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ビーチボーイズの失われた60年代の宝物が第二の人生を得た訳

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一昨年に発売50周年ということでビーチ・ボーイズの『スマイリー・スマイル』『ワイルドハニー』のアウト・テイクやレア・トラックをまとめたCD『1967 – Sunshine Tomorrow』が発表され、昨年は68年発売の『フレンズ』と『20/20』の記念盤が出るのだろうなぁと待っていたのですが一向に出る気配がなく、発売は無しか、つまんねぇなぁと思っていました。しかし、よくよく調べてみると昨年末Spotifyなどのストリーミングで『1968-Wake the World: The Friends Sessions』と『1968-I Can Hear Music: The 20/20 Sessions』と『The Beach Boys On Tour: 1968』いう3種類のアルバム(?)がひっそりと発表されていました。

デジタルでのストレイト・イシューのみでCDやアナログなどのフィジカルでの発売は無しということのようです。分厚い解説や写真集、箱なんかがなくて安価で楽しめるのは嬉しいのですが、ちょっと寂しい気もします。少なくとも曲ごとの参加ミュージシャンなどの録音データくらいは欲しい気もするのですが・・・・。

今回なぜデジタルのみの発売であったかを含め長年ビーチボーイズの元で働いているマーク・リネットとアラン・ボイドへのインタビューがローリングストーン誌のサイトにアップされていましたので抄訳してみました。



ローリングストーン誌(以下RS):この音源を今、デジタルのみでリリースするというやり方に影響を及ぼしたのは何なのでしょう?

マーク・リネット(Mark Linett、以下ML):英国とEUにおける録音物の50年という著作権保護期間が大きいです。2013年に著作権法の一部は修正され、20年という保護期間が追加されました。しかし公表されなければ適用されないという規定があります。未発表の音源について基本的に創作されてから50年以内に正式にリリースされなければ著作権保護の対象とならないのです。この規定が最初に行使されたのは2012年だったと思います。そしてビートルズが最初に録音した音源がパブリック・ドメインになってしまいました。同じことがビーチ・ボーイズでも起こりました、『サーフィン・サファリ』のアルバムは遡って著作権登録ができなかったために現在パブリック・ドメインとなっています。アーカイヴ内の膨大な音源がブートレグ化されてしまいました。

アラン・ボイド(Alan Boyd、以下AB):かつてはバンドにとって脅威をもたらしたブートレグの存在が、今ではすべての音源を合法的にリリースすることを促したのは皮肉なことです。 これはビーチ・ボーイズのファンにとっては恩恵です。 実社会における市場性の問題は、おそらく問題なくなるでしょう。

RS:これらの音源の一部は『アンサーパスド・マスターズ』シリーズや他のブートレグで入手可能ですよね?

ML:そうだね。でもやり方が違うんだ、あれは言ってみればとっちらかっているんだ。

AB:どんな音源が世に出ているのかを見極めるのは大変なことです。私も知らないものがスーパーファンの手中にあるかもしれません。別に驚くことでもありません。70年代後半か80年代初めに誰かがテープの保管庫に侵入したからね。実際、私たちは最近になってその時に盗まれたテープを買い戻しています。

ML:ほとんどは誰かがミックスしたものやコピーされたものでした。でも文字通り扉の向こうから出てきたようなものもあった。10年か15年前、ある人がテープがいっぱいにつまった箱を持って現れた、私たちはそれらのうちのいくつかに見覚えがあった。おそらく80年代初めに、誰かに盗まれたもので、他のアーチストのものと一緒くたになっていたけど、ビーチ・ボーイズのテープは魅力的だった。その山の中には私たちの知らないものもあったんだ。元々の外箱は捨てられていたけどね。

RS:すごいね。私はルー・リードとヴェルヴェットアンダーグラウンドについての本を書いています。残念だけどこんなすごい量のアーカイヴが発見されることありません。

ML:1stアルバム発売後にマスターのコントロール権をビーチボーイズが手にしていたことが大きいね。契約条項に入っていたんだ。マルチ・トラックのテープをキャピトルに預けるのではなくて・・・その、ほとんどを録音したスタジオに置いたままにしていました。誰かがそのテープを探しだして倉庫に保管するという仕事を与えられる1978年まで、放置されていたんだ。レコード・レーベルの典型的な過程は最終的なミックスがダビングされセッション・マスターを保管することです。サブマスターは全てゴミ箱に捨てられます。そうしないとレーベルは全てを保管するために100平方ブロックが必要となります。そして、当然のごとく将来的に価値があるものになるとは考えていなかったんです。ファイルの中には一つのアルバムしか無く3トラックの最終マスターだけが残されています、アウトテイクは全て消去されます。

AB:『サーファー・ガール』がそうでした。

ML:そうさ!でもその後はビーチ・ボーイズが録音したものの80~90%生き残ってると言えます。だからこそ、このようなこと(『フレンズ』『20/20』のアウト・テイク集)や『ペット・サウンズ』や『スマイル』のボックスが可能になった、私たちがセッションのアウト・テイクを全て持っているからなんです。これって普通はありえないことです。



RS:もともと、これらのセッション(『フレンズ』と『20/20』)にブライアンはどの程度関与していたのでしょう?

AB:『フレンズ』には深くかかわっていました、基本的に主導権は彼にありました。ボーイズがツアーに出た後、アルバムを完成さえさせました。『ペット・サウンズ』と『スマイリー・スマイル』の発売の間に長期間を要しすぎていることでキャピトルとの契約に反していましたから。彼らはさらに遅れを取り戻さねばなりませんでした。68年の春までにアルバムが必要だったんです。『20/20』でも同じでした、ヨーロッパへツアーに出る前にキャピトルに渡すために大慌てでアルバムを仕上げました。でもブライアンは『フレンズ』に深く打ち込んでいました。ほとんどをプロデュースしたのです。

ML:デニスの「リトル・バード」のように私たちが多分、共同プロデュースされたと思っている楽曲でさえ、まだブライアンがプロデュースしていたのです。以前のグループのレコーディングと全く変わりはありませんでした。例外があるならば『ワイルドハニー』と『スマイリー・スマイル』とは対照的に、ベーシック・トラックにたくさんのセッションプレイヤーが参加していたことです。

RS:セッションはどこでレコーディングされましたか?

ML:あらゆる場所で。多くはIDサウンドで行われました。元々はリバティ・レコードのスタジオだった所です。建物とスタジオは今でも存在しますが、もうIDとは呼ばれていません。ラブレア通りにあります。

AB:それにブライアンの自宅でもモービル・ユニットを使って沢山録音されたと思うよ、特に『ワイルド・ハニー』についてはね。

RS:あなたから見て、今回のセットで際立ってると思われるところは何ですか?

ML:うーん、それは2つの観点から見るべきだね。ひとつはリリースされた曲のいくつかを詳細に分析することができること。私はビーチボーイズのレコーディングにいつだって興味を持っているんだ。演奏とボーカルが織り交ぜられたものを分解できる時、バック・トラックを聴いて、「リトル・バード」だと言い、そして次にアカペラを聴く、それは本当に興味深いし参考になります。アルバムの他の曲も同じです。つまり、全ての楽曲についてそうやって私たちの装置で試してみたという事です。それから未発表のものもすべて入れています。

RS:実際にすべてのアカペラは素晴らしいですね、ボーカルだけを取り出して聴けるのは素晴らしいことです。

AB:「リトル・バード」ではいくつかのボーカル・パートにジャズ・タイプのコード進行があります。それは、おそらくはブライアンがティーンの時にフォー・フレッシュメンのとてもジャズっぽくて瑞々しいクローズ・ハーモニーを分析していたことに遡れるとでしょう。ボーカルの中には私を打ちのめすものもありました。とても正確なうえにうまくブレンドされています。アカペラの「リトル・バード」を聴いて私の息は止まりました。すごく美しい。

RS:セッションにはいくつかのカバーがありますね。「ウォーク・オン・バイ」を聴くとバート・バカラックのコードが他の楽曲にも影響していることが分かります。

ML:ああ。彼は確かにブライアンに大きな影響を与えている。

AB:ブライアンもブラジルの歌手の影響も受けていると思います。私たちは「イーヴン・タイム」という曲を見つけました、「ビジー・ドゥーイン・ナッシン」の初期バージョンです。

ML:ボサノバなんです。ブライアンはある時点で演奏のスピードが速いと気づきました。それでスピードを落としてボーカルを録り直しました。

RS:「ダイアモンド・ヘッド」には美しいハワイアン・スライド・ギターが聴けますね。「ザ・ゴング」の物語は何ですか?話ているのは全てデニスですよね?

