に「音楽」をちょこっとプラスしたら素敵だよっていう(今の視点で聴くと)純粋に音楽的なアルバムでした。しかし、そんな素晴らしいアルバムも売上的には大惨敗で、タイトルの「Your Day」という言葉に関して言えばビーチ・ボーイズの考える「今」と当時の音楽ファンたちの「今」に大きなズレが生じている、そんな危機感が大きくなります。
 

そんな状況を打開するために迎えられたのが、ジャーナリストとして「今」と向き合っていたジャック・ライリーという人でした。ジャックの指導のもとビーチ・ボーイズはヒップなバンドとなろうと様々な試みを行なっていきます。「ビック・サー・フェス」への参加、ウィスキー・ア・ゴー・ゴーでのライヴ、グレイトフル・デッドとのジョイント・コンサート、メイデイの反戦デモでの演奏などなど、なんとも涙ぐましい努力を行い、「おっビーチ・ボーイズちょっと変わったやんけ」と大衆に思わせた後に発売されたのが『サーフス・アップ』でした。
 


1曲目からエコロジーを歌った「水には近づくな」があり、マイクがリーバー&ストーラー「ライオット・セル・ブロック#5」の歌詞を書き直した(安直な)反戦ソング「スチューデント・デモンストレイト・タイム」なんという問題作まで収録するなど、時事的でコンテンポラリーでヒップな聴き手にも届くような意匠でアルバムは作られていました。ラストのブライアンによるタイトル・ナンバー「サーフス・アップ」(もちろん『スマイル』収録予定曲)という時代や価値観を超えた大傑作は別格として置いておくとして、ブルースの「ディズニー・ガールズ」における懐古趣味ともいえる歌詞とサウンドはジャック・ライリーによる『サーフス・アップ』のテーマとは正反対の作品に思えます。
 

前述のトピカルな楽曲たちの後に「ディズニー・ガールズ」を聴くと、時代に乗り遅れないように悪戦苦闘するビーチ・ボーイズに「新しい事がいつも素晴らしいこととは限らないんだよ」とブールースが諭しているように思えてきます。これはブルースが遅れてきたビーチ・ボーイズとして第三者的な視点で冷静にバンドのことを見ていたからかもしれません。

そんなブルースによるアルバム・コンセプトからは外れた「ディズニー・ガールズ」を敢えてアルバムに収めるビーチ・ボーイズのバランス感覚も素晴らしいなと一瞬思ったのですが、これはバランス感覚というよりは蔵出しの「サーフス・アップ」に比肩するような楽曲が他のメンバーには作れず、売上を考えればテーマからは外れるものの「名曲」といえる「ディズニー・ガールズ」を入れざるを得なかったというのが本音のような気がします。

溌売時点では懐古趣味と思えた「ディズニー・ガールズ」ですが、73年の映画「アメリカン・グラフィティ」のヒットによるオールデイズ・ブームの中、コンテンポラリーを目指すビーチ・ボーイズではなくエバーグリーンとしてのかってのビーチ・ボーイズが再評価されていくという皮肉な現象が起こっていったことを振り返って見ることのできた僕たちには、ブルースにはビーチ・ボーイズの未来が見えていたのではないかなんてことを思ってしまいます。(とか書きましたが、ブルースはこの2年後にビーチ・ボーイズをいったん首にされちゃうんですけどね・・・)
 

P.S. 歌詞の中に

パティ・ペイジと夏の一日
懐かしきコッド岬

 

という一節がありますが、懐かしきコッド岬=Old Cape Codという歌をパティ・ペイジが歌っており、実際の地名と曲名をかけているのだと思われます。
 

Patti Page -- Old Cape Cod

 


(2012年に書いたエントリーをリライトしています。)

音楽を所有する時代の終わり~如何にしてCDとDLは死んだか

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米ローリングストーン誌にのったCD愛好家としてはちょっとショックな記事。とは言えSpotifyを少し前から使い始めたこともあって、確かにCDを所有する必要はあんのか?と思いだしたのも事実。屋外だったり何かをしながら聴くのであればストリーミング、時間の余裕とくつろげる室内のスペースがあるのならばヴィニールのLP、確かにそういう時代が来ているのかも。ただし僕の場合は残りの人生も考えるといまさらLPに戻るのはなぁと断捨離に励んでいる最中。

本当に音楽フォーマットとしてのCDは死んでしまうのか?それって日本のマーケット次第だったりするのも事実、はたしてどこまで粘れるのか・・・。
 

 

 

By Steve Knopper

オースティンのウォータールーレコードに最近訪れたとしたら、ちょっと前には考えられなかったプロジェクトが行われているのに気づくでしょう。創立36年となるオースティンの音楽の中心地では24フィートのCDラックをヴィニールのためのスペースに置き換えています。  「CD発売から30年、多くの人々がそのフォーマットから移行しています。」と、ウォータールーのオーナー、ジョン・クンツは言います。「彼らはヴィニールに戻ったり、ストリーミングしたりして、それらのCDを売りに来ている。」



ストリーミングが音楽業界に、この10年で最大の利益をもたらした半面CD事業は急速に落ち込んでいます。CDの売上高は過去10年間で約4億5,000万ドルから8千9百万ドルへと80%も減少しました。テスラがCDプレーヤーを搭載しない車を発売して以来、最近ではフォードやトヨタなども続いています。 かつてCDの代わりとなっていたダウンロードは、2012年をピークに58%も急落し、利益はフィジカルの販売よりもさらに小さくなっています。

アーティストも注目されます。 ブルース・スプリングスティーンは最新アルバム「The Album Collection Vol. 2 1987-1996」では14年のVol.1と異なりビニールのみの発売で、CDのオプションはなしでした。  マムフォード&サンズやフェニックスの発売元のインディーレーベルのグラスノート・レコードの社長ダニエル・グラスは、次のように述べています。「ストリーミングの世界であり、急速に減少しているCDに代わるヴィニールの世界なんだ。

アーティストの中でも特にヴィニール支持者として際立っているジャック・ホワイトも同意見です。「次の10年は、ストリーミングそしてヴィニールの時代になると確信してるよ。車とキッチンではストリーミング、居間と書斎ではヴィニール。そんな二つの棲み分けになるだろうな。いいことだと思うよ。」

 

ではいまだにCDを買っているのは誰なんだろう?「ウォルマートの顧客だ。」グラス氏は語ります。「カントリー・ミュージック、ベスト・アルバム、サウンドトラック、ファミリー商品」の売り上げは依然として強いと付け加えてます。カントリーの世界でもクリス・ステープルトンの2ndLPは、昨年、37万3,000枚の売上を記録しました。また、ストリーミングが遅れている日本では、昨年の音楽販売の72%がフィジカルによるものでり、一部の国際市場ではCDはまだ機能しています。

 

80年代初頭に発売されたCDは、20年以上に渡り世界的にレコード・ビジネスの拡大を促しました。それはナップスターとオンライン著作権侵害、そしてiTunes Storeにより打撃を受けながらも、驚くほど弾力的に切り抜けました。グラス氏の指摘によれば、現在CDの愛好家とは、カーステレオやホームシアターシステムでSpotifyやPandoraをストリームするのではなく、CDトレイからの読み込みを好む古い聴取者を指しています。 「CDを所持するのは絶対必要ですか?」 ディスクメーカー(註:自主制作CDの会社)のマーケティングディレクター、ダン・ベイカーに尋ねました。「あなたが独立したアーティストなら、考えてもいいかな。」ベイカー氏は、過去10年間でCDの平均注文数が1,000枚から300枚に減少したことに注目している。 1,000枚のCDという大量注文でも1,000ドル、200枚のヴィニールLPは約1,800ドルです。  「ヴィニールは高価なんです」と、CD Baby(音楽販社)の副社長ケビン・ブレナーは語ります。

それでも、アーティスト、レーベル、レコード店は、CDの来るべき「死」のために何年も前から準備を進めてきました。ソニーは2011年に主要なCD工場を閉鎖し、今年初めにはインディアナ州テレホートにある別の工場において380人の労働者を解雇した。 一方、ヴィニールの販売枚数が2007年の百万枚未満から昨年の1,400万枚以上と増加したため、新しいLPの工場を立ち上げました。


「これは最近になってテクノロジーが進歩したからだ」サン・ヴォルトのマネージャー、シャロン・アニーネ氏は語ります(サン・ヴォルトは2005年のアルバム「Okemah and the Melody of Riot」のヴィニールをレコード・ストア・デイで初めて販売しました)。「CDを聴く人々にとっては簡単に聴けるわけじゃなくなってきている」。

 


2006年にヴィニールの売上高が上昇したときに専門家はたんなる流行だと考えた。もはや売上高はこの25年間で最高となり、レーベルはこれまで以上に洗練されたパッケージングに金をかけるようになりました。コンコードによる『コンサート・フォー・ジョージ』は最初ヴィニールでリリースされ、ジェフ・リンが承認したラッカーを使用していました。ライノは5枚組のLPセット『1969 グレイトフル・デッド・フィルモア・ウェスト』を発売。すぐに完売しました。ジャック・ホワイトのレーベル「サード・マン」は最近、デトロイトで独自の製造ラインを開設し35年ぶりのヴィニルーによる新譜を製造しました。「歴史的な音楽が保存されるだけでなく、新しい音楽が製造されることが今は本当に重要です」とホワイトは語りました。「ヴィニールは不変なんだ。120年前に作られたものでも今、永遠にここにある。それって美しいことだと思わないかい。」

 

ポール・マッカートニーのカープール・カラオケ

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英国人俳優のジェームス・コーデンがホストを務めるCBSの人気番組「The Late Late Show」は先週海を越えロンドンのウェストミンスターのセントラル・ホールから放送されました。コーデンにとっては故郷に錦を飾ったということでしょうか。

 

木曜日の夜のエピソードでは、サー・ポール・マッカートニーが「カープール・カラオケ」に登場しました。このコーナー中年(40歳)で小太りながら歌って踊れるコーデンの才能を活かし(?)、コーデンが運転する車にセレブな歌手たちを招き、一緒にドライヴをしながらカーステから流れるカラオケで歌いまくるというもので過去にはSワンダー、レデイ・ガガ、Jビーバー、Bマーズ、マライアなど新旧の人気歌手が登場し番組でも大人気のコーナーになっているもので、満を持してというかニュー・アルバムの宣伝も兼ねて(!?)レジェンド=ポール・マッカートニーの登場というわけです。

 

 

例によって車の中で電話をかけているコーデン。
今、リバプールにいるんだ。あなたの助けが欲しいんだ。誰かの助けがいるんだ、でも誰もいない。どうか、どうか僕を助けてよ。」と誰かに助けを求めている模様。もちろんこのセリフはビートルズの「ヘルプ!」を引用したものですね。



Help! I need somebody
Help! Not just anybody
Help! You know I need someone
Help!


電話を切りしばし待っているとサー・ポール・マッカートニーの登場です。いよいよ二人だけのマジカル・ミステリー・ツアーの始まりとなりますが、カーステから最初に流れてきたのはやはりこの歌ですよねの「ドライヴ・マイ・カー」。最初からノリノリ、運転も交互に入れ替わり、クラクションをたたくしぐさをしながら♪Beep beep'm beep beep yeah!♪の大合唱。

「最初に書いた曲を覚えている?」とコーデン。「14歳の時で「I Lost My Little Girl」という曲だったよ。」そしておもむろに歌いだすマッカートニー、これは貴重。

これを聞いたコーデンは「僕の最初の曲は「Girl Are You Ready」だったよ。」と歌いだすコーデンに「OK」とダメ出しのマッカートニー(笑)。

と話している間に車はペニーレーンに。もちろん曲は「ペニーレーン」に。ビートルズ・ファンの記念のサインでいっぱいのストリート・サインに自分もサインをするマッカートニー。放送後にはさぞかしファンが一目確認しようと集まったことでしょうね。ドライヴは続き途中に見えるランドマークを指さしながら「あそこの教会の聖歌隊だったんだ。弟はあそこで結婚式をあげた。」など懐かしそうに語るマッカートニー。途中道沿いの床屋を見つけると車を停めさせお店の中に。これも「ペニーレーン」の歌詞の“Penny Lane there is a barber showing photographs/Of every head he’s had the pleasure to know/And all the people that come and go/Stop and say Hello.”にのっとってますね。お店の中にはマッカートニーの髪を切るレノンの白黒写真が、さすがは地元。そして街角をあるきながらファンにStop and say Hello。

車に戻りペニーレーンを後にしたコーデンは真面目に語ります。

「あなたの音楽はポジティヴで喜びに溢れ愛と共生のメッセージでいっぱいです。だからかって以上に今こそ現実味があるように感じるんです。」

マッカートニーは10年は続くと思っていたグループが壊れていくことショックを覚えたと語り、そんな時に見たある夢について語ります。

「60年代、子供の時に亡くなった母が夢の中に出てきて「大丈夫よ、そのままになさい」と言ったんだ。素敵な言葉だと思った、僕を勇気づけてくれる、母は僕を肯定してくれたんだ。僕は目覚めこうつぶやいた。「母さんはなんて言った、「Let It Be」だ。今まで聞いたことない言葉だけど素敵だ」。だから僕は「Let It Be」を書いた、母さんの激励だからね。」

「レット・イット・ビー」を一緒に歌いながら涙ぐむコーデン。

「ミュージシャンだった祖父と父が僕を座らせこう言ったのを思い出す。「お前がまだ聞いたことのない最高の歌を演ってやるよ」そして「レット・イット・ビー」を演奏してくれたんだ。もし祖父が今ここにいたら、最高に大喜びするよ」

しんみりする二人のバックに「ブラック・バード」が流れ車はレンガ造りのアパートの前に。

 

フォースリン・ロード20番地。ここはマッカートニーの12歳から18歳まで暮らした家でレノンとともに初期のヒット曲を書いたところです。何十年も経っていますがマッカートニーは当時のままの部屋を懐かしそうに案内します。僕たちはここで「シー・ラヴズ・ユー」を書いたんだ、ご存知ビートルズのビッグ・ヒットさ。父はピアノを弾くミュージシャンだったから父の前で演奏してみたんだ。父は聞き終わるとこういった「いいね。でも、息子よアメリカにかぶれすぎてるな。こう歌ったらどうだ「シー・ラヴズ・ユー、イエス、イエス、イエス」。僕らの答えは「NO」だった。父のアドバイスには従わなかった。父の言うとおりにやっていたら、結果は目に見えていたよ。」

バスルームでは便座に座り「生音のエコー・チェンバーだよ、ギターを持って歌ったもんだ。」とエア・ギターで「シー・ラヴズ・ユー」を一節。人気が出ると芝生に忍び込むファンには困らさせられたと話しながら窓の外を覗くとマッカートニーの来訪を知った近所のファンの人だかりができています。最後に居間のピアノで(このアパート時代に書いたであろう)「ホエン・アイム・シックティフォー」を弾き語りしてアパートを後に。

再び車に乗り込み「ブラック・バード」を歌う二人。次は忘れていなかったニュー・アルバムの宣伝(笑)。リード・トラックである「カム・オン・トゥ・ミー」をいつものカープルのようにノリノリで。