ML:ああ、全てデニスです。「ザ・ゴング」は元々は『20/20』バージョンの「ネバー・ラーン・ノット・トゥ・ラヴ」のイントロとして発表されました。最初の部分が付け加えられました、セッションの残りの部分はデニスのお遊びです。

RS:彼の話言葉は全て非常にトリップしていますね。

ML:そうですね、1968年ですから。それを忘れちゃいけない。

RS:そして「ネバー・ラーン・ノット・トゥ・ラヴ」には奇妙な裏話がある。

ML:うーん、そうだね・・・。夏の間、デニスの家に滞在していた仲間たちが関わっている。

RS:チャールズ・マンソン。

AB:避けては通れないですね。だけどあんまり触れない方がいいと思います。それは消すことのできない歴史です。

RS:そうですね。このレコードにはビーチ・ボーイズ以外の声がたくさん入っています。「イズ・イット・トゥルー・ホワッツ・デイ・セイ・アバウト・デキシー?」にはオードリー・ウィルソンが登場します。

MK:それは私たちが発見したのですが、どうやらある午後にホーム・スタジオで録音されたようです。ブライアンは母親に歌わせています。とても甘い声ですよね。

RS:「オー・イエー」についてはどうですか?

ML:私の思うところビーチ・ボーイズはツアーに出ていました。ちょうどニューヨークのフィルモア・イースト公演の時だったと思いますが、ニューアルバムを完成させなければならない狂乱の時だったので、あらゆる場所でテープを回していました。ニューヨークのキャピトル・スタジオで仕事をしていた時のこと、メンバーの一人が路上でラップのようなものをやっている少年を見つけ、こう考えました「いいじゃないか、テープに録ろう」。 彼らはスタジオに彼を連れて行き、マイクの周りにみんなを集め、そして彼にそれをやらせました。 テープの箱に書かれているのは、「Oh,Yeah」だけで、少年の名前もありません。

RS:ライヴ音源もありますね。そのうちいくつかは発表済みですよね?

ML:それとは違うよ。2種類はロンドンのパラディアムの公演とフィンズベリーパークでのファースト・ステージ。セカンド・ステージは『ライヴ・イン・ロンドン』として発表されている・・・。ライヴ・アルバム用に録音したものじゃなかった。音質は本当に良かったんです。手許に残っていたのは本当に素晴らしいことでした。正直言って69年、70年のライヴ・レコーディングはそれほど多くなかったからです。

AB:1969年の物は残ってないと思います。

RS:近い将来どのようなアーカイヴが出てくるのでしょう?テープ・デッキには何か残っていますか?

ML:そうですね、私たちは彼らのレーベルであるブラザー・レコードでの最初のアルバムに焦点をしぼった企画をやりたいと思っています。彼らは1969年に楽曲を録音し始めました。いくつかは『サンフラワー』の中で聴けます。そのうちのいくつかは発表されることのなかったキャピトル最後のアルバムのために意図されていました。知っての通りその年に発表されたシングルの「ブレイク・アウェイ」もそのひとつです。次のラウンドの計画として私たちはレーベルと話し合いを始めるところです。

ローリングストーン誌の元記事へのリンク→How the Beach Boys’ Lost Late-Sixties Gems Got a Second Life






アリアナ・グランデがビートルズの記録を呼び起こす

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新曲「7 Rings」にちなんで「七輪」という漢字の入れ墨を入れたことで、「おいおい「七輪」は意味が違いまっせ、ホンマにあんた日本通なんか?」と言った心無いSNSへの書き込みが寄せられ、すっかり日本嫌いになってしまいそうなアリアナ・グランデ。

そんな炎上騒ぎをよそに肝心のニュー・アルバムからの楽曲は全米では大ヒットとなっているようです。そして、なんと今週のビルボードのチャートでアリアナの楽曲が1位、2位、3位を独占してしまいました。



単独のアーチストの楽曲が全米チャートのTOP3を独占という快挙は、実に55年ぶりの出来事といいますからいかに希なことかが分かります。

そして55年前の1964年にチャートを独占したのは当時アメリカでビートルマニアという大騒ぎを巻き起こしていたビートルズでした。しかも1位から3位どころか5位までの上位5曲を独占してしまうという永遠に破られそうもない大偉業を成し遂げてしまったのでした。


この出来事はビートルズの人気がいかに高かったかを証明する伝説となっています。この時の1位から5位は以下のようなものでした。()内は発売日。

1位 キャント・バイ・ミー・ラヴ (64/3/16)
2位 ツイスト・アンド・シャウト (64/3/2)
3位 シー・ラヴズ・ユー (63/9/16)
4位 抱きしめたい (64/1/13)
5位 プリーズ・プリーズ・ミー (64/1/30)


ビートルズの初めてのアメリカ・ツアーが64年の2月7日から始まり、9日には人気番組エド・サリバン・ショーへの初めての出演があり、2月から3月でビートルズの人気がアメリカで大爆発した結果として4月4日のチャートになったことは容易に想像できます。ただ各々の発売日を見ると前年9月に出た「シー・ラヴズ・ユー」をのぞくと訪米をはさんでわずか2ヶ月あまりに4枚のシングルが発売されています。これっていくら人気があるとはいえ多すぎる気がします。

もちろん本国イギリスからかなり遅れて火がついたアメリカなので人気の爆発にあわせて、それまで発売していなかった過去の作品を引っ張り出すというのはあるのでしょうけど、それでも半月に1枚のペースというのは多すぎる気がします。

調べるとこの記録の裏にはビートルズという”商品”をめぐる<大人の事情>があることが分かります。もちろん、とんでもないくらいの人気があったのは事実なのですが、<大人の事情>がなければ、果たして世紀の大記録が生まれたか否か?ということを思うと、<大人の事情>までを結果的には味方につけてしまったビートルズという存在は他のバンドにはない「何か」があったということなのでしょう。

まずは先ほどの4月4日のチャートを当時のシングル盤の写真でご覧ください。

1位 キャント・バイ・ミー・ラヴ (64/3/16)
鳥肌音楽 Chicken Skin Music-cant

2位 ツイスト・アンド・シャウト (64/3/2)
鳥肌音楽 Chicken Skin Music-twist

3位 シー・ラヴズ・ユー (63/9/16)
鳥肌音楽 Chicken Skin Music-she loves

4位 抱きしめたい (64/1/13)
鳥肌音楽 Chicken Skin Music-beatles

5位 プリーズ・プリーズ・ミー (64/1/30)
鳥肌音楽 Chicken Skin Music-pleaseplease

「抱きしめたい」はレコードのレーベルの写真が見つからなかったのでピクチャー・スリーヴです。ご覧になればお気づきになりますよね、レーベルが見事にバラバラなんです。「キャント・バイ・ミー・ラヴ」「抱きしめたい」がキャピトル(Capitol)、「ツイスト・アンド・シャウト」がトーリー(Tollie)、「シー・ラヴズ・ユー」がスワン(Swan)そして「プリーズ・プリーズ・ミー」がおなじみのヴィー・ジェイ(Vee Jay)となんと4社からビートルズの曲が正式音源として発売されていました。

なんでこんなことになったかを簡単にまとめます。

ビートルズの英国での発売元はパーロフォンというレーベルです。パーロフォンはイギリスのメジャーであるEMIの傘下のレーベルですので、ビートルズがアメリカで発売されるとしたらEMIのアメリカでの発売元であるキャピトルからとなるのが筋というものです。しかし当時はアメリカこそがポピュラー音楽の本場であり、イギリスのポップスはアメリカではほとんど売れていませんでした。EMI所属でイギリスでは国民的アイドルであったクリフ・リチャードですらアメリカでは泣かず飛ばずでした。そんな状態でしたのでキャピトルはEMIが63年初めにイギリスでヒット中の「プリーズ・プリーズ・ミー」を発売するよう薦めてきた時も、イギリスでいくら売れてるといったってアメリカでは簡単には売れないよっていうことで発売を見送っています。当時のアメリカではバンドは時代遅れという意識もあったといいます。

そこでEMIはキャピトル以外でビートルズを発売してくれる会社が無いかと探します。そしてシカゴのヴィー・ジェイというマイナー・レーベルと販売契約を結びます。そして63年の2月25日にアメリカでのデビュー・シングル「プリーズ・プリーズ・ミー(モノ)」が発売されます。ヴィー・ジェイは5月にも2ndシングル「フロム・ミー・トゥー・ユー」を出しますが、マイナー・レーベルということもありろくな宣伝もできなかったのか、シングルはほとんど売れなかったようです。

The Beatles-Please Please Me



EMIは引き続きキャピトルと交渉していたようですが、ヴィー・ジェイから発売のシングルの失敗を見ればキャピトルとしては”ソレ見たことか”となりますよね。あの「シー・ラヴズ・ユー」ですら発売を見送ってしまうんですから、お前の目は節穴かとなるところですが、シングル1枚とはいえ売れないものは出したくないというのも<大人の事情>であるのかもしれません。

引き続き「シー・ラヴズ・ユー」もアメリカ発売しようとするEMI(イギリスではバカ売れですから当然ですよね)ですが、ヴィー・ジェイとは2枚のシングルの印税未払いによるゴタゴタがあったので、今度はスワンというフィラデルフィアのマイナー・レーベルから発売することとなります。イギリスでは(レコード契約後は)順調にスターダムにのし上がったビートルズですが、アメリカではなかなか上手くいかなかったようです。

そんな状況の中に現れたのがエド・サリバンという男でした。63年10月31日にロンドンのヒースロー空港にたまたま居合わせた彼は、スウェーデン公演から帰ってきたビートルズを迎えるファンたちのとんでもない大騒ぎに遭遇します。そしてこの男の子たちは自分の番組「エド・サリバン・ショー」のネタとして使えると思ったといいます。そしてエドはその日のうちにビートルズと番組出演の仮契約を交わします。その日のうちということはビートルズの音もほとんど聴かずにということで無謀のような気もしますが、視聴率競争に勝つためとにかく新鮮なネタを探していたエドからすればとりあえず契約しといて、出すか出さないかは後から考えりゃいいやみたいなことだったのでしょう。一方、アメリカでシングル・デビューしたものの一向に火がつかない状況に焦っていたブライアン・エプスタインにとってみれば三大ネットワークの人気番組からのじきじきのお誘いですから、渡りに船、すぐに飛び乗っちゃったということだったのかなと。

11月にはブライアンが渡米し正式契約が結ばれますがギャラはアメリカのタレントたちに支払われるものの半分にも満たない額(2回の生出演+1回の録画出演で1万ドル)だったことからも、ビートルズを刺身のツマくらいに思うエド側と藁にもすがる思いのブラインという<大人の事情>が見えます。(放送終了後のエド・サリバンは大笑いだったでしょうね、まぁブライアンも結果的に大笑いしたでしょうけど。)

この出演契約を後ろ盾にEMIは再度キャピトルに交渉を行います。さすがに今度ばかりは担当ディレクター氏も折れたようです。自社が権利を持つバンドがエド・サリバン・ショーに出演するというのに自分の判断でレコードも出していないということが上司に分かれば叩かれるのは目に見えてますから大慌てで契約というこれまた<大人の事情>があったのではないでしょうか。そして通常1枚のシングルに使われる宣伝費の10倍の4万ドルという大金をかけ大々的なプロモーションが行われます。それだけエド・サリバン・ショーに出演するというのがエンタメ業界にとってどれだけ影響力があったのかという証に感じられます。

The Beatles - I Want to Hold Your Hand



そしてついに64年1月13日にキャピトルからの初のシングル「抱きしめたい」が発売されます。イギリス/ヨーロッパでの人気を知ったアンテナの鋭いラジオのDJが輸入盤でオンエアしていたためビートルズ人気はすでに盛り上がりつつあったところにキャピトルの大々的な宣伝がつぎ込まれた結果、訪米直前の2月1日付けの全米チャートで1位を獲得することとなります。実に見事なタイミングでした。

ちなみに日本でのビートルズの初めてのシングルも「抱きしめたい」で、発売日は64年の2月2日ということで、やはりアメリカでの反応を見てからといった発売の仕方ではないかなと思います。ただしその後のリリースはすさまじく64年と65年の2年間でなんと25枚ものシングルが発表されています。

Beatles - She Loves You



「抱きしめたい」が大ヒットということでファンからすれば、もっともっとビートルズの曲を聴きたいと思うようになります。そしてイギリスで特大ヒットとなっていた「シー・ラヴズ・ユー」がすでにシングルで出ていたことに気づくとどんどんシングルを買い出します。前年の9月の発売以来、泣かず飛ばずであった「シー・ラヴ・ズ・ユー」ですが、「抱きしめたい」が1位となった週には21位、そして訪米をはさみ売れ続け、3月21日には2月1日から連続1位であった「抱きしめたい」を蹴落とし1位を獲得します。

The Beatles - twist and shout



「抱きしめたい」のキャピトルからの発売、エド・サリバン・ショーへの出演を知ったヴィー・ジェイも前年の2月に出してほとんど売れていなかった「プリーズ・プリーズ・ミー」を1月30日に再発売します。そして「ツイスト・アンド・シャウト」の権利を持っていたヴィー・ジェイの子会社トーリーも3月2日に「フロム・ミー・トゥ・ユー」とのカップリングでシングルを発売と柳の下のドジョウを求めて<大人の事情>でボーイズに群がっていきます。

こうして各社入り乱れた4曲のシングルが全てチャートを上昇していく中、本家本流のキャピトルも間髪を入れず新しいシングルの発売が発表されます。発売が発表されたニュー・シングル「キャント・バイ・ミー・ラヴ」全米の予約だけで200万枚というとんでもない記録をつくります。こうなると、1年以上に渡りビートルズのレコードの発売を渋っていたキャピトルも手のひらを返したようにビートルズをVIP扱いにします。本国イギリスでは3月20日発売の「キャント・バイ・ミー・ラヴ」を1週前の3月16日に発売してしまうのですから。まぁ金のなる木は見逃さない見事な大人の対応というしかありませんね。愛は金では変えないけれどヒットは金で買えるといったとこかもしれません(笑)。

そして4月4日にくだんの大記録達成となるわけです。歴史に「もし」はないのですが、もしキャピトルが始めからビートルズのシングルをレギュラーに発売していたらこの大記録はあり得なかったことでした。皮肉な話ですがビートルズを理解できなかった大人たちが無視したおかげでビートルズ人気のビッグ・バンが起こったといえるのではないでしょうか。もちろん基本にはビートルズという奇跡のバンドがいたからなのは勿論のことですけど・・・

The Beatles - Can't Buy Me Love




(2009年4月23日のブログ「1964年4月4日のビートルズ」を加筆修正いたしました。)

哀しきウィチタの架線作業員

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ひょんなことからジミー・ウェッブを聴いています。で、時間つぶしにネットでウェッブ作の名曲「ウィチタ・ラインマン」について調べていたら、ちょっとびっくりするような事実を知り、この歌から伝わって来る孤独感、哀感をさらに強く抱くようになりました。



ぼくは郡の架線作業員
国道で車を走らせ
太陽の下
過負荷を探し続ける

きみが電線の中で歌うのが聞こえる
電線を通してすすり泣きが聞こえる
だけどウィチタの架線作業員は
ずっと電線の上

短い休暇が必要なんだ
頼みの雨も降りそうにない
南まで雪が降ってくれたらなぁ
でも電線がもたないか

きみが欲しい いやむしろ必要だ
ぼくはいつだってきみが欲しい
だけどウィチタの架線作業員は
ずっと電線の上なのさ




アメリカのロード・ムーヴィーでよく見るだだっぴろくて砂を巻き上げ風が吹く平原に地平線まで真っ直ぐなアスファルトの道が続く、そんな景色が目に浮かびます。そしてその道にそって電柱が点々と立ち、架線がこれまた地平線まで続いている。そんな所で毎日毎日、架線をチェックし荷重により電柱が倒れそうであれば補修をしていく。なんとも孤独で虚しい仕事といえると思います。これだけでも哀感があるのですが・・・。

なんでこの歌はウィチタの架線作業員のことを歌っているのだろう?とふと思ってウィチタと言う地名について調べてみました。するとカンザス州にウィチタ市とウィチタ郡のふたつがあることが分かりました。

カンザス州


ウィチタ市


ウィチタ郡


ウィチタ市は人口38万人の都市で、カンザス州の州都であるトピカや歌で有名なカンザス・シティーなどを越える州で最大の都市のようです。ということで「ウィチタ・ラインマン」の歌詞世界とはちょっと合わないだろうなぁと。

ではウィチタ郡はどうかと言えば、面積は719平方マイル(1862平方キロですからほぼ大阪府と同じようです。)で、河川や湖、池の面積は0.02平方マイル、つまりはほとんど水がない砂漠のような郡ということです。

そして今回調べていて一番驚いたのはその人口でした。砂漠のような郡であれば人口は少ないのだろうなぁと予想はしたのですが、歌が発表された頃の人口(70年調査)は、なんと3274人!(現在は2234人)。水どころか人もほとんど存在しない郡なのでした、いやはや。

乾ききった大地、右を見ても左を見ても人っ子一人見当たらない、まったくの孤独な状態で電柱や電線を黙々とチェックしていく。電線が風を切るぴゅうぴゅうという音が、家で一人待つ妻のすすり泣きの声に聞こえても無理はないよなぁとより歌の世界に入り込んでしまいました。





ウェッブが「ウィチタ・ラインマン」を書いたのは、「恋はフェニックス」をヒットさせたグレン・キャンベルから電話をもらい、「恋はフェニックス」をフォロー・アップするご当地ソングを作って欲しいと頼まれたからでした。

曲のインスピレーションはウェッブがオクラホマのワシタ郡の田園地帯を車で走っているときに訪れました。西方向へまっすぐに続く道を夕日に向かい車を走らせていると道沿いに永遠に続くような電柱が連なっていました。どこまで行っても同じような電柱が続く景色の中、一本の電柱の上に作業員のシルエットに気づきました。