 

そして最後の目的地である地元のパブに。ここでサプライズが仕掛けられます。カウンターに入ったコーデンは若い女性の注文を聞きます。

「レモネードだね、ついでにジューク・ボックスにリクエストしなよ。」女性がジューク・ボックスに向かうとジューク・ボックのモニター画面にはビートルズのアルバム・ジャケットが。ボタンを押し女性が席に戻るといきなりギターの♪ジャーン♪という音がしてカーテンに隠されていたステージがオープンになります。♪It's Been A Hard Day's Night♪、マッカートニー・バンドによる演奏が始まります。これを観て一瞬呆気にとられるも次の瞬間には大喜びのお客たち。これは本当にうらやましいサプライズです。一番だけのショート・バージョンで再びカーテンがしまります。

そこへカウンターのコーデンの「もっと聞きたきゃジュークボックスでリクエストだよ」。大慌てでジューク・ボックスに向かうお客たち。すべてショート・ヴァージョンではありますが「オブ・ラ・ディ・オ・ブラ・ダ」「ラヴ・ミー・ドゥ」「バック・イン・ザ・USSR」と続きます。

「ポール、何か飲むかい?」というコーデンの声に「ビール!」のリクエスト。観客の頭の上をビールはリレーされマッカートニーのもとへ、そして「乾杯!リバプール!」。ステージにあがりマッカートニーを紹介するコーデンに「ジェームス、君も一緒にもう一曲やろう。」と歌いだされるラスト・ナンバーはこれを忘れちゃいけない「ヘイ・ジュード」。最後のナナナナ、ナナナッツナーの大合唱のところはまさに大団円という感じです。

番組放映後「カープール史上最高だった」という内容のツィッターが飛び交ったようです。ほんと最高、そしてパブのお客さんがほんと羨ましい「カープール・カラオケ」でした。

 

リンゴをリスペクトすべき13の理由 by JOHN BRYANT

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本日7月7日はリンゴ・スターの78回目の誕生日です。ということで例によってネットでリンゴのことをいろいろ検索していたら、ちょっと面白い記事が出てきたので抄訳してみました。

ビートルズがデビューしてからはや55年あまり、この間ビートルズについては語りつくされた感もあるのですが、いまだにリンゴ・スターについてはドラムも大して上手くもないのにビートルズの一員となってスパースターになったラッキーな男みたいなことを思っている人が少なからずいるようです。もちろん、そんなことはない、リンゴのドラムがあったからこそのビートルズだと思っている人はたくさんいます。たとえば、好きなロック・ドラマーのランキングがあれば必ず上位に来るロック的なけれんたっぷりのジョン・ボーナムやキース・ムーン。彼らがリンゴの代わりにビートルズにいたら・・・。少なくともリンゴが記事中にあるような正確なテンポを刻めるドラマーだったからこそ、ビートルズのソングライターたちは様々な実験に踏み出すことができ、60年代の多くのバンドのトップランナーなることができたんだと思います。

また、これはリンゴの素晴らしさというよりはエプスタインを含めたビートルズのすばらしさと言えるのでしょうが、メンバー四人を均等に扱ったということがあります。デビュー・アルバムからジャケットに写る4人のメンバーは横並びで誰かが前面に出たり大きくフィーチャーされることはありませんでした。ラスト・アルバムなど完全に4分割ですからね。この4人を均等にということがあったから記事中にあるようにステージではリンゴのドラムを台に乗せメンバー3人より高く配置して、観客からリンゴがはっきり見えるようにという配慮がなされていました。もちろんTVでもリンゴのパフォーマンスははっきりと確認できたために、リンゴの使用していたラディックのドラムが売れに売れてロック・ドラムの代名詞となり、リンゴの「マッチド・グリップ」がロック・ドラマーのスタンダードになっていったのです。

そんなこと含めリンゴ・スターがビートルズにいた意味を再認識いただければなぁと思います。
 

>リンゴをリスペクトすべき13の理由 by JOHN BRYANT


リンゴスター、地球上で最も幸運な才能。 彼がやったことは、笑って頭を揺らしたことだけ。あぁ、そして20世紀最高の才能のミュージシャン/ソングライター3人のためにビートをキープすること。リンゴがビートルズの成功に果たした役割を考えるとき、他に思いつくことはあるかい?リンゴは本当に違ってたのだろうか?『アンソロジー1』を聞くと、ピート・ベストとあと二人のドラマーが20曲以上演奏しているのが聞ける。リンゴは適切な時期に適切な場所にいあtんだろうか?以下の項目は、イメージの裏側を知る手助けになるでしょう。


1. リンゴはTVで見ることのできた最初の本物のロック・ドラマーでした。エルヴィス、ビル・ヘイリー、リトル・リチャード、ファット・ドミノ、ジェリー・リー・ルイスなどのすべてのロック&ロール・ドラマーたちはおもにR&Bのドラマーでした。そして40年代から50年代のスイングドラムのスタイルから、よりうるさくてより「ロック」するサウンドに向かっていき、「抱きしめたい」へと結びついていきます。彼らはタキシードとスーツを着こみ、軍隊やオーケストラ、ジャズドラマーの 「伝統的な」方法でドラムスティックを握っていました。リンゴは、ロック&ロールの「ロック」に重点を置くためにはパワーが必要だということを世界に示しました、彼はハンマーのように両方のスティックを握り、ロックミュージックの基礎を築いたのです。

 



2. リンゴは、ドラムスティック左右対称に握る「マッチド・グリップ」を一般的にして、ドラマーのスティックの握る方法を変えました。リンゴ以前の西洋世界のほとんどすべてのドラマーは、「トラディショナル・グリップ」でスティックを握っていました、左手のスティックは箸のように握られています。「トラディショナル・グリップ」はもともと軍楽隊のドラマーによって開発されたもので、肩から吊るされたドラムの角度に対応するために考えられました。リンゴは左ききで右手に合うように左手の握りを変えたので、両方のスティックはハエ叩きのように握られます。 ロック・ドラマーに呼応してマーチング・バンドやオーケストラ・パーカッショニストも、現在は「マッチド・グリップ」を採用しており、ドラム・メーカーはそれに合うストラップやアクセサリーを開発しています。



3. リンゴは、他のメンバーと同じように観客から見えるように、高い台の上にドラマーを置くということを始めました。リンゴが1964年にエドサリバンショーに登場したとき、ビートルズの他の3人よりも高い位置で演奏し、物凄い数の聴視者に「ドラマーが存在する」ことを印象付けました。エルヴィスのドラマーは背中のコレクションを見ていたのです。


4. 「熱狂的ファン」のドラマーたちは、リンゴがラディック製のドラムを演奏していたことに気付き、すぐに楽器店に赴き、何千ものドラムセットを購入し、おかげでラディックはロックンロール・ロラムの代名詞になりました。



5. リンゴは録音されたドラムの音を変えました。『ラバーソウル』(1965/12/6日発売)の時代、ドラムセットのサウンドはよりクリアになり始めました。アビー・ロード・スタジオのエンジニアの助けられながら、リンゴは、ドラムのチューニングを下げるというドラムの新しいサウンドを普及させました。ミュート・リングで消音を行い、それぞれのドラムにマイクを置くことで耳元で聞こえるようにします。

 

6. リンゴはほぼ完璧なテンポを持っています。  これにより、ビートルズは50〜60テイクを録音し、最高のバージョンを得るために同じ曲の多数のテイクの異なる部分をひとつに編集できました。今日、電子メトロノームを使って行っていることを、  ビートルズはリンゴの店舗を頼りにして、よく知られた名曲を何十回も行えたのです。 彼にこの能力が無かったら、ビートルズの録音はまったく違ったものになっていたでしょう。

7. ビートについてのリンゴの「感じ方」はポップ・ロックのレコード制作者やドラマーにとってのスタンダードとして機能しています。それはリラックスしたもので、退屈なものではありません。かっちりしているけど、いつだって息遣いが感じられる。 そして、どのタイミングでどのように叩くのかという決断は、リンゴの膨大な音楽的嗜好からきています。ほとんどのレコーディング・セッションでは、ドラマーのパフォーマンスは、他のメンバーにとっての指標として機能します。音楽スタイル、ダイナミクスさ、および感情は、ドラマーによってフィルタリングされます。ドラマーはピッチャーであるソングライターにとってのキャッチャーです。もしドラムのノリが悪目れば、他のメンバー演奏は、はなから決まってるようなものです。ビートルズにおいてリンゴにそのような問題があったことはほぼ皆無です。



8. .リンゴはドラムソロが嫌いです、これは多くのファンにとって評価ポイントとなりません。ビートルズ時代にソロは1回だけ。8小節のソロは『アビーロード』のB面の「ジ・エンド」で登場します。たしたソロではないと言う人もいるでしょうが、はたしてそうだろうか。電子メトロノームを126BPMに設定して、それをリンゴのソロと一緒に演奏すると、ふたつは正確に一致しています。
 


9. .リンゴの変拍子の演奏能力は、一般的な作曲から未知の領域へ分け入ることを手助けしました。2つの例をあげると、7/4拍子の「オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ」と11/8、4/4でリピートされる「ヒア・カムズ・ザ・サン」、コーラスでは7/8拍子です。
 

 

 

10. リンゴは多くの異なったスタイルの音楽への熟練は、例えば2ビートのスウィング(「ホエン・アイム・64」)、バラッド(「サムシング」)、R&B(「リーヴ・マイ・キッチン・アローン」や「タックスマン」)、そしてカントリー(『ラバー・ソウル』)、ビートルズがいろんな方向に音楽性を広げることをたやすくしました。

11. リンゴが芸名を持ってチャンスを待っているラッキーな男だったという考えは間違いです。実際には、実際には、 ビートルのプロデューサーのジョージ・マーティンがオリジナルのドラマー、ピート・ベストとの最初のセッションの後に不満を表明した時にポール、ジョージ、ジョンが、リヴァプールの最高のドラマーであると考えた人を雇うことを決定しました。彼の人格はおまけでした。



12. リンゴの力量が足らずビートルズの多くの曲で叩いていないという噂もまた間違っています。実際、彼は発表されたすべてのビートルズのレコーディング(『アンソロジー1』をのぞく)で演奏しています、次に挙げた曲を除いて。「バック・イン・ザ・USSR」と「ディア・プルーデンス」はリンゴが一時的にビートルズを脱退していたのでポールが叩いています。「ジョンとヨーコのバラード」ではリンゴが映画撮影でお休みのためふたたびポールが叩いています、そして1962年の「ラヴ・ミー・ドゥ」は セッションドラマーアンディ・ホワイトをフィーチャーしていました。



13. 
ビートルズが分裂してお互いから距離を置いていました。 ジョン・レノンは、彼の最初のソロ・アルバムのドラマーにリンゴを選びました。 かってジョンはこう言いました。「もし俺が何かやろうと思ったら、リンゴはどこへ行くべきかを知っている、そんな感じなんだよ」。 偉大なソングライターはドラマーにお願いしなくてもよかったのです、笑って頭を揺らすだけで。
 

 

 

ジョン・ブライアントのあとがき:
 
この記事は、リンゴを幸運なだけの平均的なドラマーとして描いたダラス・モーニング・ニュースの記事に答えて書いたものです。 現代のポップミュージックの文脈の中で書いていて、30年代、40年代、50年代のジャズドラマーとリンゴを比較するものではありません。確かにリンゴは高い台に乗った最初のドラマーではありませんでしたが、彼の視線は彼がバンドの同等のメンバーであると宣言しました。当時のドラマーはサイドマン扱いだったので、これは重要なことです。リンゴは「マッチド・グリップ」で演奏したりドラムを叩いたりする 「最初の」ドラマーではなかったが、ビートルとしての露出はリンゴを大衆へのリーダーにしました。

 

人生は喜びに満ち ラジオからは旧い曲が流れている バッファロー・スプリングフィールドふたたび

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同じ1945年生まれで音楽の道を目指していたトロント生まれのニール・ヤングとダラス生まれのスティーヴン・スティルスが初めて出会ったのはスティルスが65年に参加していたザ・カンパニーというフォーク・グループがカナダのライヴ・ハウスをツアーをした時でした。白人とは思えないソウルフルな歌声を聴かせるスティルスにヤングは感激し、自己紹介の後意気投合。二人はニューヨークでの再会を約束します。

その後、エレクトラ・レコードのオーディションを受けるためNYに赴いたヤングはスティルスのアドレスを訪れます。しかし、スティルスはバンドを組むためLAに引っ越した後でそこにはオウ・ゴー・ゴー・シンガーズ以来のスティルスの盟友リッチー・フューレイが住んでいました。フューレイとも意気投合したヤングは自作曲「クランシーは歌わない」をフューレイに教えトロントに戻ります。

オーディションに失敗しトロントに戻り悶々としていたヤングは友人宅でブルース・パーマーと知り合います。パーマーに誘われヤングはマイナー・バーズThe Mynah Birds にギタリストとして参加。”ブラック・ミック・ジャガー”とあだ名されたボーカルのリッキー・ジェイムズ・マシューズ(81年に「スーパー・フリークSuper Freak」を大ヒットさせるリック・ジェイムス)の人気もありモータウンと契約。
 

 

 


66年初頭にジェイムスとヤング共作の「イッツ・マイ・タイム」をシングル曲としてレコーディングし成功するはずのマイナー・バーズですが、録音の為に訪れたアメリカで、アメリカ市民のジェイムスはヴェトナム戦争の徴兵忌避で逮捕され、その2日後にはバンドへの前払金で麻薬を買い込み一発決めたマネジャーがオーバードーズで死亡。あっとういう間にバンドは空中分解、録音された「イッツ・マイ・タイム」もお蔵入りとなります。

途方にくれたヤングはパーマーといっしょにLAに行くことを決めます。当時のLAは音楽のトレンドの発信地であり、そこに行けばなんとか道が開けるという楽観的な考えでした。バンドの器材を全て売り払い、53年式ポンティアックの霊柩車を中古で買いこみ仲間4人(女3人男1人)とともに国境を越えます。ヤングは過去にも器材を運ぶのに便利ということで霊柩車に乗っており、バンド仲間でヤングを知る者にとってはヤングの愛車=霊柩車と言うイメージが出来上がっていていました。

鳥肌音楽 Chicken Skin Music
(このビューイックのイメージってどこかで見たことあるなぁと思ったら、ヤングのオフィシャル・サイトのトップ画に使われていたものでした。ヤングの原点ということなのでしょうね。)

アメリカに入ったヤング御一行はシカゴから「ルート66」の歌に従いアメリカ大陸をひたすら横断しました。

$鳥肌音楽 Chicken Skin Music-
>When you make that California trip Get your kicks on route 66
カリフォルニアへ旅するのなら 国道66号線を突っ走れ!