まるで「孤独」という名の絵のようでした。

>曲を書いている最中、遠い記憶の中からやってくる映画のようなイメージがとても鮮明に浮かんできました。これは何かが書けそうだと思いました。ブルーカラーだ、鉄道の保線作業員、電話線の架線作業員、掘削機で穴を掘る人、僕たちが何処でも見かけるような普通の男たちのこと。普通の人を歌にしようと思ったんだ、そして彼を受け入れこう言う、「見ろよ、偉大な魂だ、だけど大きな苦痛もある、心に耐えられない孤独を抱えている、みんな変わらないんだ。このでっかい感情を処理する能力をみんな持っているんだ。」(BBCラジオ・インタビュー)

こうして、出来上がった曲をウェッブから送られたキャンベルは、スタジオにこもってホームシックだったこともあって、歌の世界に入り込み思わず泣いてしまったといいます。



余談ですが、歌のインスピレーションはオクラホマ州のワシタ郡で浮かんでたんですね。ワシタというジェシ・エド・ディヴィスの歌でもおなじみの場所は地図を見ると、ウェッブの生まれたベッカム郡の西隣に位置します。ひょっとしたら「ウィチタ・ランンマン」は「ワシタ・ラインマン」であったのかも知れないですね。ちなみにウィチタはオクラホマ州の北隣のカンザス州にあるということで、ウェッブに土地勘があった可能性が強いので、ラインマンの孤独を強調するために田園地帯であるワシタから乾いた大地の「ウィチタ」に歌の舞台を変えた、たんなる妄想ですが。そういえば「恋はフェニックス」では(おそらくは)LAの恋人の元を離れグレイハウンドに乗った主人公がフェニックス、アルバカーキを経由して最終的にオクラホマに行きつくというのは、やはりウェッブの故郷ということがあったのじゃないでしょうか。となるとあの歌はウェッブの私小説のようなものなのでしょうか。

>ある種の歌には「魔法」があることは否定できない。「ウィチタ・ラインマン」や「恋はフェニックス」みたいな歌。まるでその歌が歌手を待っていたみたいだし、歌手も歌を待っていたみたいに思えるんだ。(songfacts.comインタビュー)

たしかに「魔法」を信じたくなる名曲中の名曲です。








PS. 哀しきウィチタの架線作業員についての追記

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前回書いた「ウィチタ・ラインマン」について書いたエントリですが、検索した記事などでよく分からない部分があってスルーしていたことが、ちょっぴり理解できましたので追記です。

前回の記事でウェッブはオクラホマのワシタ郡の田園地帯を車で走っている時にどこまで続く電柱の上に、夕日をバックにした架線作業員のシルエットを見たことから曲のインスピレーションを得たと書きました。そしてそれはまるで「孤独」という名の絵のようだったと感じたと。

その時の思いはSongfact.comにはこう書かれています。

>大地は真っ平です、手にもった電話を電柱に取り付けた男(作業員)のスナップ写真みたいでした。そして歌がやってきました。その光景はなんなんだろうと思いこんな風に考えました、電柱の上で仕事をするのはどんな気持ちなのか?、そしていったい(電話で)何を話しているのか?。ガールフレンドと話していたのか?そこで彼らが電話をかけ話をしているのは、おそらくはある種のチェックをしてるだけなんだろう、「地点46」「全て良好です。」ってね。

> rigged up on a pole with this telephone in his hand. っていうのが何なんだろうなぁと思って前回はスルーしています。ただ前回貼っていたモノクロの写真がまさに rigged up on a pole with this telephone in his handだよなと。



架線作業員の仕事って、電線の弛みがどうだとか切れそうな箇所は無いかとか、電柱が傾いていないかとか外からのチェックだけじゃなく、ちゃんと通信ができるのかというのが一番重要なチェックになるようです。それを調べるために電柱ごとによじ登って、電話を簡易的に電線に繋ぎ本部に電話してちゃんと繋がるかを確認する、写真はその作業をやっているところを捉えたものということです。

この作業をする作業員を夕日の中のシルエットで見たときにウェッブは仕事が立て込んで長い事家にも帰れない男が、作業用の電話を使ってこっそりと家にいる奥さん(もしくは恋人の家か?)に電話をしているのではないか?と妄想し、あの歌詞が浮かんできたということみたいですね。

I hear you singin' in the wire,
I can hear you through the whine

の部分をだだっぴろく吹きっさらしの乾いた平原にある電線だから、砂嵐のような風があたって電線がぴゅうぴゅう泣き、それが奥さん(彼女?)の鳴き声に聞こえたという風にとっていたのですが、文字通り電話線(wire)から聞こえてきたとうことにも思えてきました。



ちなみに、電話線のチェックとしては電話でチェックする他に(前にかな?)モールス信号を使ってというのもあったようで、キャンベルのバックトラックの間奏やエンディングで高いキーでツーツーツーッツーを鳴っているキーボード(?)の音は、そのモールス信号を模しているようです。

あと、この歌は歌詞が2番までしかないちょっと変わった歌なのですが、実は3番の歌詞も必要ということ何度も催促をされ、ウェッブも「分かった分かった、書けばいいんでしょ」という感じでズルズルと先延ばしにしていたようです。ある日、キャンベルと話していて「ところで、「ウィチタ・ラインマン」はシングル・カットしないんだろうね。」と訊くと「いや、もう録音しちゃったよ。」という返事。しびれを切らしたプロデューサーのアル・デ・ロイがキャロル・ケイに6弦ベースを持たせ3番の歌詞が入る部分にベース・ソロを入れて完成させてしまったというわけです。

インタヴューなどを読むと3番の歌詞はひょっとしたらビリー・ジョエルが評した「Wichita Lineman’ is ‘a simple song about an ordinary man thinking extraordinary thoughts.」(「ウィチタ・ラインマン」は普通の男が他人とは違った考えを思っていることについてのシンプルな歌だ)という、歌に込めたテーマを謎解くようなものになっていたのではとも思えます。

でも、そういう種明かしをしない2番までの短い歌詞の歌に結果的にはなったことで、聞き手側が想いを膨らますことができる名曲となった、そんな風に思ってしまいました。「魔法」ですね。





ぼくはねスベスベなんだ、ぼくはワル、知ってるよね

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ピエール瀧のコカイン摂取による逮捕を受けソニー・ミュージックが電気グルーヴのCDをレコード店の店頭から自主回収を始めたというニュースに対し坂本龍一が疑問のツィートを発したことが話題となっています。

>「なんのための自粛ですか?電グルの音楽が売られていて困る人がいますか?ドラッグを使用した人間の作った音楽は聴きたくないという人は、ただ聴かなければいいんだけなんだから。音楽に罪はない」

個人的には、あくまで自主規制によって販売元がCDを回収してしまうというのは、何かクレームや問題が起こった場合のリスクを考えたある意味で責任逃れのためというのがちらつくため、教授の疑問には賛同いたします。刑が確定するまではあくまで容疑者であり犯罪者ではありません。例えば刑期の間販売は自粛というのであれば少しは理屈も通りそうですが、あくまでまだ容疑者ですしね。

そもそも、新譜発売用に宣伝しプレスを行ったCDを発売中止にするのであれば、会社は損害をこうむりますが、カタログ商品であれば既に発売時にかかった経費はペイして一儲けした後ですし、年間通しても売れる数はしれているでしょうから現実的な損害はほとんどないと思われます。ここは映画やDVDとは違うとこでもありますね。もし映画なんかと同じ風にやるならば、ピエールがゲスト参加した作品があるのであれば、それも回収してしかるべきと思います。例えば小室が実刑を受けた時に本当に小室作品が市場にあるのは大衆の感情に合致しないと思うのであれば、globeやTMNだけでなく安室ちゃんや小泉の「グッド・モーニング・コール」入りのベストも回収しなきゃいけないと思いますが、そんなことは勿論しないですよね。



なんか、あくまでも「回収してもそんな損害ないし、余計なクレームでソニーの名前にケチつけられたくないから回収しとけ。」っていう事なかれの対応に思えてしまいます。

さて、話は変わりますが、日本のピエールの事件どころではない大騒ぎが今アメリカで起こっています。今月の3日と4日の2日間に渡り米国のHBOが放映した「リーヴィング・ネヴァーランド」というドキュメンタリーで、かって子供時代にネヴァーランドでマイケルと一緒に過ごしたという青年2人がマイケルから性的な虐待を受けていたと告発したのです。以前も同様の疑いでマイケルは法廷にたちましたが、その時にマイケルと同じ部屋で過ごしたが虐待は無かったとした少年が今回は「あの時は意味が分かっていなかったが、あれはセクハラだった」と告発をしているなど、非常にショッキングな内容でマイケルに対する一般の評価にも大きな影響がでそうな状況です。



とまぁ、世界のスーパースターのスキャンダルということで、はたして米国の業界はどのような反応を示しているのは、日本のようにCDを回収しているのか・・・。その辺をちょっと向こうの記事で調べてみました。


<「リーヴィング・ネヴァーランド」の児童虐待の告発の後、世界中のラジオ局からマイケル・ジャクソンの歌が消えた>

HBOのドキュメンタリー「リーヴィング・ネヴァーランド」で児童への性的虐待が告発された後、世界中のラジオ局が、マイケルジャクソンの曲をエアプレイから外しています。