 

 

 

LAについたヤングとパーマーはバンドを組むためにLAに来ているはずのスティルスを探します。ライヴ・ハウスやヒッピーのたまり場を訪ね歩きますが見つけることは出来ず、ひょっとしたらヒッピーの聖地となっていたサンフランシスコにいるのかもと、サンセット・ブールバードを北上しシスコに向かいますが途中で酷い渋滞につかまります。

サンセットを走っていると渋滞につかまった。もしかするとサンフランシスコまで行くにはガソリンが足りないんじゃないかとういう気はしていたが、なんとかなるだろうと思っていた。すると誰かの叫ぶ声が聞こえた。

「おい、ニール!!! おまえなのか?」

わたしは霊柩車の運転席の窓から顔を出した。スティルスだ!わたしたちは車を降り、サンセット・ブルーヴァードのどまんなかで、あたりをはばからず抱き合った。クラクションが鳴り響く!わたしたちの耳にはそれが、みんなの祝福のように聞こえた!なにかがはじまろうとしていたが、それがなんなのか、わたしたちにはわからなかった。だがそれは実のところ、クソッたれなバッファロー・スプリングフィールドだった。
 「ニール・ヤング自伝①」より

スティルスの車にはリッチー・フューレイも同乗しており、こんな風に回想しています。

1ヶ月あまり、ぼくたちは練習を続けながらミュージシャンを探していた。でも、これと思う奴は見つからなかった。そんなある日サンセット通りをサンフランシスコに向けて走っていくニールに出くわしたのさ。ぼくたちは白のヴァンに乗っていた。そして反対側をカナダのナンバー・プレートをつけた黒の霊柩車が走っていくのを見つけたんだよ。

ニールが黒の霊柩車を乗り回しているというスティルスの話をすぐ思い出してね、ぼくたちは彼を追いかけた。ぼくたちがアレンジした「クランシー」をとりあえず聴いてくれるように説得したんだ。彼は気に入ってくれて、彼とベース・プレイヤー(ブルース・パーマー)はグループの参加を決心してくれた。

ジョニー・ローガン著「孤独の旅路ニール・ヤング」より

なんという偶然。ですがその偶然が生まれたのは「ニールが黒の霊柩車を乗り回している」という情報がスティルスやフューレイにインプットされていたからで、もしニールが普通に箱バンにでも乗っていたらこの偶然は起きていない、これは「必然」だったということなのでしょうね。

サンセット・ブールヴァードの出会いの後スティルスとフューレイが居候している家に招かれたヤングはフューレイの回想にあるように二人がアレンジした「クランシーは歌わない」を聞かされます。
 


ニューヨークでフューレイに教えた自作曲をレパートリーとしていたことにヤングは感激し、パーマーを含めた四人は意気投合しバンド結成を決意。最後にディラーズの音楽性の方向転換であぶれていたデューイ・マーチンがドラムとして参加しバッファロー・スプリングフィールドが結成されます。

 

以上がニール・ヤングとスティーブン・スティルスの伝説の出会いです。

そして、10年後の1976年、この時の出会いをニール・ヤングは歌にしてスティルスとともにレコードにしています。それがスティルス・ヤング・バンドの「太陽への旅路」です。
 

 

 

俺たち ずっと一緒にやってきた
トランクにいっぱいの思い出を
ずっと詰め込みながら
嵐の中だって やってきたじゃないか
走り続けなよ

いつまでも 
いつまでも 走り続けてくれ
どんな変化が訪れようとも
お前のクロムのハートは
太陽の下輝き続ける
いつまでも 走り続けてくれ

そう 思い出すのは62年
ブランド・リバーに戻った時のこと
そこでお前に会ったんだ
だけどすっかりポンコツになっていて
シフトさえもままならなかった
いつまでも 走り続けてくれ

いつまでも 
いつまでも 走り続けてくれ
どんな変化が訪れようとも
お前のクロムのハートは
太陽の下輝き続ける
いつまでも 走り続けてくれ

たぶん ビーチ・ボーイズが
ラジオからは流れていて
”キャロライン”なんかを口ずさみながら
(おー キャロライン だめだよ)
人気のない海辺の道を下っていく
いい波を追いかけながら

いつまでも 
いつまでも 走り続けてくれ
どんな変化が訪れようとも
お前のクロムのハートは
太陽の下輝き続ける
いつまでも 走り続けてくれ




>お前のクロムのハートは
太陽の下輝き続ける
いつまでも 走り続けてくれ

 

「孤独の旅路Heart Of Gold」と共通するテーマを持った曲であることがこの一節から分かると思います。ただここで歌われているハートはゴールドではなくクロムのハート、クロムめっきされたハートとなっています。ヤングが車好きということを知っていればこれはクロムめっきされたエンジンのことだと気が付くことかと思います、そうこの歌はヤングがスティルスと再会を果たした66年当時に乗っていた黒い霊柩車のことを歌っている曲なのです。

>俺たち ずっと一緒にやってきた
トランクにいっぱいの思い出を
ずっと詰め込みながら
嵐の中だって やってきたじゃないか
走り続けなよ

「ずっと一緒にやってきた」のはヤングと霊柩車のことでもあり、バッファロスプリングフィールドを結成した後ではスティルスとのことでもあるのでしょう。二人は愛憎相半ばとばかりに、スティル・ヤング・バンドまでの10年間くっついたり離れたりを繰り返し、何度も嵐のような時期を過ごしています。

 

>たぶん ビーチ・ボーイズが
ラジオからは流れていて
”キャロライン”なんかを口ずさみながら
(おー キャロライン だめだよ)
人気のない海辺の道を下っていく
いい波を追いかけながら



バッファロースプリングフィールドはLAのバンドだったのでカーラジオから流れてくるのはやっぱりビーチ・ボーイズなのかとは思うのですが、なんで数多いビーチボーイズ・ナンバーの中から「キャロライン・ノー」を選曲んだんだろう?LAの海辺の道を走っていることを表したいのであれば「サーフィンUSA」とか、車の歌なんだから「ファンファンファン」とか、もっと適当なヒット曲でも良かったんじゃないのか?ということがずっと不思議でした。

今回改めて調べると、サンセット大通りで二人が再会した日は1966年の4月6日とされていることが分かりました。そして『ペット・サウンズ』からの先行シングルでありながら何故かブライアン・ウィルソンのソロ名義だった「キャロライン・ノー」が発売されたのが3月7日で最高位32位といちおうTOP40ヒットにもなっていますから、発売1か月後の4月6日ころにはラジオでけっこうオンエアされていたことが考えられます。つまり、あえて「キャロライン・ノー」を選んだのではなくて実際に再会の日に霊柩車のカーラジオから流れていたということだったんじゃないでしょうか。ついでに分かったのは二人が再会したサンセット大通りと聞くとハリウッドのど真ん中というイメージがあるのですが、マリブへと向かう海沿いの道も広い意味での「サンセット大通り」のようなので、「人気のない海辺の道」というのはまさに「サンセット大通り」のことだったんじゃないのかなと。



並び立つ二匹のバッファローが「これぞ76年式のバッファロスプリングフィールド」と誇らしげに宣言するかのようなイラストにつつまれたアルバムを完成させた二人は、6月23日から全米ツアーを開始しますが、わずか9日間でヤングはツアーから離脱してしまいます。スティルスに宛て有名な電報一通を残して。「親愛なるスティーブン、自然発生的に始まったことがこんな形で終わるのは滑稽だね。桃を食べな、ニールより」
 

結局二人の愛憎半ばする友情関係の「憎」の部分はクロム・メッキでは隠しきれなかったということなのでしょうか。

この仲違いを知った後で引用された「キャロライン・ノー」の歌詞をあらためて眺めると、
 

 

 

>長い髪はどうしちゃったの
僕が知っている君はどこにいったの
しあわせを忘れてしまったみたいだ
あぁ キャロライン なんで


「長い髪はどうしちゃったの」ってスティルスへの嫌味かと思ってしまいます。
「僕が知ってる君はどこにいったの」とか二人の別れを予感させる歌詞だなぁ、よりによってどうしてこの曲にしちゃったんだろうと思ってしまいます。


PS. 20世紀最後の年には愛憎半ばする友情関係の「愛」の部分が頭をもたげたのか、その名も「バッファロ・スプリングフィールド・アゲン」という名の曲を発表しています。
 

 

 

かって
ロックンロール・バンドで演奏していた
だけど解散してしまった
僕らは若く野心に満ちていて
仲間を引き裂いてしまった
今 僕には言えないよ
誰が正しく誰が間違っていたかなんて

目の前に広がる芝生の上の
女の子や男の子を眺めながら
午後の陽光の中演奏をする
人生は喜びに満ち
ラジオからは旧い曲が流れている

バッファロー・スプリングフィールドふたたび

 

ラジオから流れる旧い曲は何なんでしょうね?ひょっとしたら「太陽への旅路」かもね。

 

 

 

ドゥ・ワ・ディディ・ディディは二匹目のドジョウ?

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そうか「ドゥ・ワ・ディディ・ディディ」ってクリスタルズの「ダ・ドゥ・ロン・ロン」のヒットに乗じた二匹目のどじょう狙いだったけどジ・エクサイターズでは見事に外れちゃったのが、瓢箪から駒でマンフレッド・マンで大ヒットしたのか、知らなかったー。

と書いてもなんのことかわかんないですよね。始まりはフィル・スペクターがクリスタルズ用の新曲を探していたところから。1963年、NYでスペクターのアレンジャーを務めていたアニー・ゴーランドが即興でピアノ演奏したフレーズが頭に残っていたスペクターはLAのゴールド・スター・スタジオにジェフ・バリーとエリー・グリニッチを呼んでフレーズを曲に仕上げるように指示します。バリー/グリニッチのおしどりコンビは大急ぎで曲を仕上げますが歌詞が思いつかず、とりあえず間を「Da Doo Ron Ron」という意味のない言葉でつないでスペクターに聴かせたところ、面白いからそのままでいいということになり、それどころかタイトルまで意味のない「ダ・ドゥ・ロン・ロン」にしてしまいます。

 

月曜日彼にあってからずっと彼のことばかり
ダ・ドゥ・ロン・ロン・ロン ダ・ドゥ・ロン・ロン
彼の名前はビルと教えてもらった

ダ・ドゥ・ロン・ロン・ロン ダ・ドゥ・ロン・ロン

 

えぇ 彼のことばかり
そう 彼の名前はビル
そして家に連れて行ってくれた
ダ・ドゥ・ロン・ロン・ロン ダ・ドゥ・ロン・ロン


典型的なボーイ・ミーツ・ガール、否ガール・ミーツ・ボーイの他愛のないラヴ・ソングなのですが、見事に全米3位となる大ヒットになったのは、やはりスペクターのひらめきのおかげと言えるのではないでしょうか。ソニー・ボノによればスタジオでスペクターはボノに曲を聴かせながら「ソニー、ちゃんと間抜けっぽく聞こえたか?」(dumb enough?)と確認していたそうで、革命的なサウンドづくりに取り組みながらも自分の曲のリスナーは十代の少年少女であることをちゃんと意識していたことがみてとれます。♪ダ・ドゥ・ロン・ロン♪という仮歌の歌詞をそのまま残したのはスペクターにとっては「ひらめき」というよりは既定路線だったのかもしれません。

 

「ダ・ドゥ・ロン・ロン」には十代の少年少女を意識して完璧なものよりちょっと間が抜けたものをというエピソードは他にもあります。「ダ・ドゥ・ロン・ロン」は例によって覆面シンガーとしてダーレン・ラヴを使って録音が行われています。「ヒーズ・ア・レベル」でクリスタルズの覆面シンガーとしてダーレン・ラヴ(当時はダーレン・ライト)を使って以来スペクターは自分の目指すサウンドにぴったりの声量と正確なピッチのラヴの歌声に惚れこんでいましたが、他愛のないボーイ・ミーツ・ガール・ソングの「ダ・ドゥ・ロン・ロン」のリード・シンガーとしては籐が立ちすぎているし(当時22歳)、歌もうますぎましたし、そして何よりもスペクターがラヴを使うことに飽きてきていました。そんな時クリスタルズのメンバーの中で最年少のララ・ブルックスのパンチの効いた歌声を聴いたスペクターは「この声だ」とまたまたひらめきます。早速スペクターは録音されたテープからラヴのボーカル・トラックを消去しあらたにブルックスのボーカルを録音しレコードを完成させます。このヴォーカル・トラックの入れ替えについてはラヴにはいっさい知らされていなかったようで、シングル発売後にチャートを急上昇しラジオでかかる「ダ・ドゥ・ロン・ロン」を聴きながらどんな想いをいだいていたのでしょうか。

 

カットされたトラックもあれば逆にカットされずに生き残ったトラックも「ダ・ドゥ・ロン・ロン」にはあります。それはスティーヴ・ダグラスによる素晴らしいサックス・ソロでした。「ダ・ドゥ・ロン・ロン」ではバーニー・ケッセル、トミー・テデスコ、ラリー・ネクテル、レオン・ラッセル、ハル・ブレインといったおなじみのレッキング・クルーのメンバーが参加していますがバンマスを務めたのスティーヴ・ダグラスで、それもあってか気合の入った素晴らしいサックス・ソロを披露しています。しかしスペクターは新たなヴォーカル・トラックを追加する際にサックスの上にヴォーカルを被せようとします、それをダグラスがなんとか説得し完成版にはサックス・ソロが残ったというわけです。

そしてこのサックス・ソロをラジオにかぶりついて聴いていたと思われるのが14歳のブルース・スプリングスティーン少年だったのは間違いないと思います。

 


少々、横道にそれてしまったので話を戻します。まったく意味のない歌詞でも、というか意味のない歌詞だからこそやりようによっては少年少女のハートを鷲づかみにできるというスペクター流のヒット曲製造法を横で見ていたバリー/グリニッチはUAレコードでプロデュースを行っていたジェリー・リーバーとマイク・ストーラーから「テル・ヒム」のヒットで知られるジ・エクサイダースの新曲を依頼された際に、あえて意味のないフレーズとタイトルを持つ歌を作ります。それが「ドゥ・ワ・ディディ」でした。
 



あいつが通りを歌いながら歩いていく
♪ドゥ・ワ・ディデディ、ディデディ、ダン・ディデディ・ドゥ♪
指をならし シャッフルで歩きながら歌う
♪ドゥ・ワ・ディデディ、ディデディ、ダン・ディデディ・ドゥ♪


あいつはいかしてるし ゴキゲンな男
あいつはいかしてるし ゴキゲンな男

わたしはあっという間に心を奪われた

♪ドゥ・ワ・ディデディ、ディデディ、ダン・ディデディ・ドゥ♪はハミングみたいなので「ダ・ドゥ・ロン・ロン」のようなまったく意味がない言葉でもないという気はしますが、その辺の中途半端さが響いたのかはたまたティーン向けにしては少々黒っぽ過ぎたのかエクサイターズのシングルは78位という「ダ・ドゥ・ロン・ロン」とは比べ物にならないチャート・アクションに終わってしまいます。納得がいかないバリー/グリニッチは自分たちのグループ=ザ・レインドロップスでセルフ・カバーして発表しようとします。そんな折に飛び込んできたのが英国のビート・バンド、マンフレッド・マンが歌う「ドゥ・ワ・ディディ・ディディ」でした。 

 

 