ポップアイコンである故マイケル・ジャクソンは彼の欲望のために子供にセクハラ行為を行い、10歳の男の子との偽の結婚式を実施したとされています。このドキュメンタリーを見たリスナーからの多くのプレッシャーの中でラジオ局は行動を起こさざるを得ませんでした。

ニュージーランドでは、人口の半分以上が聴いている2つのラジオ局がマイケルの音楽をプレイリストから削除しました。RNZは、「我々は視聴者と彼らの好みを反映している」と述べています。多くのカナダのラジオ局も同様です。23のケベックの放送局すべてが、プレイリストからマイケルのすべての楽曲を削除しました。HRadioやNorwayのNRKなど、アムステルダムに拠点を置くオランダの放送局もマイケルの曲をすべて削除しました。

タイムズ紙が報じたように、スポークスマンが彼の音楽の完全な「禁止」はないと主張したにもかかわらず、BBCはラジオ2のプレイリストから彼の音楽をひっそりと削除しました。

これらの動きは英国の映画監督、ダン・リードのHBOのドキュメンタリー「リーヴィング・ラスベガス」の放映によって起こりました。ドキュメンタリーには、マイケルから子供の頃に性的暴力を受け、虐待された主張するマイケルのファンの元子供 2人のインタビューが含まれています。彼らは、虐待はネバーランドで行われたと主張しました。

ウェイド・ロブソン は彼が7歳の時からマイケルによって虐待を受け始めた述べました。ジェームズ・セーフチャックは10歳の頃から虐待を受けていたと主張します。二人は今30代になっています。虐待の後に子供たちに宝石を与えたといった「リーヴィング・ネヴァーランド」の映像は視聴者を困惑させました。報道によると、LAタイムズのハリウッド作家エミー・カウフマンには#LeavingNeverlandをつけた信じられないほど多くの聴衆からの感情的なツィートがあったといいます。(3/6 meaww.comより)


放映があった2日後のニュースでラジオ局の多くがオンエア自粛ということで、記事にもあるようにかなりの反響があったのでしょうね。

ラジオの自粛については9.11の時も反戦歌や厭戦気分を煽る曲はまだしも「悲しみのジェットプレーン」といったやりすぎやろと思われるものも即刻プレイリストから外していましたしね。そもそもスウィッチを入れれば誰でも聴けるラジオが不特定多数の聴取者の反応を気にするのは致し方ない気がします。



ではCDはどうなってるのかということで米アマゾンでマイケルを検索すると普通の価格で普通に売られています。欲しい人がわざわざ金を払って買うんだから、その機会を奪う権利は逆にないだろうみたいなこと言われそうな気がします。



ちなみに日本のアマゾンで電気グルーヴがどうなってんだろうと検索してみました。



なんや売ってるやんけと一瞬思ったのですが30周年記念で1月23日に出た『30』が¥16000って何やねん定価は¥3000ちゃうの?とよく見るとアマゾン本体の販売はなくてアマゾン・マーケット・プレイスに出品している一般の業者がこれをチャンスとプレミア価格つけて売ってるんですね。販売元がリスク回避で自主回収したせいで、そのCDを買いたかった人は結局5倍のプレミア否ぼったくり価格で買わざるを得ない、こういうのもなんだかなぁと思います。まぁ本当のファンは出た時にすぐ買ってはいるのでしょうけど。

とフィジカルのCDはそんな状況ですが、米国ではCDより圧倒的にストリーミングで聴いてる人が多いようなので、デジタルの方の状況はどうかということで、面白い記事がありました。

<マイケルジャクソンの歌は今もストリーミングされていますが、ラジオのエアプレイは減少中>

マイケル・ジャクソンという存在を消し去るのはそう簡単ではないかもしれません。

HBOの「リーヴィング・ネヴァーランド」という2人の男性が、少年時代にマイケルから性的虐待を受けていたと告発した4時間のドキュメンタリーの放映後、ファンがはたして良心的に「オフ・ザ・ウォール」や「スリラー」を聴くことができるのかということが論争になっています。

しかし、数字を見る限り、少なくともこれまでのところ、マイケルの音楽の人気には変化がないようです。

ニールセン調べでは、今年の初め以来のマイケルのソロ・カタログの曲はSpotifyやApple Music、Tidalなどのサービスで毎週1600万から1700万回ストリーミングされていました。3月3日と4日にドキュメンタリーが放映された直後の期間を含む先週の合計は16,497,000ストリームでした。

HBOのドキュメンタリーが上映されてからも、毎日のリスニングパターンも変化していないようです。"リーヴィング・ネヴァーランド"が放映された、日曜と月曜の2日間、マイケルのストリーミング数は1日の平均である約230万ストリームを下回りました 。しかしそれは彼の歌が通常でも週の半ばにピークに達するというストリーミングパターンと一致していました。

放映の後の3日間で、それらの数は上昇しました。木曜日には250万ストリームに上昇しました。いつものように、特に人気があったのは、「ビート・イット」、「ビリー・ジーン」、「スリラー」などでした。(3/11 ニューヨーク・タイムズより)




ドキュメンタリーがあって炎上のようなことなってて、マイケルなんてがっかりでもう聴きたくないという人が多いのかと思ったら、放映から1週間の状況を見る限り特にマイケルの音楽から離れて行った人はいなかったということのようです(実際にはある程度は減っているが逆に今回の大騒ぎでひさびさに聴いてみるかという人もいてプラマイになってる可能性もあるかもですが)。

ということで、米国では歌手が問題を起こしても、過去にその人が作って来た音楽は、それにかかわらず聴くという人が多いんじゃないかと思われます。というか例えばラジオ局に「マイケルの歌は流すな」とツイートしてくるようなリスナーは、はなからマイケルの歌を聴いていなかった人が多いんだろうなぁという気がします。そういう人たちってマイケルの歌をストリーミング数に元々含まれていなかった人たちなので、全体のストリーミングに影響はでない。たぶん、レコード業界の人たちもそのことをきちんと知ってるから騒ぎがあったって自主規制なんてしない。今回はマイケルだからですが毎週1600万回も聴かれてるんですもの。ストリーミングで聴きもしない人からクレーム入っても「あなたに実質的な損害を与えていますか?逆にあなたのクレームでストップすればうちは莫大な損害でるのですが、あなた分かってますよね。」くらいの感じなのかもしれないです。

ちなみに日本のSpotifyでは電グルの曲は聴けなくなっています。2枚ほどアルバムがでて来るのですが聴けるのはその中の石野卓球名義のものだけだったりします。米国ではストリーミングできる状態で残してるからユーザー(特にサイレント・マジョリティー的な人)がこういう時にどのような行動をするのか数字としてはっきりと見えてくるのですが、日本のように臭いものにふたをしているといつまでたっても「声の大きい少数派」に左右される状態が続くんだと思われます。いいのかそれで。

ところで、マイケルの児童へのセクハラが事実となった時に、はたしてソニーはマイケルの作品を市場から回収するのか・・・野次馬的興味があります。


アメリカ一番のイカれた人たちが住む街、ローレル・キャニオン 後半

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「前半」最後にも書きましたが、書き終わってアップしようとしたら、久々に4万字を越える投稿になってしまったようで、1回で投稿できませんでしたので、「前半」「後半」にわけさせていただきました。ここからが「後半」となります。「前半」をお読みでない方はこちらから。→「アメリカ一番のイカれた人たちが住む街、ローレル・キャニオン 前半」




ベトナム戦争があり、ホワイトハウスにはニクソンがいた、反抗の時代だ。バッファロー・スプリングフィールドの「ソー・ホワット・イット・ワース」やニール・ヤングの「オハイオ」はそんな空気を反映していた。

デヴィッド・ゲフィン:60年代と70年代の音楽は人々の生活に影響を与えた、文化にも、政治にも。今と昔の違いは徴兵制です。志願兵には同じような反抗の気持ちはありませんでした。僕の若いころ、誰もがギターを弾きたいと思った。今は誰もがゴールドマン・サックスで働きたいと思っている。

デヴィッド・クロスビー:徴兵制は(ベトナム戦争を)個人の問題にした。それはアメリカの全てのキャンパスを反戦運動の温床へと変えました。

エリオット・ロバーツ:エキサイティングな時代だった、何かが変わると思っていたから。ベトナムとブラック・パンサーズと市民権の間で、僕たちは大騒ぎをしていた。徴兵制を逃れるためにカナダに行っていた多くの子供たちが僕たちのショーにやってきた。

J.D.サウザー:もうひとつ覚えておかなければならないのは、当時の人たちが投票権を重要なものと考えていたことです。今の子供たちはホワイトハウスにくそったれがいたとしても気にもとめないんだ。

デヴィッド・ゲフィンとエリオット・ロバーツがLAで共に働くようになり、町に住む多くの新しい才能たちの代弁するようになった時、音楽ビジネスが大きく変わりました。ジョニ・ミッチェル、ニール・ヤング、ジュディ・シル、デヴィッド・ブルー、ジャクソン・ブラウン、JDサウザー、ザ・イーグルスそしてCSN、みんなゲフィン/ロバーツがマネージメントしていた。デヴィッドとエリオットは元はフォーク・シンガーだった人たちを億万長者に変えました。彼らはトロントやグリニッチヴィレッジのコーヒハウスからクラブで歌い始めた人たちを連れてきて時流と場所にあわせ、芸術と商業主義の完璧な融合に成功したのです。