64年初めのビートルズの「抱きしめたい」の大ヒットから始まったブリティッシュ・インヴェイジョンの流れに乗ってアメリカ進出を目指していたマンフレッド・マンが参考にしたのはビートルズがやっていたアメリカのガール・グループのカバーでした。そうして適当な楽曲を探していた彼らが目をつけたのはマイナー・ヒットではありますが♪ドゥ・ワ・ディデディ、ディデディ、ダン・ディデディ・ドゥ♪という意味のないフレーズが印象的だったエクサイターズの「ドゥ・ワ・ディデディ」でした。オルガンを全面にフィーチャーしキャッチーなポップ・ソングに生まれ変わりタイトルも「ディディ」を一個プラスした「ドゥ・ワ・ディディ・ディディ」に変更されたシングルは最初英国で1位を獲得し、逆輸入されたアメリカでも64年の10月17日に見事1位を獲得し年間チャートでも15位というビッグ・ヒットとなりました。

 

男性版で歌われるマンフレッド・マンのカバーをグリニッチが聴いて、最初は不快な気分になったのですが、すぐに思い直したといいます。「ブリティッシュ・インヴェイジョンの中にあって、この曲はひょっとしたら幸運のお守りなのかも知れない、って思った。そしたら本当になった。」

まさに瓢箪から駒の出来事だったんじゃないでしょうか。


おまけ、意味のない歌詞って子供もすぐ覚えちゃうでしょうね・・・。

 

 


 

デヴィッド・クロスビー、CSNY再結成について「ニールは金になる」

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長い時をやってきた
長い時が過ぎていくだろう・・・

なんとも長く
長く思える
長い時に思える
そうさ 長く 長く 長く 
長い時 夜明け前の

 

長い時を一緒に過ごし、この先も最後まで長い時を共に過ごすだろうだろうと思われていたCSNYが修復不可能な喧嘩別れになって2年、再結成の噂は起こるものの特にクロスビーとナッシュの仲はこじれまくっているようで未だ実現の気配はなし。

張本人ともいうべきクロスビーの最新インタビューの記事がありましたので抄訳してみました。

 

David Crosby on CSNY Reunion: ‘Neil’s in Charge’ from bestclassicbands.com

https://bestclassicbands.com/csny-reunion-2018-8-1-18/ 
 

>「2万の人々がCSNYをスタジアムに観にきているとそのうち1万人はニールを観に来ている。彼は金になるのさ。僕は違う。彼がやりたくなったら、僕たちに電話する。忙しくなきゃ、僕はやるだろうね。」

「再結成するってこと?」

「あぁ、ニールが一緒ならね。CSNはやらない。CSNYだったらやる。」
 

怒り心頭なのかと思えば、ちゃんと冷静に析分してますやんクロスビーさん。むしろナッシュの方が感情的になっているのかな。いずれにしてもニール次第といえば、そんな気もしてしまいます。

 

以下記事の抄訳です。
 

どのメンバーが話すかによってクロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングの再結成は「ありえない」から「おそらく」までの幅がある。8月1日にアップされたデヴィッド・クロスビーへのインタビューのポッドキャストでのクロスビーの見解は「おそらく」である。
 
インタビューは長年ラジオ・パーソナリティを務めコラムニストであり作家で、「TheLarsonPage.com」というポッドキャストをプロデュースしているキース・ラーソンによって行われた。その中でクロスビーは他のメンバーが自分に対して「僕みたいなやつはいない」という敵意をもっていることを認め、再結成についてはニール・ヤング次第「彼がやりたいと思ったら、電話してくるだろう」と語った。
 
 
2018年現在、4人のメンバーのコンサート・ロードはまさに「フォー・ウェイ・ストリート」だ。クロスビーは現在進行形のバンドで演奏、,スティルスは長年の友人ジュディ・コリンズと共演、ナッシュはバンドと共にキャリア全般を振り返る、そしてヤングはクレイジー・ホースを再結成したりプロミス・オブ・リアルと組んだりソロで活動したりと様々な構成で コンサートを行っている。
 
8月14日で77歳になるクロスビーはかってと同じように厄介だ。彼はユーモアと皮肉そして素直さを組み合わせた幅広い意見をしばしば、時には一日何回となく、自由社会のリーダーたちよりもひんぱんにツイートしている。
 
ラーソンは.CSNYの再結成の可能性についてクロスビーに訊いている。
 
「それは死んでしまった問題だと思う。そのことについてみんなもう一度考えようとしているとは思えない。みんな僕を嫌ってるし、正直言って前向きに考えようとしてるとは思えない。」
 
クロスビーは自分の現在のツアー活動について満足してることを語る。「僕はエレクトリックとアコースティックの2つのバンドを持っている。エレクトリック・バンドのメンバーは息子のジェームス、キーボードプレイヤーで僕より優れたミュージシャンだ。ジェフ・ピーヴァーは世界で一番のギタリストだ、レイ・チャールズと一緒にやっていた。スティーヴ・ディスタニスラオ、彼はデヴィッド・ギルモアのバンドにいた、ミシェル・ウィリスは僕が聞いた中では最高のシンガーの一人だ。そしてマイ・エイガンはエストニア出身で自分のジャズ・バンドでベースを弾いている。彼女は輝いている。」
 
ラーソンは彼の長年のバンド・メイトについてもう一度訊ねます。 「なんでみんなあなたを昔のように好きじゃないんだろう。」
 
 
クロスビーはいったん間をおいて答えました。 「分かるよ、君がそのこと訊かなきゃいけないってこと。」彼は続けます。「意気投合してバンドを組んだ時は、お互い一種の恋におちたようになってお互いの才能を好きになり全てのことにいちいち興奮するんだ。それが僕たちがバンドを始めた理由だし僕たちはくそったれなくらいに良い関係だった。とてもいい仕事をした。いい音楽を作っていた。40年たって「スモークたいてヒット曲やろうぜ」みたいにバンドが退化しちゃったら、楽しくもなんともない。彼らは僕が好きじゃないし、僕は違ったタイプの音楽がやりたかった、彼らが好きなやつよりはもっと複雑なやつだ、そのことでいつも摩擦が生まれた、で僕はここは僕の音楽をやる場所とは感じられなくなった、レコードではうまくやってたけど。僕はよりよいプレイヤーが必要だった。でも機能しなかった。もう待てなかったんだ。」
 
「僕はニールのそばにいて彼が心を変えるのを待つことはできなかった。彼はたいしたやつだよ。分かってくれないか、2万の人々がCSNYをスタジアムに観にきているとそのうち1万人はニールを観に来ている。彼は金になるのさ。僕は違う。彼がやりたくなったら、僕たちに電話する。忙しくなきゃ、僕はやるだろうね。」
 
「再結成するってこと?」
 
「あぁ、ニールが一緒ならね。CSNはやらない。CSNYだったらやる。」

 
「どうして?」
 
「ニールは音楽的に優れているからね。冒険的な男だし、限界に挑戦している。魅力的なミュージシャンだから一緒に仕事していて楽しいんだ。彼は僕と仕事したがってるとは思えない、だから待てないんだ。ある程度時間が残されているとはいえ、たしたことはない。僕は76歳だ。平均寿命は来ている。こう言えるんだ、多くの時間が僕にあるとしても、それをどう使うべきか僕は知っている。」
 
「10000万回「ロング・タイム・ゴーン」を歌ったとしたら、あなたはそのことを楽しめると思いますか?」
 

 

 

「そんなこと考えたこともない。僕は君が聴いたことがないだろう三枚のレコードを作った。『CROZ』『Lighthouse』そして『Sky Trails』。それらを聴いてもらえれば、僕の言っていることを分かってくれるだろう。僕が作った中で最高の三枚だ。そして僕のパソコンの中にはもうひとつのアルバムが用意されているんだ。」

 

 

 


夜をぶっとばせ お巡りさんもぶっとばせ

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グリン・ジョンズの回顧録「サウンド・マン」を例によって図書館で借りて読んでいます。まだ1/3程度なのですが、とにかく「へぇー」というエピソードが次から次へと出てきて楽しい一冊です。グリン・ジョンズというとストーンズのエンジニアとして有名ですが、デビュー前のメンバーだったイアン・スチュワートと仲が良く一緒に部屋をシェアしていたんですね、知りませんでした。ストーンズからみのエピソードで面白かったのが「夜をぶっとばせ」についての秘話。「夜をぶっとばせ」といえば、エド・サリバン・ショーでその歌詞がわいせつだということで本番では歌詞を変えて歌わされたというエピソードが有名ですが、録音時にも危機一髪の出来事があったのでした。


RCAのスタジオで録音されたバック・トラックをロンドンに持ち帰り、オリンピック・スタジオでミック・ジャガーのヴォーカルをオーバー・ダブしていた時に突然スタジオに警官2人が現れます。「サウンド・マン」には約3ページに渡りこの時のエピソードが書かれています。長いので要約すると以下のような経緯になります。



 

 1966年のアルバム『ビトゥイン・ザ・バトンズ』の頃からストーンズのセッションは主に夜8時ころから始まり翌朝の8時頃まで続くようになっていた。ある日曜の午後、オリンピックのスタジオ1で「夜をぶっとばせ」のミック・ジャガーのヴォーカルを録っていた。バック・トラックは録音済みだったので、その日のスタジオにいたのはミック、アンドルー・オールダム、アンドルーの運転手のエディ、わたし(グリン・ジョーンズ)とアシスタントだけだった。スタジオの中にはヴォーカル・ブースがあり、ブースの正面はこちらを向いていて、囲いがなかった。スタートから20分ほど経ちミックも乗って来てジョイントを決めながら録音は続いていた。そんな時にスタジオ正面扉がいきなり開き、制服姿の警官2人が用心深い足取りで入ってきた。スタジオは2階で、警官2名は巡回中、スタジオの入っている建物の正面扉に鍵がかかっていなかったので様子を見ようと中に入ってきたらしい。扉は私が用意したブースのはるか後方にあるので彼らにはミックの姿が見えず、歌声が聞こえるだけで、自分たちが邪魔をした相手が誰なのかは知る由もなかった。かたやミックにも彼らの姿が見えず、その存在に気づくはずもなかった。
 

 制服の男たちが見えた瞬間のアンドルーの対応には目を見張るものがあった。素早く反応し、ミックと自分の身を逮捕必至の危機的状況から脱出すべく警官の注意を逸らす奇想天外な作戦に出た。ミックが全力で歌っているにもかかわらず、アンドルーはわたしにテープを止めるよう命じた。同時に運転手エディに、種々の違法薬物が詰まったいわゆる往診かばんと共にコントロール・ルームの裏口からすぐさま出るように命じ、間髪いれずにトークバック・キーを押して、当惑したままスタジオの隅に立ちつくしている警官に、どういったご用件でしょうか、と問うた。ミックは何事かとついたてから顔を出した。警官は誰の邪魔をしてしまったのかにようやく気づき、ミックも警官の姿に極めて深刻な事態になりかねないことに気づいた。

 アンドルーはさっと立ち上がると、スタジオに入っていった。警官は邪魔したことを謝り、あくまで建物の安全確認のためだったと釈明した。突然現れたスターにすっかり魅せられている様子を見て取ったアンドルーは少しばかり遊んでやろうと思ったのだろう。お愛想言葉を少々交わした後、警棒はお持ちですかと尋ね、ふたりが警棒を取り出すと、少しの間お借りできませんか、と言った。ミック・ジャガーの存在に心を奪われて威圧されていたからかためらうことなく警棒を差し出した。アンドルーは2本ともミックに渡すと、曲のブリッジに少々パーカッションが入り用だと言った。警棒同士を打ち鳴らすとクラベスのような音がした。警官2名が見守る中、わたしはテープを回し、ミックがブリッジに警棒の音を重ねた。警官はその様子に心を奪われ、子供たちへのいい土産話ができたと、上機嫌でスタジオを後にした。彼らが出て行ったのを確認後、アンドルーは正面扉に鍵をかけエディを呼び戻し、わたしたちは作業を続け、その晩の録音を終えた。どうしてなのかわたしにはさっぱり理解できないのだが、アンドルーとミックはその警棒を打ち鳴らしたまったくもって不必要な音を残すことにした。よく耳を澄ませれば、間違いなく聞こえるはずだ。

 



ということで「夜をぶっとばせに」耳をすますとたしかに1分40秒あたりのバックの演奏がなくなりアカペラっぽくなるところでミックの歌声にカツカツカツカツとクラベスのような音が被さっているのがはっきりわかります。ジョンズの言うように間違いなく聞こえるし、まったくもって不必要な音という気もしますが、本当になんでアンドルーやミックはこの音を残したのでしょうか?悪戯心?

警官二人が何歳くらいだったのかは触れられていないのですが、子供たちへのいい土産話ができたと上機嫌だったということから推測すると、子供がティーンエイジで警官たちは30代後半から40代前半といったところかなと。デビューからほぼ丸3年、不良のイメージで大人達から忌み嫌われていたストーンズもすっかり人気バンドになっていて、いい歳をした警官ですらのぼせ上がって警棒を貸してしまう(バレたら絶対に懲罰ものですよね)ほどの存在になっていたという証として残した?なんてね。
 

 

 

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ランディ・エデルマン ピアノ弾きの歌

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大学の先輩のFBで、大牟田のViridianというギャラリーで定期的に開催されている音楽についての「お話会」の告知がされていました。9/16(木)のテーマは「ピアノ」ということで告知のチラシには会の中で取り上げられるであろうピアノが印象的なシングルのジャケットが載せられています。

エルトン・ジョン「僕の歌は君の歌」
エマーソン・レイク&パーマー「ナットロッカー」
ザ・ビートルズ「レット・イット・ビー」
ジョン・レノン「イマジン」
レオン・ラッセル「ソング・フォー・ユー」
キャット・スティーヴンス「雨にぬれた朝」
ビリー・ジョエル「ストレンジャー」


確かにタイトルを聞いた瞬間にピアノの旋律が頭に浮かぶ有名曲ばかりです。これらに劣らぬ有名曲で付け加えるとすればラリー・ネクテルのピアノがなければ生まれなかったであろうサイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」くらいかな(「明日に架ける橋」については数年前に発表された69年の初演ライヴが感動的なので未聴の方はぜひ→ https://youtu.be/GYKJuDxYr3I )。何故「明日に架ける橋」が選曲されていないのか?と思ったのですが、以前の「お話会」で「明日に架ける橋」についてはすでに特集されていたのであえて外されたのでしょうね。

個人的にピアノが印象に残った曲と言えば高校時代に窓辺に座り縦笛を吹く繊細な感じのジャケットに魅かれカット・アウトで値段も安かったので買った『ランディ・エデルマンRandy Edelman』に収録されている「ピアノ・ピッカーPiano Picker」です。ランディ・エデルマンの名前も知らないままのジャケ買いでした。「ピアノ・ピッカー」のPickerは辞書で調べると一般的には「選ぶ人」みたいな意味ですが俗語で「(ギターやバンジョーなどの)弾き手」という意味があります。この場合ピアノにはなりますが「ピアノ・ピッカー」=「ピアノ弾き」ということだと思います。ということで歌詞の内容を見ると独学でピアノを覚えたというランディ・エデルマン自身の経験がもとになっている私小説的な歌のように思われます。

 

 

みんなが僕に訊くんだ
どうしてそんなに上手く弾けるのか

友よ 話してあげるよ

ほんと 時間がかかったよ


何年も何年も練習して やっとさ
膝が悪かったからね
みんなは外でサッカーしてる時も
僕は家で鍵盤を叩いてた
で 弾けるようになった

 

そう その通り これが僕
ピアノを弾いている

気に入ってもらえればいいけど
君のための 弾き語りだから

 

幸運だったと思うよ
ピアノが弾けるようになって
曇って空は灰色でも
ピアノのおかげで心は晴れる

 

何年も何年も練習して やっとさ

ひどいアレルギーでくしゃみばかりで
みんながガールフレンドと遊んでる時も
ぼくはずっと鍵盤を叩いてた
で 弾けるようになった

 

そう その通り これが僕
ピアノを弾いている

気に入ってもらえればいいけど
君のための 弾き語りだから


足が悪くて友達と一緒にサッカーもできないし、アレルギーでくしゃみばかりでガールフレンドも作れず、独り部屋でピアノを弾いていた少年は、やがてシンシナティ音楽院でピアノとコンポジションを専攻し卒業後キング・レコードでアレンジャーを務めたのを皮切りにCBSのスタッフライターやブロードウェイでピアノ弾きを経てソロ・アルバムを発表。73年からは映画のスコアを書き始め映画音楽作家として誰もが知る有名人になります。映画音楽作家として成功し、「君のための 弾き語り」でハートを射止めたのかかのジャッキー・デシャノンと結婚。歌詞の中に「幸運だったと思うよ ピアノが弾けて」という一節の通りの人生といえるのかも知れません。

 

ところで、この「ピアノ・ピッカー」という曲はカーペンターズの曲として初めて知ったという方が多いのかもしれません。アルバム『ソング・フォー・ユー』に収録されているのですが、歌っているのはもちろんリチャード兄さんの方。ピアノ弾きとして歌詞に通じるものを感じたのかもしれないですね。かなり曲の印象は違っていますが・・・。

 

 


 



 

 

ELPの「ナットロッカー」のオリジナルは?

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前回の記事の中でピアノが印象的なシングルとして挙げられていた中の1曲、エマーソン、レイク&パーマー(EL&P)の「ナットロッカー」について少し。この曲を初めて聴いたのは中学1年の1972年、友人の家で『展覧会の絵』を聴かせてもらった時でした。調べると『展覧会の絵』の国内盤は72年の初めに出ているみたいなので、リアルタイムとは言わないまでも発売年のうちには聴いたという感じです。当時ロックを聴きだしたばかりだったのですが英国産のハード・ロックやプログレが日本でも一世を風靡している頃で、特にプログレについてはProgressive Rock=進歩的なロックというだけでロックの中でも一段上みたいに勝手に思い込んでいました。とはいえピンク・フロイドやキング・クリムゾン、ジェネシスなんかは敷居が高く、いちばん分かり易かったのが音楽の授業で聴かされ、退屈だったクラシックの名曲を外連味を利かせてロック化していたEL&Pでした。

 

 

友人の家で聴いた『展覧会の絵』の本編は少々、退屈だったのですが、本編後にアンコールとして収録された「ナットロッカー」は原曲がチャイコフスキーの「くるみ割り人形」という誰もが知っている有名曲を素材にしてエマーソンがまさに鍵盤を叩きまくるポップなロック・インストになっていて一発で気に入ってしまいました。「くるみ割り人形」の英題が「Nutcracker」なのをロックにアレンジしているので「Nut Rocker」としているのも洒落てるなぁ、さすがは「進歩的なロック」やなぁなんて、今から思うとウブの極みという気がします。

 

 



それから数年たって70年代の終わりごろでしょうか、安価なのでたまたま買ったオムニバスのヒット曲集の輸入盤LPを聴いていたら聞き覚えのあるメロディが流れてきました。あれっコレってEL&Pの「ナット・ロッカー」やん、でもなんか音が違うよなーと裏ジャケのクレジットを見るとB. Bumble and the Stingersの「Nut Rocker」となっています。なんやねんコレ?

 



今みたいに分からなければネットで検索なんて時代ではなく、情報といえばレーベルに書かれたPvotr Ilvich,Tchaikovsky,Kim Fowleyという作曲者名と1962年という出版登録クレジットだけ。とにかく「ナット・ロッカー」はEL&Pがチャイコフスキーをアレンジしたものではなくて62年のB.バンブル・アンド・ザ・スティンガースというバンドがオリジナルだったということは推測できました。今だとキム・フォウリーという名前にひっかかるところなんですが、当時は誰それ?でしたしね。

ということで改めてB.バンブル・アンド・ザ・スティンガースについて調べてみることに。

米ウィキに書かれた説明では。

>B.バンブルとスティンガースは、1960年代初めのアメリカのインストゥルメンタル・バンドであり、クラシックのメロディーのロックンロール化するスペシャリストでした。彼らの最大のヒットは、米国では21位に達した「Bumble Boogie」、そして1962年に英国シングル・チャートで1位になった「Nut Rocker」でした。 レコーディングは、ロサンゼルスのランデヴー・レコード(Rendezvous Records)のセッションミュージシャンが行い、彼らが成功すると、R. C. Gamble(1941年11月3日 - 2008年8月2日)を「Billy Bumble」とするツアーグループが結成されました。

B.バンブルとスティンガースはスタジオ・ミューシシャンによる覆面バンドだったんですね。DiscogsによればメンバーはAl Hazan, Earl Palmer, Ernie Freeman, Jan Davis, Lou Josie, Plas Johnson, Rene Hallといった面々のようです。ドラムはアール・パーマーだったんですね。彼らが覆面バンドを始めたきっかけは、いつもみんなで”スタジオから一歩も外に出ずにお金儲けをする方法はないか?”なんてことを話し合っていて、ある日アール・パーマーが「イン・ザ・ムード」をロック・バージョンでやったら受けるんじゃないかと提案し、みんなも賛同し当時バックを務めていたトロンボーン奏者のアーニー・フィールズ・オーケストラ(Ernie Fields Orchestra)名義で59年にシングルを発表。これが全米4位の大ヒットとなり、メンバーの狙い通り”スタジオで金儲け”に成功し味をしめたということみたいです。
 



次に彼らが考えたのはクラシックをロック化することでした。ここで登場するのが架空のバンド=ハリウッド・アーガイルズの「アーリー・ウープ」で1位を獲得したり、ポール・リヴィアとレイダースのインスト・ヒット「ライク・ロング・ヘア」をスマッシュ・ヒットさせていたキム・フォーリーでした。フォーリーは48年のディズニー映画「メロディ・タイム」の中で使用されていた、元々はリムスキー=コルサコフの「熊ん蜂の飛行(Flight of the Bumblebee)」を フレディ・マーティンと彼のオーケストラ(Freddy Martin and His Orchestra)のピアニスト、ジャック・フィナがジャズ・アレンジした「バンブル・ブギーバンブル・ブギー(Bumble Boogie)」をロック化して録音することを企てます。

 



アーニー・フリーマンのグランド・ピアノとホンキー・トンク・ピアノをフィーチャーしパーマーのドラム、レッド・カレンダーのベース、そしてギターはトミー・テデスコというゴールド・スター・スタジオ御用達のメンバーで録音された「バンブル・ブギー」は曲名をもじったBバンブル&ザ・スティンガース(B. Bumble and the Stingers)名義で61年春に発売され、これまた全米21位のスマッシュ・ヒットとなります。
 



次はいよいよBバンブル&ザ・スティンガースの「ナットロッカー」となるかと思いきや、ここでもうワン・クッションあるのが海千山千の山師が跋扈していた米音楽業界の面白いところ。「バンブル・ブギー」がヒットはしたものの作者クレジットはブギー・アレンジをしたジャック・フィナとなっていたため一切印税の恩恵を受けることのなかったフォーリーは自分が大儲けできるレコードを作ろうとします。そしてチャイコフスキーの「くるみ割り人形」の行進曲の権利を得たフォーリーは「バンブル・ブギー」のアレンジをしっかりと真似て H.B.バーム(H. B. Barnum)というピアニストを使いデル・リオ(Del Rio)というインディーズからジャックB.ニンブル&ザ・クィックス(Jack B. Nimble and the Quicks)名義のシングル「ナットロッカー」を62年の初めに発売します。作者クレジットはもちろんキム・フォーリーです。

 



このレコードを聴いたランデヴー・レコードのオーナー、ロッド・ピーアス(Rod Pierce)は”パクりやがってこの野郎”と怒るかと思いきや、こっちも海千山千、”これやったらうちで録音したほうがヒットするレコードにできまっせ。”と考え急遽Bバンブル&ザ・スティンガースのメンバーをスタジオに召集します。ところが肝心のピアニスト、アーニー・フリーマンは前日のパーティの二日酔いで現れず、バンマスのレネ・ホールは代わりのピアニストとしてアル・ハザン(Al Hazan)を使いレコードは録音されます。ろくに練習もしていないアル・ハザンなので何テイクか録音するかと思いきやロッド・ピーアスはワン・テイク目でOKを出したのだとか、いかにレコードにするのを急いでいたか分かるエピソードです。

 


62年1月に発売されたBバンブル&ザ・スティンガースの「ナットロッカー」は米国でこそ23位のスマッシュヒットでしたが英国ではなんとNO.1のヒットとなります。このヒットを聴いていたのが当時18歳のキース・エマーソン少年で、ひょっとしたらこの曲のおかげで後のザ・ナイスやEL&Pでのクラシックとロックの融合というアイデアを抱いたのかも知れないと考えれば『展覧会の絵』のアンコールとして「ナットロッカー」をほぼコピーで演奏したのはBバンブルへのトリビュートの意味もあったのでは。

さて、スタジオだけの架空のバンドとはいえ、これだけヒットが出るとツアーやTV出演のオファーが殺到します、しかし実際に演奏したメンバーたちはセッションの予約がいっぱい。そこでウィキにも書かれていたように例によってツアー用のバンドが結成されることとなります。名前が似ているからか、オクラホマのギタリストR.C.ギャンブル率いるバンドがB.バンブル&ザ・スティンガーズとして活躍したとのこと。ホントアメリカの音楽業界は伏魔殿のような処ですね。

 

 

72年のTOTPということはELPのヒットで再注目を受けたということなのでしょうね。

 

 
  

 

 


 

 

 

 

The New York City winters Aren't bleeding me

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 73年の忘れがたいロード・ムービー「スケアクロウ」の監督であるジェリー・シャッツバーグは元々は著名な写真家であり、一般的に最も有名な作品はボブ・ディランの代表作『ブロンド・オン・ブロンド』のジャケット写真です。現在91歳のシャッツバーグは「Dylan by Schatzberg」という本を発表しました。


その中で、『ブロンド・オン・ブロンド』のジャケット写真がブレているのは、ディランによるドラッグ・カルチャーへの共感の 表明であるという通説を完全に否定しています。




「(ディランの『ブロンド・オン・ブロンド』の)カバー写真を撮る気はあるか訊かれたんだ。・・・ディランのことだから、タイトルには何か意味があると思った。だけど私には見つけることができなかった。やれるだけやってみたんだ。スタジオで彼を撮ったけど満足できなかった。なんにも沸いてこなかった・・・。それから一緒に通りに出てみる気はあるかと彼に尋ねた。

私が子供のころ両親が最高のステーキとポテトのためにミートパッキング・デストリクトに連れて行ってくれたことを覚えている。いつ訪れても素晴らしい場所だ。 私たちは車に乗り込みロケに最適の場所を探し撮影を始めた。ディランは有名人だったけど通りを歩く人々が気づくことは無かったよ。」


撮影が行われたのは真冬の2月、ディランとシャッツバーグはかろうじてジャケットを着ているだけの震えながらの撮影で、ジャケットに使われた写真も寒さにシャッツバーグの手が震えディランの姿がボヤけた失敗作。

「私がそれらの写真をディランに見せなければ、ボツになっていただろう。レコード会社もけっして使わなかっただろうね。ブレてたからね。だけど、彼はその写真を見ると一枚を取り上げた。で、ディランが欲しいものはディランが手にするってわけ。ほんとスゴイよ。
私がこの話をするのは、それ(ブレたジャケ写真)はドラッグとはなんの関係もないからだ。二人とも寒くて、震えていただけだ。だけどありがたいことに、最高のイメージだったんだ。」


ディランとシャッツバーグが撮影に臨んだ時点では確かにドラッグ・カルチャー云々という意図は無かったということからすれば当事者であるシャッツバーグの発言は正しいのでしょう。ただ、最終的に焼きあがった全ての写真からあえてブレた写真を選んだのはディランなわけで、その時のディランの心中は神のみぞ知るなので、ドラッグ・カルチャー云々という意図が無かったというのも絶対ではないなという気がします。僕の勝手な妄想では前年の暮れに発売されたビートルズの『ラバー・ソウル』における歪んだメンバーの写真のイメージがディランの頭にはあって、普通の写真ではなくちょっと変わった、顔がブレた、写真を選んだんじゃないかな、なんて思います。完璧だったり予定調和を嫌い、ミスというかハプニングをアートとして取り込んでしまう、そんな時代の始まりだったのかな。



ちなみに、この時ディランが着ているスウェードのジャケットは『ジョン・ウェズリー・ハーディング』、『ナッシュビル・スカイライン』でも着ているディランお気に入りのジャケットみたいです。


  


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ニュー・シングル「ワン(2018)」に託すキャロル・キングの想い 

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9月にサンフランシスコで開かれた民主党議会選挙運動委員会の究極の女性パワー昼食会で、候補者のに資金を調達するため、ヒラリー・クリントン氏と一緒にキャロル・キングが登場したそうです。
キングは昼食会で彼女のロック・クラシックである「君の友達」と77年のアルバム『シンプル・シングス』に収録の「ワン」の歌詞を書き直したバージョンを含む短いセットを披露したそうです。そしてこの時歌ったバージョンを「ワン(2018)」として2013年の「I Believe in Loving You」以来5年ぶりのシングルとして発表するようです。

彼女がどのような思いで「ワン(2018)」をシングルとして発表したのかローリングストーンにインタビューが載っていたので抄訳してみました。来週には中間選挙が行われるアメリカですが、キャロルは現在のトランプ政権に対する危機感を強く持っているようです。しかし隣人でもあるトランプ支持者に対して対立するのではなくお互いの共通項を見つけ話し合いふれあい、新しく良い方向に向かいたい、そんなキャロルの想いを感じさせるニュー・ソングだと思います。

 



>昼食会の前、この曲について考えていました。何かを歌わなきゃと思っていたし、政治的な風潮もあったし、この歌が心に浮かんできました。(77年に)書いた時に世界でどんな政治的なことが起こっていたかは覚えていませんけど。不正を目の当たりにして、それを何とかできないと不満がたまっていきます。かっての私はどんな人だったのか、今も同じ人なのか、いつだって同じでありたいと望んでいます。私はそれが政治的な歌とは思っていません。私はアメリカ市民権を持っていてヴェトナム戦争に反対していました、でも政治家と一緒に行動してないし、ゲイリー・ハート(民主党の元大統領候補)と知り合ったのも1984年でした。

わたしは(オリジナルのレコード)を聴いてみました。オリジナルの2番の歌詞はあまり意味がないし、ブリッジは長過ぎると思いました。ブリッジを治すだけでいいかなと思ったんだけど、今について語るとしたら最後の歌詞はどうなるだろう?選挙について語るとしたら?選挙を抜きにしても?って思いました。私たちに何ができるのか?