エリオット・ロバーツ:デヴィッドと僕はニューヨーク時代から友達でした、彼はブルックリン、僕はブロンクスで二人とも芸能事務所で働いていました。僕がジョニ、ニールとCSNのマネージメントをしている頃に彼はLAにやってきました。ある晩僕たちは誕生パーティに誘われ、僕はサンセットの家にデヴィッドを迎えに行きました。パーティ会場に着いた時に「ちょっとの間、車から下りないでくれ」と彼は言いました。彼は僕たちがパートナーになりゲフィン/ロバーツとして働くことを考えていると言った。「知らなかったよ」と僕が言うと彼は「エリオット、賢くなれ」と言った。

デヴィッド・ゲフィン:僕たちはとても若かった。でも僕はエリオットと組めばとても良い仕事ができると思った。経験と勘だけが頼りに前に進むことを学んだ。自分たちで編み出したんだ。

エリオット・ロバーツ:デヴィッドは物事に到達するための影響力と誘導灯を持っていた。僕は彼のようなボールは持っていなかったけど。



ジャクソン・ブラウン:デヴィッドは本当に歌の分かる人だ。どういう意味かというと、出会ったアーチストを信じられない才能にしてしまう、ローラ・ニーロみたいに完全なものにしてしまうんだ。ミュージシャンにとってなかなか馴染めない音楽業界と本当に才能のある人々とを結びつける中心人物でした。

デヴィッド・クロスビー:前にも言ったけど、僕たちはサメのいるプールにいることは分かっていたから、自分たちのサメが欲しかったんだ。デヴィッドはハングリーで貪欲だと思っていたのでエリオットがメンシェ(高潔な人)となりデヴィッドがサメになるだろうと考えた。時が過ぎるとエリオットもサメになったけど。デヴィッドのことで僕が一番好きだったのは彼がローラ・ニーロを本当に愛していて、彼女の成功を本当に望んでいたことだ。彼はニューヨークの小さなペントハウスに僕を連れていき彼女に会わせてくれた、彼女にすっかりまいってしまったよ。彼女はとても親密でとても奇妙で才能を持っていた。

デヴィッド・ゲフィン:ゲフィン/ロバーツでは、所属アーチストの誰とも契約書を交わしていなかった。彼らがもし離れたいと思えば、その日にサヨナラできた。

ジャクソン・ブラウン:僕はデヴィッドがクライアントともめているのを見たことがある、でもその後で他の誰かが彼らを貶めしていたら彼は闘うだろう。彼はクライアントにはとても忠実に接していた。おそらく今も彼らの歌を口ずさんでいるだろうね。



アーヴィン・エイゾフ:1973年僕がゲフィン/ロバーツに加わる以前にデヴィッドはすでに事務所を離れレコード会社(アサイラム)を経営していたので僕は基本的に旅する男になった。デヴィッドとエリオットからの最高の贈り物は当時ゲフィン/ロバーツがマネージメントしていたイーグルスとの未来が見えたことだ。僕は彼らと同年代で彼らは本当に魅力がありました。

ピーター・アッシャー:エリオットは輝いていた。ヒッピーのカオス、でも彼が素晴らしいチェス・プレイヤーなのを忘れないで欲しい。そして比較すればデヴィッドは理不尽なこともできる人だった。電話で話していても最後まで彼に何か悪だくみがあるとは思わないでしょう。そして、電話を切った後、あなたは行く事になる、ちょっと待ってくれ、いつそんなことになったんだ?彼には説得力があるんだ。

ジャクソン・ブラウン:デヴィッドは最終的に自分の作りたいと思うレコードが作れる彼自身のレコード・レーベルを作ろうと思っていると言ったんだ。そういう面では、インディーズと共通点があった、インディーズ・ミュージックの父と言っていいかもね。

デヴィッド・ゲフィン:音楽業界は大きなビジネスになり初めていた。1972年にアサイラム・レコードを700万ドルで売った時、支払ったことのある最も高い金額はビバリー・ヒルズの家で15万ドルだった。エリオットとパートナーだった最後の年、1971年から72年、僕たちは300万ドルを稼いだ。大金だった、でももうけっこうだった。僕はレコード会社を売り払った。僕がレコード会社を経営したかった時、エリオットは管理会社を経営したかった。僕は彼に僕が持っていた管理会社の半分の権利をただで与えて、こう言った「エリオットきみにやるよ、でも彼らに何かトラブルがあっても電話はしないでくれ。」って。もちろん彼は同意したよ。

ミッシェル・フィリップス:女たちは実際、一緒になって全てでシーンを盛り上げたわ。

クリス・ヒルマン:西海岸は働く女性にとってよりオープンな場所だったと思います。ジョニ・ミッチェルが成し遂げたことは、僕を含めてソング・ライターやギター奏者として働く多くの男たちよりも、はるかに上をいってました。

デヴィッド・クロスビー:ジョニと一緒にいた時、「グウィニヴァ」のような、おそらくは僕にとっての最高の曲を書いていた。僕は彼女のためにそれを演奏した、すると彼女は言った「最高よ、デヴィッド、じゃぁこれを聴いてみて。」。そして彼女は僕のために4回歌ってくれた、良かったよ。作者にとっては屈辱だったけどね。

ジョニ・ミッチェル:少女だったけど、私は少年っぽくあることを許されていました。男の子たちから私といると裸の自分でいられると言われていました。何故か私は、若いころ、 男たちから信頼されていました。そして私には、面白い男たちを結びつける触媒の役目ができた。

ジャクソン・ブラウン:それは、女性が社会によって注目されるというとても大きな変化の始まりだった。それは宗教的な教義からの独立への大きな一歩であり、そこには何の階層もなかった。いずれにせよ、女性たちはかってない力を持ち始めていた。

ミッシェル・フィッリプス:ママ・キャスはいくばくかのお金を持っていたという点でユニークでした、彼女にはたくさんの友達がいて、彼女はジョン・フィリップスに依存していませんでした。

ボニー・レィット:私には男の子のクラブのようには思えなかった、なぜならその男の子たちとつきあっている本当にいかした女の子がいたから。ジョニはとにかく私が聴いたことある中で絶対的に独創的で深くて輝いていた。彼女は私たち全員に大きな影響を与えていた。エミルー・ハリス、マリア・マルダー、ニコレット・ラーソン、リンダ・ロンスタット、私、みんなグループの一員だった。

リンダ・ロンスタット:人種差別やジェンダーの認識を向上させるという点でのミュージシャンのいいところは、演奏ができる限りは馬鹿にすることはないということでした。演奏ができたら、ハレルヤってこと。

J. D. サウザー:リンダは僕に大きな影響を与えた。僕とウォーレン・ジヴォンのキャリアはリンダがたくさんの楽曲を歌ってくれたという事でできたといっていい。僕たちはいつも感謝していた。彼女はいい耳をしていたし、自分に合う曲を知っていたんだ。

ジョニ・ミッチェル:伝統に囚われないということがミステリアスっていうのが私の才能でした。よくできた右手を持っていたってこと。エリック・クラプトンとデヴィッド・クロスビーとママ・キャスの赤ちゃんがママ・キャスの家の芝生にいる写真があるのだけど、エリックはギターを弾く私を見つめていて、デヴィッドはクリームを舐めた猫みたいに自慢げな顔をしてるの。

グレン・フライ:1974年僕はローレルキャニオンのリッドパスとカークウッドの角に引っ越したんだ、そしてサッカー・シーズンの月曜の夜はポーカーをやって過ごした。悪名高きゲームだ。ジョニ・ミッチェルが嗅ぎつけてきた、彼女はいつもいいカモだった、毎週月曜の夜にはやって来てトランプさ。6時から9時までサッカーを見た後、真夜中過ぎまでポーカーだ。カークウッド・カジノってわけさ。

J.D.サウザー:グレン・フライとドン・ヘンリーがポーカーとサッカーの夜を楽しんでいた頃、リンダと僕はビーチウッド・キャニオンに引っ越していた、ローレル・キャニオンの男たちのクラブでは暮らしたくなかったのさ。



これらの家とともに、ドヒニーの裏手のサンタモニカにあるトルバドールもシーンの震源地だった。特別なバーでした、特に月曜のフーテナニー・ナイトは。「見渡す限り」デヴィッド・ゲフィンが言います「新しい才能がいた。」。ボニー・レイットはツアーが無い時はみんながたむろしていたと言った「女としては、デート相手を探す必要がないのよ、そこに行けばみんながいたもの」。J. D. サウザーは、彼とグレン・フライが1968から69年のほとんどをトルバドールで過ごしたことを思い出します。思いつく限りのすべてのシンガー・ソング・ライターがそこで歌っていたからです。キャロル・キング、ローラ・ニーロ、クリス・クリストファソン、ニール・ヤングそしてジェームス・テイラー。クラブの主人ダグ・ウェストンは出演者にルー・アドラーが「ドラコニアン契約」と呼んだ契約書にサインをさせられました。そして成功してスターになった後も出演を強要されました。