私には音楽を作る理由が必要でしたがそれがありませんでした。私は小説を書いています。物語は、私ではないけれど私の経験がベースの世界観が投影された女性の旅ですが、それは音楽業界ではなかったものです。楽観主義と環境問題に対する彼女の物語は私の人生の半面でもあります。わたしは米国議会でいくつかの素晴らしい体験をしました、良いことも恐ろしいことも両方です、この本はそれらについて話す機会を私にもたらすことでしょう。小説は私の創造的エネルギーの大部分を占めているのです。でも(「音楽を作れ」と)啓示を受ければ私は躊躇しません、そして私は啓示を受けそれを行いました。

新しい歌詞で私はこう歌います。

♪私たちは走る 太陽に向かって We’re gonna run/Reach for the sun ♪

そう走るのです。私は候補者に向かい歌います、でもそれは人々にも向けられています、何かに投票するために立ち上がる人々に向けて。それが歌詞を変えた理由です。昼食会の時、みんなこの曲を愛してくれていると分かりました、だからもう一度歌い、メッセージを伝えたい、そこで考えました「レコードにしよう」と。

そうして私たちはジム・ヘンソン・カンパニーのスタジオBにいました、かってはA&Mスタジオと呼ばれていたところです。そこで『つづれおり』を録音しました。ピアノはその時と同じものです 、座って数分弾いていると、魔法のような気分でした。二人の娘、ルイーズ(ゴフィン)とシェリー(コンドール)を呼んで歌ってもらいました。「私たちはひとつWe are one」という歌詞をより多くの歌声で強調したくて何度も何度も歌いました。





先週私たちは民主党に送られた爆発物という形の暴力を経験しました。 共和党には人々に暴力を先導している国の指導者に共謀する風潮が感じられます。これは事実です。たくさんのテープが私にはあります。この歌はそんな風潮にきく解毒剤だということを知っています。この曲のやさしさは私に「イマジン」を思い出させます。”想像してごらん”という言葉はありませんが、似ています。一人では何もできないとあきらめている人々に勇気を与える歌です。

私はレッド・ステート(共和党支持者の多い州)で暮らしていました。 (民主党知事候補の)パウレット・ジョーダン氏は信じられないリーダーシップがあります。厳しい戦いですが、人々は生き生きとしていて、彼女は思いもよらないtころから援助されています。私は36年間暮らしてきたので(オクラホマ州)カスター郡のたくさんの人たちと知合いです。彼らの多くがトランプ支持者ではありますが、私たちは教育や医療といった共通の問題点を持っています。彼らは子供たちに可能な限りの機会を与えたいと思っています。彼らは現政権の側にいるし私は私なりの立場がある、でも隣人を気遣うような常識を持ち合わせている。トレイラーハウスが火事になってしまった男がいたときに人々が集まってきました。私は歌を歌い、人々はポケットに2ドルがあれば1ドルを与えました。私は今民主党寄りの地域で暮らしています、2017年の記録的な大雪が私の生活を破壊しそこで暮らすことができなくなったからです。でもカスター郡の人々のことはいつだって私の心にあります。
 
私がこの曲で伝えたいことの一つは人々がお互いのあいだに礼節を持つことです。お互いの共通の部分を見つけ尊敬しあって話し合いお互いに耳を傾ける。
中期的に何が起こるのか分かりませんが、ベストを望む人々が増え、より積極的な政治情勢に投票する人が増えていると私は信じています。他国からの干渉や露骨な有権者への抑圧など、多くのことが私たちにあらがってきます。だけど、すべての恐れや憎しみを軽くする効果がもたらされることを私は祈っています。そしてこの歌が人々に力を与えることを望みます。

私たちの多くは無力感を感じていますが私はあなたには力があると言いたい、そしてあなたの力を他の誰かの力と合わせればあなたは本当の「力」を手にいれられるのです。





詩のような言葉が浮かんでくる
不正を見るといつも
どうしてなんだろう
一人でいることをのぞけば
一人ができることは
2人と話し合い 3人と触れ合う
いつか400万人になる
私たちはお互い一人
私たちはみんな一人

心を開き あなたの愛を輝かすのだ
行う必要のあることを行いなさい
どこからやって来たかを知りなさい
彼は一人 彼女は一人
樹木も一人 地球も一人 宇宙も一人
私は一人 みんな一人

私のできることに 不思議を感じる
活力の一部はお互いを救い
私のすべきことに 驚きを感じる
一人ができることに

私たちのできること
私たちは走る
太陽に向かい
一人同士が一緒になれば
どうすべきかが見えてくる
一日の終わりに
私たちは言うだろう
愛が勝った

君がロックなんか聴かないこと知ってるけど

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上の画像はSpotifyの「TOP50(日本)」という再生回数による「直近」の人気曲のランキングです。

あいみょん、本当に来てますね。首位の「今夜このままに」ほかベスト10に3曲。ベスト50だと6曲も。「君はロックを聴かない」というタイトルはショッキングだけど、サウンドや歌詞は年寄りでも聴けるフォーク・ロック・ナンバーを歌うまでは知る人ぞ知るみたいな感じだったのに、この一年で大ブレイク。紅白で歌ったらさらに売れることでしょうね。



しかし「マリー・ゴールド」や「今夜このままに」なんてのであいみょんを知った人が、25位の「貴方解剖純愛歌~死ね~」とか31位の「生きていたんだよな」なんていうインディーズ時代のぶっちゃけた歌詞の楽曲を聴いたらどう思うんでしょうね。まぁ西野カナなんかを聴くよりは健全な気はしますが。



にしても、こういうストリーミングのランキングって面白いですね。上にも書きましたが、「今夜このままに」で最近知ったという人も、「他にあいみょんってどんなん歌ってんの?」ってことで簡単に聴けちゃうんで、今までの代表曲の再生回数があがりランキングにもあがってくる。定額なので何を聴こうと課金はないですからね。クイーンのように何かのきっかけがあれば昔の曲も一気にランク・イン(7曲も入っている!)するしミスチルの「HANABI」やAIの「Story」や一青窈の「ハナミズキ」ようなカラオケのド定番曲も入っている。



仕事の関係上、ストリーミングのランキングは「リアルなレコード店」の売上に直接はつながらないのでしょうが、レコード店もMDを考える上で気にした方がいいんじゃないかと思ったりしてしまう。

ちなみにこの「リアルなレコード店」、アマゾンなどのネット通販のCD販売が出てきたころから街中のレコード店を業界ではこのような呼び方をするようになりました。嫌な感じの呼び方です、街中のレコード店が先にあったんだからたんに「レコード店」でいいのにね。その前だとレンタルと区別するための「セル店」というのも嫌でした。なんかそういう呼び方ってはなから負け戦を感じさせる気がします。











プーチン曰くラップ・ミュージックをコントロールせよ。

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米ヤフーを見ていたら、プーチンがロシアでも人気が広がっているラップ・ミュージックをなんとか規制しようとしていることがニュースになっていました。

以下、シカゴ・トリビューンより引用→http://www.chicagotribune.com/news/nationworld/ct-putin-rap-music-20181215-story.html

>「プーチン大統領はロシアでラップは禁止ではなくコントロールされるべきだと語る」(モスクワ発AP電)

MOSCOW (AP) — Alarmed by the growing popularity of rap among Russian youth, President Vladimir Putin wants cultural leaders to devise a means of controlling, rather than banning, the popular music.

ロシアの若者の間でラップの人気が高まっていることに警戒し、プーチン大統領は文化相に禁止ではなくコントロールする対策を求めた。

「止めるのは不可能だ、であれば我々が管理し導くべきだ。」とプーチンは語る。

そしてプーチンはセント・ペテルスブルグの文化相談員との会合においてラップ・アーチストの演奏を禁止することは逆効果となり、かえって彼らの人気を高めてしまうと語った。

「ラップは三つの柱でできている、セックス、ドラッグそしてプロテストだ。」プーチンは述べます。その上で特に目立っているドラッグのテーマに言及しています。「国を劣化へと導く道だ」。”ドラッグのプロパガンダ”は呪いよりもたちが悪いとします。

プーチンのコメントはコンテンポラリーな音楽に対する弾圧の最中に行われ、それはソビエト時代の芸術に対する検閲を思い起こさせる。

先月、Youtubeで600万人以上の視聴者を持ち、Huskyとして知られるラッパーがロシア南部の都市クラスノダールでのショーが中止された際に即興のパフォーマンスを行った後に逮捕されている。

貧困や腐敗や警察の残虐行為についてのリリックで有名な25歳のラッパーは11月21日のステージの準備を行っていたが、地元の検察官により”過激思想”の要素があると警告された。警察により連行される前、Huskyは何百人ものファンが取り囲む中車の上に登り「俺は自分の音楽をやる、最高に正直な音楽を!」と繰り返した。

11月30日、ラッパーのGone.Fluddは”警察からの思いつく限りのあらゆる嫌がらせ”による圧力を引用した上で、2つのコンサートのキャンセルを報告した、 人気Hip HopアーチストのAlljは北極圏のヤクーツクでのショーを暴力による脅しを受けたとしてキャンセルした。

他のアーチスト、ポップなセンスをもつMonetochkaやパンク・バンドのFriendzonaも11月のコンサートを当局によって中止させられている。

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反核・脱原発をアピールする「アトミック・カフェ」をフジ・ロックで開催することすら「政治的」といい「ロックに「政治」を持ち込むな!」などと叫ぶ若者がいる日本。それこそ、保守の論陣がよく言う「平和ボケ」ってやつで、いまや日本人の多くは「音楽で世界を変えられる」なんていうテーゼは絵空事と思っています。でもこのプーチンの発言や行動を見れば音楽には人をまとめ動かす力が今でも充分にあることを逆説的に証明しているような気がします。

皮肉ではありますがプーチンは「音楽の力」を信じています。

ローリング・ストーンズのドーム公演を特等席から眺め「サティスファクションだった」とコメントし、自分では気の利いたことを言ったとだらしなく笑うどこかの首相より音楽を知ってんだろうなぁ。

Ev'ry time we say goodbye.

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「さよなら」っていうたびに 僕の命はすりへっていく
「さよなら」っていうたびに どうしてって思ってしまう
空の上の神様は すべて知ってるはずなのに
きみが行ってしまうなんて まるで分かってないんだ

きみがそばにいれば まるで春の日の気分
待ち焦がれたヒバリが歌いだす
とっておきの恋の歌を
でも「さよなら」っていうたびに
どうしてメジャーのはずの歌がマイナーに変わってしまうのか

「さよなら」っていうたびに 僕の命はすりへっていく
「さよなら」っていうたびに どうしてって思ってしまう
空の上の神様は すべて知ってるはずなのに
きみが行ってしまうなんて まるで分かってないよ

R.I.P. MY BEST FRIEND CHAR

その歌でわたしをやさしく殺して R.I.P.ノーマン・ギンブル

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12月30日にニュースを目にしてブログにアップしようと思いながら年末でバタバタしていて、年明け一発目が訃報の記事というのは「どうよ」ではありますが、なにとぞ鷹揚に。




作詞家のノーマン・ギンブルが12月19日に亡くなっていたことが、29日息子トニーによって発表されました。91歳。

ギンブルの名前には馴染みがありませんでしたが、彼の代表作がボサノヴァの「イパネマの娘」「サマー・サンバ」、日本ではネスカフェのCMでお馴染みの「やさしく歌って」そしてジム・クロウチの「アイ・ガッタ・ネイム」と聞けば、あぁ素晴らしい歌を作った人だったんだと思っていただけるのではと思います。

歴史に「もし」はないとよく言われますが、もしギンブルが「イパネマの娘」の英語詞を書いていなければ米国でボサ・ノヴァが注目されることも無かったのかもしれません。そうなると日本でもボサノヴァが、カフェだ、ラウンジだ、ウィスパーヴォイスだ、サバービアだとかいってオシャレな音楽の代表格となることも無かったかも。

上記の曲以外でもギンブルは「ハッピー・デイズ」や「ラバーン&シャーリー」といった人気ドラマの主題歌を書いた人として米国では親しまれていたようです。

知らないようで知っているギンブル氏ですが、個人的にはやはり「やさしく歌って」でしょうか。リアル・タイムで耳にしていた頃は知りませんでしたが、調べてみると名曲が生まれたエピソードも非常に興味深いものでした。追悼の意味も込めて紹介しておきます。


Don McLean "Empty Chairs"


心の疼きに震え眠れぬ夜を過ごす
指の間から覗き見る月は明るく
窓ガラスを通し青い光がちらつく
蝋燭の炎の周りで踊るさまよえる蛾のように

あなたは知っているのかな
わたしが分かっていなかったこと
あなたは出て行くと言っていたのに
あなたが本当に行ってしまうなんて
わたしは考えてもみなかった

朝がやって来る
そして未練もなく去っていく
夜は忘れられない思い出を連れてくる
空っぽの部屋に階段を登る音が響く
主を失くした服が空っぽの椅子にかかっている


ドン・マクリーンがコンサートで「エンプティ・チェア」を 弾き語るのを観たロリ・リーバーマンLori Lieberman はマクリーンの歌がじわじわと心に浸みてきて、まるで自分の失恋体験を歌にされているように感じます。そして、その時に浮かんだ想いをナプキンに書いて持ち帰ります。

そして彼女のアルバムのために楽曲を作っていたソングライター・コンビ=作詞のノーマン・ギンブルNorman Gimbelと作曲のチャールズ・フォックスCharles Foxにその時の自分が感じた気持ちを話し、これを歌に出来ないかと依頼します。73年ニューヨーク・ディリー・ニュースの記事の中でギンブルはその時のことを語っています。

「彼女(リーバマン)はマクリーンの歌を聴いた時の強い経験を語ってくれました。それを聞くとこいつはいい歌ができると思った、だから3人でいろいろ検討してみたんだ。」


リーバーマンがマクリーンの歌によって、じわじわと過去の「失恋」体験を思い出し、今現在に失恋をしているような気分になった、そんな状態にぴったりくる言葉を探していたギンブルは、いつも持ち歩いていたネタ帳から”Killing Me Softly With His Blues”という一行を見つけ出します。

これはどう?というギンブルに対しリーバーマンは”Blues”というのはピンと来ないということで”Killing Me Softly With His Song”に落ち着き、歌詞は仕上げられ、フォックスがメロディをつけて出来上がったのが「やさしく歌ってKilling Me Softly With His Song」でした。

Lori Lieberman - Killing Me Softly With His Song



その指でわたしの心の傷みをかきならして
その歌詞でわたしの人生を歌って
その歌でわたしをやさしく殺して
その歌でわたしをやさしく殺して
その歌詞でわたしのすべてを語って
その歌でわたしをやさしく殺して

彼がすてきな歌を歌うのが聞こえた
彼とわかる歌い方が聞こえた
だからわたしは彼に逢い耳を傾けた
そこにいた彼は少年のようで
わたしに知らない人に見えた

わたしは熱い思いに顔が赤くなるのを感じた
周りの人たちみんなに見られながら
わたしの手紙が読まれているように感じたの
それも大きな声で
わたしは歌が終わるのを祈った
でも彼はそのまま歌い続けた


72年、ロサンジェルスからニューヨークに向かう機内でリーバーマンの「やさしく歌って」を聴いたロバータ・フラックはその”Killing Me Softly With His Song”というタイトルと歌詞が気に入り自分もレコードにしたいと考えます。LAについたフラックはクィンシー・ジョーンズの自宅を訪ねフォックスの連絡先を聞き、すぐに電話をします。

当時、フラックの「愛は面影の中にThe First Time Ever I Saw Your Face 」は全米1位となる大ヒットをしていました(翌年のグラミーでレコード・オブ・ジ・イヤーを獲得)。ほとんど注目されていなかった「やさしく歌って」を人気歌手のフラックがレコードにしたいというオファーですからフォックスが断るわけはありません。こうして数日後フラックはジャマイカのタフ・ゴング・スタジオでリハーサル・セッションが行いますが完成には至りませんでした。

72年9月のグリーク・シアター公演の初日にフラックはゲストとしてマーヴィン・ゲイを招きます。予定のアンコールを歌い終えたフラックにゲイは「もう一曲」とリクエストをします。

「わたしは「分かった、今録音中の「Killing Me Softly...」という歌があるんだけど・・・」と言うと彼が「そいつを歌いなよ、ベイビー」と言った。そしてわたしはその曲を歌い、観客たちは熱狂した。ゲイはわたしの傍にやってきて抱きしめながら言った、「ベイビー、その歌を早くレコードにしろ。」と。

73年の1月に発売されたフラックの「やさしく歌って」は2月から3月かけての5週連続で全米No.1を獲得し、その年の年間チャートでも第3位となる特大ヒットとなりました。

ROBERTA FLACK / KILLING ME SOFTLY WITH HIS SONG



というのが「やさしく歌って」の大ヒットの誕生秘話として一般的に知られているもので、未見ですがBS-TBSの「ソング・トゥ・ソウル」でも紹介されていたようなので、そちらを観て知ったという方も多いのかもしれません。ドン・マクリーンのWEBにもこのエピソードはアップされていて、2007年に出版されたドン・マクリーンの伝記本のタイトルも「The Don McLean Story: Killing Us Softly With His Songs」と名付けられており、エピソードは定番化していると言っていいでしょう。



ただ、当事者の一人であるチャールズ・フォックスは2010年のSongfacts.comのインタビューでこのエピソードを否定しています。

「答えは「ノー」だ。いわゆる「都市伝説」ってやつか何かだと思うよ。実際にはそんなこと起こってないよ。ノマン・ギンベルと私はロリ・リーバーマンという若い歌手のアルバム『ア・サウザント・ドリーム』のために曲を書いていて、その10番目の曲だったんだ。ノーマンは、歌のアイデアや歌詞の断片やなんやかやを書いたネタ帳をいつも持ち歩いていた。彼はそれを出してきてページをめくり、「なぁ、「Killing Me Softly with His Blues」ってタイトルはどうだい?」と訊いてきた。「Killing Me Softly 」っていうのはとても面白かったけど「His Blues」ってのは72年当時としてはちょっと古風に感じた。すると彼はしばらく考えて、「「Killing Me Softly with His Song」だったらどうだい?と。ひねりがきいててユニークだろ。」と言いました。で、それは「歌」についての曲、 歌を聞き、その言葉によって心が動かされていることを歌う、そんな曲になるよなって私たちは話し合った。言葉が人生とは何かについて話しているようなもんだ。」

「とにかく、ノーマンは家に帰り、ラフな歌詞を書き、午後遅くに電話してきた。私はそれを書き留めた。座ってそれを読んでいると音楽が流れてきた。翌朝、それをアレンジしロリに聴かせた。彼女は気にってくれた。そして、ドン・マクリーンのコンサートを観ていた時のことを思い出したと言いました。

それ(歌を聴いてマクリーンを思い出したこと)は彼女に起こったことだから、彼女は問われれば、それを語るでしょうね。それがどういうわけか、私たちがドン・マクリーンを下敷きにして歌を作ったっていう風に変えられそれていった。ドン・マクリーンのウェブサイトにまでそう書いてあったはずだよ。しかし、彼は知らないんだ。分かるかい、彼は伝説を知っているだけなんだよ。」



はたして、事実はどちらなのか?いづれにせよ最初はBluesではあったものの「Killing Me Softly with His Song」というまさにキラー・フレーズを温めていたのは亡くなったノーマン・ギンベルその人であったし、チャールズ・フォックの作ったメロディそしてロバータ・フラックの歌唱と合わせじわじわと人々の心を「やさしく殺して」しまう名曲であることに異論をはさむ人はいないことと思います。

R.I.P. Norman Gimble

Astrud Gilberto & Stan Getz ◊ The Girl From Ipanema ◊ 1964



Marcos Valle, Stacey Kent - So Nice (Samba de Verão) (Video Ao Vivo) ft. Jim Tomlinson


Happy Days theme song



Jim Croce - I Got a Name (1973)

「アナログ・レコードは引き続き復活しているが、もはやロックだけではない。」

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ローリングストーン誌のWebに昨年の米国におけるアナログ・レコードの販売についての記事がありましたので抄訳してみました。アナログ・レコードの販売はここ数年の”狂ったような”伸びは見られないもののCDが衰退を続ける中で確実に販売を伸ばしているようです。また従来はクラシック・ロック中心だった市場もHIP HOPのようなジャンルや新譜の販売も目立ってきているようです。(元記事ではvinylとなっていますが、ヴァイナル、ヴィニールではなく日本で一般的なアナログ・レコードという言葉で訳させていただきました。)


>「アナログ・レコードは引き続き復活しているが、もはやロックだけではない。」
購入するジャンルに変化が見られるが、アナログ・レコードの復活は今も続いている。By
Amy X. Wang



ここ数年間続くアナログ・レコードの復活は今も強く続いている。しかし、狂ったようなペースはスローダウンしてきています。米国の音楽消費を調査しているデータ会社BuzzAngleが年末に発表した数字によると、2017年から18年にかけアナログ・レコードの売上は12%伸びました。2016年から17年の伸びの20%に比べ緩やかになっています。

新しいレポートによると、アナログ・レコードの売上げは、昨年のフィジカル・アルバム売上げ全体の13.7%を占めましたが、2017年はその10%、2016年は8%でした。この復活はフィジカル・フォーマットの衰退傾向(デジタル音楽とフィジカル・アルバムの売上は昨年18%減少したと言われています。)と反比例しています。過去に多くの音楽ファンが主張してきたように、アナログ・レコードの耐久性の向上やストリーミング時代だからこそのノスタルジックな価値がポイントです。(ノスタルジックの極みというべきカセットテープも、2017年から2018年にかけて18.9%の成長率を記録している。)

アナログ・レコードの成長をさらに詳しく見ると、もう一つの興味深い傾向が見えてきます。それはより多様な音楽が買われ出していることです。3年前は売上げの65%をロックが占めていました、その数字は2017年は54%、2018年は42%と下がっています。昨年のアナログ・レコードの大半はPOP(26%)やアーバン/Hip Hop(14.4%)のカテゴリーでした。

この傾向は、アナログ・レコードがギター主体の音楽、またはクラシック・ロックのファンによって好まれるフォーマットであるという、既成概念を覆します。実際それは、コレクターズ・アイテムがジャンルに関係ないことを証明しています。

ただ、この新しい多様化によって、アナログ・レコードと古い音楽との根深い文化的な関係がすぐに無くなってしまうことはありません。

BuzzAngleのレポートによると、2018年に購入されたアナログ・アルバムのうち新譜はわずか8%で、66%が「ディープなカタログ」音楽、すなわち数十年前にリリースされたアルバムやラジオ音源や両親が所蔵しているようなコレクション、そしてアーバンアウトフィッターズ製のTシャツか2枚ほどついたものです。

ビートルズの『アビーロード』を例にとれば、2018年に43,606セットを販売し、『サージェント・ペパーズ』は24,887セットを販売しました。非常に新しいものと非常に古いものの奇妙な組み合わせは、以下にリストされている2018年最も売れたアナログ・アルバム・トップ20を見るだけでも明らかです。

1.Guardians of the Galaxy: Awesome Mix Vol. 1 (Various Artists)
2.Thriller (Michael Jackson)
3.Abbey Road (The Beatles)
4.Rumours (Fleetwood Mac)
5.Purple Rain (Prince & The Revolution)
6.Back to Black (Amy Winehouse)
7.Love Is Here to Stay (Tony Bennett & Diana Krall)
8.Greatest Hits I (Queen)
9.The Dark Side of the Moon (Pink Floyd)
10.Legend (Bob Marley & The Wailers)
11.American Teen (Khalid)
12.The Greatest Showman: Original Soundtrack (Various Artists)
13.Chronicle – 20 Greatest Hits (Creedence Clearwater Revival)
14.Divide (Ed Sheeran)
15.Nevermind (Nirvana)
16.Man of the Woods (Justin Timberlake)
17.DAMN. (Kendrick Lamar)
18.Sgt. Pepper’s Lonely Hearts Band (The Beatles)
19.Ultimate Sinatra (Frank Sinatra)
20.good kid, m.A.A.d city (Kendrick Lamar)


ペット・サウンズはなぜペット・サウンズなのか?その由来は?

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参加させていただいているFACEBOOKのとあるグループで『ペット・サウンズ』が取り上げられていて、コメント欄で何故『ペット・サウンズ』というタイトルになったのかというやり取りがされていました。そこではブライアンが作った曲を聴いたマイク・ラヴが「(こんな変なもの)誰が聴くんだ?犬か?」と突っ込んだことから犬=ペットの聴く音楽ということで『ペット・サウンズ』になったという割と有名な説が言及されていました。僕も何かの本かライナーで読んで以来、その説を何の疑問も無く信じていましたが、果たして本当なんだろうか?ということでチコちゃんに叱られる前にちょっと調べてみました。



アルバム・タイトルの『ペット・サウンズ』がいつ、どうやって、誰の手でつけられたのか検証するためにまずは、『ペット・サウンズ』のアイデアが生まれるきっかけからレコードとして発売されるまでの流れを「ザ・ビーチ・ボーイズ・ダイアリー」を参考に辿ってみたいと思います。


1965/12/6 キャピトルからビートルズの『ラバーソウル』が発売される。「ドライヴ・マイ・カー」ではなく「夢の人I've Just Seen a Face」から始まるアメリカ版『ラバーソウル』を聴いたブライアンはそのサウンドに「一発でぶっとばされ」「あれこそ僕の目標とすべきもの」と思います。そしてビーチ・ボーイズとして数多くのヒット曲を作ってきた事で自分のレコーディング業界での地位はあがっているはずだから「新しいものに挑戦できる・・・弦楽四重奏とかオートハープとか、よその文化の楽器とか。」資格は充分と思いたち「全部が傑作のアルバム。今までで最高のロックン・ロール・アルバムを作ってみせる!」と誓います。

1966/1/4 ブライアン以外のメンバーは1月7日の渋谷公会堂からスタートする半月におよぶ極東ツアーのためサンフランシスコ国際空港から日本にむけ出発。

1966/1/18 この日から計27回、4か月にわたる『ペット・サウンズ』セッションがスタート。「スループ・ジョン・B」、後に「僕を信じて」とタイトル変更される「イン・マイ・チャイルドフッド」、「ペット・サウンズ」などのトラックはすでに録音済。この後、2月7日のセッション8回目まではブライアンとレッキング・クルーのみによるバック・トラックの録音が行われている。

1966/2/9 1/29のハワイ公演で極東ツアーを終了しLAに戻り、しばし休養を取っていたメンバーはこの日初めて『ペット・サウンズ』セッションに参加。ボーカル録音のためにブライアンが用意していたのは「ハング・トゥ・オン・エゴ」だった。極東ツアーで拍手喝采を受けたようなサーフィン/ホッドロッド・ミュージックの唄入れのつもりで来ていたメンバーにとってこの曲は何とも変な今まで聴いたことのない音楽でした。

>トニー・アッシャーによれば、制作中のニュー・アルバムがあまりにもブッ飛んでいることに当惑したマイクは、ブライアンに向かって「きまりを乱すなよ」と言ったという。ブライアンはこう語っている。「彼らは(ニュー・アルバムが)好きだったけれど、凝り過ぎだとも言っていた。僕は「そんなことないよ!僕らが良い音楽を作れることの証明として、このアルバムが必要なんだ」と言った。そして「心配しなくていい。たった一枚のアルバムなんだから。この後、いくらでもアルバムなんて作れるから」と言うと、皆も賛成して「分かった」と言ってくれた。」。
(キース・バッドマン/ザ・ビーチ・ボーイズ・ダイアリー 2005)

しかしながらアルのリード・ボーカルにOKが出るには21回のテイクが要されることとなる。

1966/2/15  キャピトルはサンディエゴ動物園に於いて写真家ジョージ・ジャーマンによるアルバム・ジャケットのためのフォト・セッションを行なう。マイク・ラヴによれば、次のアルバムにキャピトルが付けた仮題が『アワ・フリーキー・フレンズOur Freaky Friends』=風変わりなともだちというものだったとのこと。「風変わりなともだち」=動物たちという発想からキャピトルは動物園を選んだと思われ、動物園の中で特に選ばれたのはファミリー層向けのエリアである”Petting Zoo”でした。



ペッティングと聞くとカバゴン先生世代として思わず顔が赤くなるのですが、そういう意味ではなく、いわゆるところの「ふれあい動物園」のコーナーのことです。ただ『ペット・サウンズ』というタイトルを聞いたアル・ジャーディンはやはりあっちの「ペッティング」に関連してるんだろうと思ったようなので、男って嫌ですね(笑)。

1966/3/3 アルバム用にセッションを重ねていた「グッド・グッド・グッド・ヴァイブレーションズ」がとびっきりの傑作になると2/25のセッション中に気づいたブライアンは、アルバムから切り離しシングルとして発売するために録音作業をいったん中断させる。それに伴いキャピトルが2/20に作成していたアルバム収録予定曲の社内資料が修正され「グッド・グッド・グッド・ヴァイブレーションズ」が削除される。代わって65年に録音済であったインスト曲「ラン・ジェームス・ラン」が改題され「ペット・サウンズ」としてリスト入りする。