アーヴィン・エイゾフ:あそこで演りたいのなら、サインしなきゃならない。デヴィッドとエリオットは不当なことと思い、ルー・アドラーとエルマー・ヴァレンテインとともに「ザ・ロキシー」をオープンさせました。



ルー・アドラー:我々はロキシーをオープンし、よりよい更衣室と、よりよい音響、よりよい契約をアーティストに与えた。



デヴィッド・ゲフィン:ダグ・ワトソンはデヴィッド・ブルーに演奏をさせなかった。デヴィッド・ブルーを好きじゃなかったんだ。僕は彼に言った「あなたがデヴィッド・ブルーを好きかどうかは気にしない。彼はウチのアーティストだ、もしあなたがジョニやニールやジャクソンを出演させたいのなら、あなたはデヴィッド・ブルーを使わなきゃいけないんだ」。すると彼は「演らせる気はない」と答えた。だから僕たちは自分たちのクラブをオープンさせた。ロキシーを開いた一週間後、レイ・スタークからテーブルが気に入らなかったという電話をうけた、それから誰か知らないやつから飲み物がクソだという電話もあった。それで自分の株をエリオットに売ってしまった。

エリオット・ロバーツ:ウチのバンドたちにとって(トルバドールの)代わりとなる演奏場所が必要だった。トルバドールは150か170席(しかなく)、ロキシーは600席だった。簡単な理由だ。僕たちがダグ・ワトソンに喧嘩を売ったというドキュメンタリーを見た、まったく馬鹿げている。忙しくてそんな暇あるわけないだろ。

グレン・フライとJ.D.サウザーが最初にLAにやってきた時、ローレル・キャニオンにあるリッチー・フューレイの家のドアを叩きました。リッチーは彼らを知りませんでしたが家に招き入れました、バッファローを解散しPOCOを結成しようという時期でした。POCOは4声のハーモニーを持つ最初の「カントリー・ロック」バンドでした。
グレンはリッチーの家をしばしば訪ね、床に座り込み、POCOのリハーサルを見ていました。そんなある夜トルバドールでリンダ・ロンスタットのマネジャーのジョン・ボイランがグレン・フライとドン・ヘンリーに声をかけます。リンダのバック・バンドをやって金を稼がないかと。そのバック・バンドでのツアー中にグレンとドンはバンドの結成について話し合い、それがイーグルスになりました。



リンダ・ロンスタット:イーグルスは多くのバンドが解散するところを見ていました、一緒になり分裂する、POCOやブリトー・ブラザースのように。カントリー・ロックにはいろんなサウンドがありました。ドン・ヘンリーにグルーヴがあったので、ようやくバンドは結成されました。

グレン・フライ:1971年にゲフィン/ロバーツに加わった時、CSNはビッグな存在だったので僕たちは注目していました。僕は注意深く、彼らの何が正しくて何が間違っているのかを探しました。



キャメロン・クロウ:当時、イーグルスはニール・ヤングを尊敬するちっちゃな兄弟みたいでした。グレンはPOCOの失敗した点を見つけ、自分たちの成功に結びつけました。POCOとCSNを最大限利用し、その二つを可能な限り一緒にしようとしました。CSNはエリオットやデヴィッドと違い商売には無頓着でした。音楽がすべて。でもイーグルスにはどっちもあったんだ。

クリス・ヒルマン:僕はイーグルスを尊敬してるよ、ヘンリーとフライも、オリジナルのバンドをね。彼らがやったのは全てのものを吸収することで、見事にやってのけた。僕たりより利口だったんだ。ブリトー・ブラザースでグラム・パーソンと僕は良い曲を書いたよ、でも仕事に対する倫理観をもっていなかったんだ。

グレン・フライ:僕はみんなのキャリアに注目していました。まるでそれが「死者の書」であるかのように、アルバムの裏側を読んでいました。CNSは頂点にいた。2年間はまるでビートルズだった。

スティーヴン・スティルス:(イーグルスは)たしかに興行収入の面で僕たちを打ち破りました。そんな風に金を稼ごうと思ったら、ニールを加入させ、引き留めておくことだ。

キャメロン・クロウ:グレンとドンはソングライターとして本来そうあるべきかたちでは認められなかった。誰もがCSNYを愛したようにイーグルスを愛するなんてクソだってね。

J. D.サウザー:アーヴィン・エイゾフが新聞のインタビューを受けさせなかったので、イーグルスは新聞から嫌われていた。

アーヴィン・エイゾフ:僕はクロスビー、スティルス& ナッシュが好きだった、だけどイーグルスはどこか違ってたと言える。イーグルスはポスト・ウッドストックの存在だった。鏡に写ったラインについて書き続けていた。男の中の男。兄弟以上だった。

マリワナとサイケデリックがカリフォルニアのミュージック・シーンの創造性の燃料となっていましたが、コカインとヘロインが入って来た時すべては変わってしまいました。

デヴィッド・ゲフィン:僕はラリってなかったのですべてを覚えているよ。

ボニー・レィット: それをやって自己崩壊する人がいてパーティは不愉快なものになっていた。10年か15年たって、30代半ばになると20代の頃の面影は見る影もなくなるの。

ピーター・アッシャー:矛盾してたね、思わない?音楽を「メロウ」だと言っていたが、やっていたのは全然「メロウ」な人たちじゃなかった。大量のコカインが関係していて、そいつはメロウな効果が無いのは誰もが知っていたのにね。

デヴィッド・クロスビー:ドラッグはみんなに悪影響を及ぼした。ハード・ドラッグが誰かの役に立ったなんてことはこれっぽっちも考えられないよ。

ジョニ・ミッチェル:コカインは壁を築くの。グラハムと私がとても親密だった時も突然に壁ができたりした。当時はみんなドラッグについて話すことは少なかった。私はドラッギーにはならなかったわ。タバコとコーヒー、それが私の麻薬だった。

ジュデイ・コリンズ:多くの人たちがたくさんのドラッグを使っていた。わたしはアルコールにどっぷりつかっていました。それ以外のものは使っていませんでした、アルコールの邪魔をされたくなかったんです。

デヴィッド・ゲフィン:みんな沢山のお金を稼ぎました。沢山の浪費もしました。デヴィッド・クロスビーも素晴らしい財産を手にしました。彼が最終的にどうなったを見てみればいい、刑務所行でした。

シーンと言うものには終わりが来ます。光輝き、繁栄し、燃え尽きます。1960年代後半から70年代初めのカリフォルニア・ミュージック・シーンはドラッグ、お金、成功、オルタモント、お金、ドラッグ、疲弊、そして新しい音楽の流行によって崩壊しました。

ルー・アドラー:60年代のヒッピー版自由は形成されること無く崩れ去りました。でも私たちはベルエアーに家を買いました、私たちは権力層になったんだ。

ボニー・レイット:いったん成功を収めると、誰だって高級な住宅地に引っ越すし、誰もブラブラしなくなります。独身で20代だった頃は、今みたいな責任もほとんどなくて、本当に黄金時代だった。子供ができたりしちゃったら、教育環境の良いところに引っ越しちゃうしね。

エリオット・ロバーツ:みんな大人になりシーンは崩壊しました。シーンがあったのはみんなが20代の時でした、20代前半のすべてのキッズたちにはシーンがあるんだ。 彼女ができたり結婚したりするといったことすべては突然だ。 30とか35歳になるとシーンは消えてしまう。家族や子供や仕事を持つとね。家を買う。子供にギター・レッスンを受けさせたりユダヤの儀式を受けさせたくなる。 二十歳の時には8人が居間で、6人が床で酔いつぶれていようと「OK」だったのに。 35にもなれば、背中を痛めるのが嫌だから酔いつぶれることはなくなる。

ミッシェル・フィリップス:1969年以前は、楽しみと興奮とチャートのトップを射止めること以外の想い出はなくて、愛すべき日々でした。マンソンの殺人がLAのミュージック・シーンを破壊しました。自由気ままに、ハイになろう、みんな大歓迎、さぁいらっしゃい、座って、そんなことをすべて棺桶に閉じ込める釘のだったのです。誰もが怖がりだしました。ポーチの中には拳銃を入れていました。そして誰であろうと二度と自分の家に招き入れることはありませんでした。

 

アメリカ一番のイカれた人たちが住む街、ローレル・キャニオン 前半

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数日前に海外のクラシック・ロックのサイトを見ていたら「「ローレルキャニオン」のドキュメンタリーがジョニやイーグルスやCSNYなどにスポットライトを当てる」‘Laurel Canyon’ Doc to Spotlight Joni, Eagles, CSNY +というニュースが目に入りました。