1966/3/7 「キャロライン・ノー」がブライアンのソロ名義のシングルとして発売される。
>ブライアンの”新しい”スタイルの音楽への反響はすさまじく、彼に近い誰もがこのレコードの爆発的ヒットを確信していた。そしてそれを期待するように、マイク、カール、ブライアン、そしてブルースは、各ラジオ局用にそれぞれ感謝の言葉を入れこんだラジオ・スポットを録音した。 (ザ・ビーチ・ボーイズ・ダイアリー)



メンバーの期待もむなしく「キャロライン・ノー」は大ヒットに至らず、最高位32位にとどまってしまう。

1966/3/21 『ペット・サウンズ』セッション以前に録音されていた「スループ・ジョン・B」が発売される。以前のビーチ・ボーイズを感じさせるこの曲は全米3位の大ヒットとなる。

1966/3/22 ブライアンはユナイテッド・スタジオで愛犬のバナナとルーイが吼える声をモノラル録音する。

1966/4/16 キャピトル・レコード・タワー内のスタジオでアルバムのマスタリングが行われる。最後の作業としてアルバムの最後に3/22に録音された愛犬の吼える声と踏切を通過する列車の音がダビングされ完成。

1966/4末頃 メンバーがツアーに出ている最中、ブライアンは独りマスタリングを終えた自信作のテープをキャピトルの重役たちに聴かせる。しかし、重役たちは新しいサウンドに戸惑い、セールスに不安を抱き発売は中止と言いだす者もいたという。しかし最終的はブライアンの熱意に負け、5/16の発売が決定する。

1966/5/16 アルバム『ペット・サウンズ』が米国で発売される。

本当に大まかな経緯ですが、この中で特に気になったのは3/3にキャピトルが収録予定曲としてインストの「ペット・サウンズ」をリスト・アップしていること。予定曲としてリストに載せるからには、少なくとも仮題はつけているはずで、このタイミングで、まだアルバム用ではないかも知れませんが、「ペット・サウンズ」というタイトルがあったことは間違いのないところではないかと思われます。

では、次に家にあるビーチ・ボーイズ本の中からアルバム・タイトルについて触れた部分を引用してみたいと思います。

まずは、1986年に発表されたスティーヴ・ゲインズによる伝記本「ビーチ・ボーイズ リアル・ストーリー Heroes & Villains: The True Story of the Beach Boys」の中から。


>ブライアンは日本にいたマイクにときどき長距離電話をかけ、録音したトラックを聴かせていた。やがてグループがLAへ戻ってきたときには、ほとんどのトラックが完成されていた。そしてブライアンは、メンバーのヴォーカルだけを入れる準備を整えていたーメンバーたちは、それを気に入らなかった。彼らは、ブライアンが前もって考えておいたヴォーカル・サウンドのあり方にも異議を唱えた。伝え聞くところによれば、マイクはそれをブライアンの”エゴ・ミュージック”だと考えていたという。けれどもブライアンはあとへはひかなかった。『ペット・サウンズ』は彼の最高傑作とならねばならなかった。「ああいう音楽に慣れるにはすこし時間がかかった」とアラン・ジャーディンは認めている。「国をはなれているときには、おれたちはサーフィン・グループだった。ところが、あれはまったく新しいものだった。」ヴォーカル・トラックの収録は、困難をきわめた。ブライアンは完璧を期して、メンバーたちにかってないほど厳しかった。ブライアンが職人の親方のような態度をとりつづけるのをマイクは嫌悪した。「誰がこんなものを聴くんだ?Who's gonna hear this?」と、彼は反発した。「犬の耳にでも聴かせるのか?The ears of dog?、とおれは言ってやった。しかしブライアンの耳はあんなふうだったから、おれもそれ以上嫌味を言えなくなって、「わかったよ。べつのときにもう一回やろう」と言わざるをえなかった。とにかく声の響きだとか音色だとか音質だとかが、彼の思い通りでなければならなかった。」(スティーヴ・ゲインズ/ビーチ・ボーイズ リアル・ストーリー 1986)

「こんなもの誰が聴くんだ?犬か?」とマイクがブライアンに詰め寄ったのがタイトルの由来という一般的な説を裏付ける記載がされています。ゲインズが発表当時の記事や文献を探ったのか、あらたにマイクにインタビューしたのかは不明ですがいずれにせよ86年という時代を考えれば『ペット・サウンズ』はまだCD化されておらず(世界初だった日本が89年、本国の発売は90年)、再評価はまだ起こっていない頃なので、ある意味「否定的」な由来が一般的だったのかなと。でも、逆に言えば再評価のバイアスのかかっていない由来なのかもしれません。

続いては1991年に発売されたブライアン自身による(当時の主治医ユージン・ランディの干渉がかなりあったとも言われている)自伝「ブライアン・ウィルソン自叙伝Wouldn't It Be Nice」から。


>1966年の3月には「ゴッド・オンリー・ノウズ」のセッションに入っていたが、ようやくメンバーが、トニーと僕が書いた曲を聴き始めたのもその頃だった。彼らは、その音楽がビーチボーイズのイメージにぴったりこないと思った。実際そうだった。まず僕が彼らの演奏を使わないという事実でやる気をなくしていた。プライドが傷ついたんだと思う。さらにメンバーは、その音楽と過去の曲の隔たりに対して、心の準備をしていなかった。特に最大の関心が”売る”ことにあるマイクは、すべてが気に入らなかった。これは”エゴ・ミュージック”だと批判した。曲はアバンギャルドすぎるし、以前のサウンドではないと不満を言った。「ハング・オン・トゥ・エゴ」では歌詞を書き換え、「アイ・ノウ・ゼアズ・アン・アンサー」とタイトルを変えるまで歌うことを拒否した。
 ある騒然としたボーカル・セッションの後、マイクは嫌悪をむき出しにして僕に噛みついた。「誰がこんなもの聴くんだ?犬にでも聴かせるのか?」。皮肉なことに、そのマイクの辛らつな批判からアルバムのタイトル、『ペット・サウンズ』が生まれた。
(ブライアン・ウィルソン自叙伝 1991)

ゲインズの伝記と同じく「誰がこんなもの聴くんだ?犬にでも聴かせるのか?」とマイクが噛みついたことが書かれています。ただこちらは具体的な時期を推測させる内容となっています。メンバーが「神のみぞ知るGod Only Knows」の歌入れに参加するのは3/10のセッションだったことが「ザ・ビーチ・ボーイズ・ダイアリー」に書かれています。ということはマイクの「犬か?」発言は3/10もしくはそれ以降になされたということになります。

と、書いたところで「ペット・サウンズ」というタイトルを思いつくのが3/10とすると、3/3の時点で収録予定曲に「ペット・サウンズ」というインストのタイトルがリスト・アップされていたのと矛盾していることに気づきます。ブライアンの記憶違いか、インストは「タイトル不明」で記載されていたのか?それともマイクの「犬か?」発言で思いついたという説自体が間違いなのか?

次は1997年に発売され、『ペット・サウンズ』の再評価を決定づけたBOXセット『ペット・サウンズ・セッションズ』のブックレットからマイク・ラヴの発言。


>僕ら全員がウェスタン・レコードのスタジオ3の通路にたむろしていた。ブースのスピーカーからは場違いな、遠ざかっていく列車の音が流れていた。こうしてアルバムは終わった。列車が通り過ぎ、踏切りの「カン、カン」とういう鐘の音、そして犬の吠える声だ。ブライアンはまだアルバム・タイトルを決めてなかった。僕の耳には犬の鳴き声がまだこだましていたので、「『ペット・サウンズ』というのはどうだい?」といったんだ。
(『The Pet Sounds Sessions』1997 ブックレット マイク・ラヴ序文)

「誰がこんなもの聴くんだ?犬にでも聴かせるのか?」と噛みついたはずのマイクなのに、そのことは一言も触れずブライアンの愛犬の吼え声を聴いて思い付き提案したとしています。おそらくこの発言はBOXの発売のために新たに行われたインタヴューのもので、すでに『ペット・サウンズ』は『サージェント・ペパーズ』と並ぶ傑作だったという再評価が広まって来ていた時期なので、そこでアルバムを貶していた(=理解できていなかった)と宣伝することは自分にとってプラスにはならないということでバイアスをかけて事実を捻じ曲げちゃったのじゃないかなと想像します。

同じくBOXセットのブックレットから今度はカール・ウィルソンの記憶を。

>誰がタイトルを思いついたのかはよくわからない。ブライアンだったと思う。彼のアイデアは「誰にでもこういう大好きなサウンドがあって、これは僕の”お気に入りのサウンド”のコレクションだ。」というものだった。アルバムのタイトルを考えるのは難しかった。まさか『シャット・ダウンVol.3』ってわけにもいかないだろう。
 
((『The Pet Sounds Sessions』1997 ブックレット カール・ウィルソン序文)

確かにPETという単語の意味を調べると形容詞として

1.お気に入りの、かわいがっている
2.ペットの
3.〔言動が〕得意の、おはこの

という意味が書かれています。Pet Sounds=お気に入りのサウンド、マイクの「犬か?」発言から生まれたという「ペットのサウンド」とのダブル・ミーニングとしてありですね。

次は2005年に発売された、ビーチ・ボーイズのセッションおよびツアーを詳細に記録した「ザ・ビーチ・ボーイズ・ダイアリー」に記載された由来。


>新しいLPのタイトルは、この盤にはブライアンの「ペット」や彼の好きなサウンドが詰め込まれているからと、マイクが選んだものだった。マイクはこう回想している。「僕らはスタジオの中で立ち話をしていた。その時まだタイトルが決まっていなかったんだけど、何か意味が2通りに解釈できるようなものがいいと思っていたんだ。その前、僕らは動物園に行って動物と一緒に写真を撮っていたし、レコードには動物のサウンドも入っていた。それにその頃はそういう音楽が好きだったから、それで『ペット・サウンズ』はどうかな?」とブライアンに言ったんだ。(ザ・ビーチ・ボーイズ・ダイアリー)

97年のBOXセットのブックレットの流れにある発言に思えます。いい子ちゃん発言。注目したいのは新たにジャケットとなった動物園での写真撮影に触れていること。動物園、犬の吠える声、大好きなサウンドに共通するワードとして『ペット・サウンズ』となったということです。

そして手許のビーチ・ボーイズ本などからはブライアンやメンバーの発言としては見つからなかったのですがネットなどで散見するもう一つの由来。それはビートルズの『ラバーソウル』とともにブライアンが越えようとしていたもう一つの山脈、フィル・スペクターの存在です。スペクターの生み出した音楽は「ウォール・オブ・サウンド」や「スペクター・サウンド」と総称して呼ばれています。スペクターは、それまでは歌手とそのバックとして録音されていた音楽を歌手もバックもひっくるめ(むしろバックが主役のような)ひとつの「サウンド」にしてしまうという転換をロックン・ロールにもたらしました。

スペクターを崇拝していたブライアンはスペクター・サウンドを越える自分のサウンドを作りたいという思いも『ペット・サウンズ』のサウンドに込めていました。そしてその思いをこっそりと表すためにフィル・スペクター(Phil Spector)のイニシャルと同じ『Pet Sounds』というタイトルを選びます。
ただこのPhil Spectorと同じイニシャルのPet Soundsというタイトルを考えたというのはアルバムのタイトルとしてではなくインスト曲「ペット・サウンズ」のために考えられたのじゃないかとも思います。というのはスペクターはシングルを発売するときにA面にはもちろん自信曲を収録していましたが、B面はラジオDJに必ずA面曲をかけさせるため、印税稼ぎのため、セッション・メンバーを喜ばすためなどの理由から「Nino And Sonny (Big Trouble)」「Harry And Milt Meet Hal B」「Tedesco And Pitman」といったセッションメンの名前をタイトルに入れこんだインスト曲を収録していました。そんなスペクターの流儀にブライアンものっとっていたのではないかということです。

調べればもっといろいろ出てくるのでしょうがきりがないので以上のような事項からがいつ、どうやって、誰の手でつけられたのか妄想してみますと。

『ラバーソウル』やスペクター・サウンドに追いつけ追い越せでセッションをスタートしたブライアン。メンバーがツアーで不在なのを好機とみてスペクター・サウンドの担い手であったレッキング・クルーの面々を贅沢に使いとにかく自分の納得がいき、誰も聴いたことがないが、一度聴けば、みんなのお気に入りになるようなサウンドを目指してセッションを続けます。

いつも以上に気合の入ったセッションを続けるブライアンを見たキャピトルは早速ニュー・アルバムの発売に向けての準備を進めます。そしてアルバムに『アワ・フリーキー・フレンズOur Freaky Friends』という仮題をつけます。そしてFreaky Friends=動物という発想からメンバーのツアーが終わった2/15に動物園のふれあい動物園(Petting Zoo)でフォト・セッションを行います。

このPetting Zooという言葉が「お気に入りの」という意味も持つことに気づいたブライアンは「お気に入りのサウンドを作ろうとしているのだからPet Soundsってのはいいかもな」と思いつきます。同時にPet SoundsのイニシャルのPSはPhil Spectorと一緒だと気づき「これだ!」と喜びます。そして既に録音済みであったインスト曲の「ラン・ジェームス・ラン」を「ペット・サウンズ」と改題しアルバムに収録することを決めます。



3/7にはブライアンの新しいサウンドを世に問うべく、ブライアンのソロ名義で「キャロライン・ノー」がシングルとして発売されます。そして10日には「神のみぞ知る」の歌入れが始まりますが、ここでリード・ボーカルに起用されたのはカール・ウィルソンでした。楽器の演奏はほぼすべてスタジオ・ミュージシャンでボーカルもなかなか自分が主役になれないことに業を煮やしていたマイク・ラヴに振られたのは当てつけのような「ハング・オン・トゥ・エゴ」。ついにマイクはスタジオで切れてしまいます。「誰がこんなもの聴くんだ?犬にでも聴かせるのか?」。

ふれあい動物園(Petting Zoo)で撮った写真、お気に入りの音楽(Pet Sounds)、フィル・スペクター(Phil Spector)、ペットの犬に聴かせる音楽・・・、すべてをつなぐ言葉は「ペット・サウンズ」であり、幾重にも重なった意味をもたせることができるタイトルはそれ以外にない!ここでブライアンはインスト曲のタイトルであった「ペット・サウンズ」をアルバム・タイトルとして昇格させることを決めます。

タイトルを決めたブライアンは「キャロライン・ノー」で終わるはずであったアルバムの最後に、マイクが放った「犬にでも聴かせるのか?」という言葉をネタとしていただき、愛犬バナナとルーイの吼える声をわざわざスタジオで録音し曲の最後にダビングします。



「マイク、あんたの言う通り犬がアルバムを聴いていたような終わり方にしたよ、ただ2匹は僕のペットなんだ、つまりはこのアルバムは僕のための『ペット・サウンズ』なんだよ、君は気づかないだろうけどね。」

なんてことないか・・・・。










You are such a woman to me until the end of all

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お前は俺にとって特別な女
愛してるよ
二人の愛は
全てが終わるまで
生き続けるだろう

誰もお前みたいに俺を殺せない
誰もお前みたいに俺を満たせない
誰も二人の傷みを感じられはしない
愛は癒し
お前を愛してる

お前は俺にとってそんな女

RIP PEGI YOUNG
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