高校時代からウェスト・コーストのロックが好きだったこともあって、60年代後半から70年代初めにかけてLA周辺で活躍したミュージシャンの多くがロス郊外のローレルキャニオンという場所に住んでいたということはぼんやりとは知っていましたが、記事を読んでいくと東海岸においてウッド・ストックがボブ・ディランとザ・バンドが住みだしたことをきっかけに、たくさんのミュージシャンが集まり日本でも人気の高い「ウッドストック・ミュージック」(フェスティバルではありません念のため)が醸成されていったのと同じように、ローレル・キャニオンでも多くのミュージシャンが交流することによって様々な化学変化が引き起こされていき日本で言う「ウェストコースト・ロック」のシーンが出来上がったことを知りました。ということで今年後半に発表されるというドキュメンタリーも楽しみではあるのですが、ローレル・キャニオンについてネットで調べている時に当事者たちの証言を集めた2015年の記事 「An Oral History of Laurel Canyon, the 60s and 70s 」にぶちあたり、つらつらと眺めていたらとても興味深い話が多かったので、ちょっと長くはなるのですが抄訳してみることにしました。

記事の冒頭でジョニ・ミッチェルがカナダからローレル・キャニオンに引っ越したきっかけが語られています。ジョニと言えばクロスビー、ナッシュ、などと浮名を流し「恋多き女」というのが一部では代名詞になっていますが、本文を読めばローレル・キャニオンではジャクソン・ブラウンをはじめ誰もが「恋多き男」「恋多き女」だったことが分かり少しばかり愕然としました。

それにしても、登場するほとんどのミュージシャンがジョニの才能に畏れおののいている感じが分かり、70年代以降の特に女性のロッカーたちにとって如何に「ジョニ・ミッチェル」という存在が大きいものだったのかがあらためて分かります。

また、とにかく才能のかたまりのような連中が集まる中、その才能を裏から支え成功へと導いていったデヴィッド・ゲフィンとエリオット・ロバーツの存在がなくてはならなかったこと、また如何に商業主義と折り合いをつけていったのかなど、きれいごとじゃない部分が垣間見えます、

そして最後の方では今日本でも話題のコカインがシーンの中に忍び込んできて、それがきっかけとなってシーンの輝きが失われていったことなど、70年前後のウェスト・コーストの音楽を好きな人であれば興味深く読んでいただける内容ではないかと思います。

ではお時間がありましたら・・・。

ローレル・キャニオンの口述歴史:60年代と70年代の音楽のメッカ

一緒に音楽を作った、一緒にドラッグをやった、一緒にバンドを組んだ、誰もがベッドを共にした。
それなのに60年代後半から70年代初めにかけてLAで花開いた、ローレル・キャニオン・シーンのジョニ・ミッチェル、デヴィッド・クロスビー、リンダ・ロンスタットなどのレジェンドたちの記憶はバラバラだ。


以下本文の抄訳。



>私が最初にLAに訪れた時(1968)に、友人のジョエル・バースタイン(写真家)がフリー・マーケットで一冊の旧い本を見つけてくれたの。そこにはこんなことが書かれていた。
アメリカ人に最もいかれた人が住んでいる場所を尋ねるとカリフォルニアと言う。
カリフォルニアの人に最もいかれた人が住んでいる場所を尋ねるとロサンジェルスだと言う。
ロサンジェルスの人に最もいかれた人が住んでいる場所を尋ねるとハリウッドだと言う。
ハリウッドの人に最もいかれた人が住んでいる場所を尋ねるとローレル・キャニオンだと言う。
ローレル・キャニオンの人に最もいかれた人が住んでいる場所を尋ねるとルックアウト・マウンテンだと言う。
だからわたしはルックアウト・マウンテンに家を買った。 ジョニ・ミッチェル


1960年代後半フランク・ザッパがローレル・キャニオン大通りのルックアウト・マウンテンに越してきた時、ローレル・キャニオンのミュージック・シーンは始まったと言われています。バーズのベーシストであったクリス・ヒルマンはローレル・キャニオンの、名前も思い出せない急な曲り道の上にあった家で1966年に「ロックン・ロール・スターSo You Want to Be a Rock ‘n’ Roll Star」を書いたことを覚えています。ドアーズのジム・モリスンはローレル・キャニオン・カントリー・ストアの裏手に住んでいた時に「ラヴ・ストリートLove Street」を書きました。ミッシェル・フィリップスはママス・アンド・パパスの全盛期の1965年ジョン・フィリップスとともにルクアウト・マウンテンに住んでいました。本やドキュメンタリーにより、ハリウッド・ヒルズのサンセット大通りの奥に位置する森林のような渓谷は神話化されロマンチックな場所となりました。そのことは実は誤解であり、それは今も続いています。



最初、そのシーンは地理的というより比喩的なものでした。そこにいたほぼ全員が一度ならずそれ以上ハイになっていたため、すべてを同じように記憶してる者はいないのです。1960年代半ばから70年代初頭にかけて、最もメロディックで趣味がよく幾分政治性を帯びた曲がローレル・キャニオンの住民やその仲間たちによって作られたのは間違いありません、 ジョニ・ミッチェル、ニール・ヤング、デヴィッド・クロスビー、スティーブン・スティルス、グレアム・ナッシュ、クリス・ヒルマン、ロジャー・マッギン、JDサウザー、ジュディ・シル、ママス&パパス、キャロル・キング、イーグルス、リッチー・フューレイ(バッファロー・スプリングフィールド、 POCO)やもっとたくさんの人々によって。彼らは互いの家を訪ね徹夜のジャム・セッションを行い、互いの曲を歌い、アコギをかき鳴らして一緒に音楽を作りました。家々の多くはステンドグラスのはまったコテージや肌寒いLAの夜のための暖炉を備えたリヴィングルームを持っていました。みんなドラッグをやり、バンドを結成しては解散し、また次のバンドを結成していました。彼らの多くは一夜を共にしていました。その音楽には”ソフト・ロック”や”フォーク・ロック”という間違ったラベルが貼られ、評論家たちからはグラノーラでいっぱいのヒッピー音楽で甘く白すぎると酷評されました。しかし、実際はブルース、R&R、ジャズ、ラテン、カントリー&ウェスタン、サイケ、ブルーグラスそしてフォークからの影響を混合したものでした。ある意味で今日の”アメリカーナ”のさきがけでもありました。

それらの曲が録音されてから40年、彼らのハーモニーとギターのインタープレイはマムフォード&サンズ、ザ・アヴェット・ブラザース、ドーズ、ハイム、ウィルコ、ザ・ジェイホークスやシヴィル・ウォーといった現在のバンドに影響を与えている。アダム・レヴィーン(マルーン5)は次のように述べています。「あの音楽の雰囲気は、そう、車を運転している時のような感じにしてくれる、景色だ。」。ローレル・キャニオン大通りの「フーディニ大邸宅」の持ち主であるプロデューサーのリック・ルービンは「ローレル・キャニオンはフォークとサイケデリック・ロックを交配させ史上最高の音楽を作り出した。」と語りました。



エリオット・ロバーツ:それはるつぼのようだった。みんなあらゆるところからやってきのさ。ジョニとニールはカナダから、グレン・フライはデトロイト、スティーヴン・スティルスとJ.D.サウザーはテキサスから、リンダ・ロンシュタットはトゥーソンから・・・ 。



デヴィッド・ゲフィン:僕が最初にジョニを見たのはグリニッジ・ヴィレッジだった、彼女は夫のチャドとデュオで歌っていた。その後、彼女自身でレコードを作った。

エリオット・ロバーツ:僕は1966年にニューヨークのカフェ・オウ・ゴーゴーでジョニに会った・・・。ショーの後で彼女に言った「僕は若いマネジャーだけど、とにかくあなたと一緒に仕事がしたいんだ」って。その時までジョニは全てを自分自身でやっていたんだ。公演のブッキングをやり、切符を手配し、録音用のテープも運んでいた。彼女はツアーがあると言い、自費でも良いのなら同行してよいと言ってくれた。一か月間彼女とツアーをした後で、彼女は僕にマネジャーになるよう頼んできた。

デヴィッド・ゲフィン:僕はバフィー・セント・メリーのエージェントだった。彼女は僕に何のインフォメーションも書かれていない新しいアルバムのテスト・プレスを送ってきた。僕は彼女に電話したんだ、「やぁバフィー、僕はきみのニュー・アルバムにすっかりいかれちまったよ、大好きだよ。」。彼女は「それはステキ、お気に入りの曲は?」と訊いてきたので「「サークル・ゲーム」だ。アルバム一番の名曲だ。」と答えた。「ジョニ・ミッチェルが書いたのよ。」と彼女は言った。



ジョニ・ミッチェル:エリオットとデヴィッドと私はニューヨークからロサンジェルスに引っ越したの。デヴィットは私のエージェントで、エリオットはマネジャーだった。私は小さな家を買ったの、デヴィッド・クロスビーはもっと探すべきだといったけど、私はその家が好きだった。家の後ろの丘は人口の洞窟がいっぱいあった。家自体はチャーミングだった。36000ドル払ったの。暖炉のある家で不思議な力で護られていたの。6フィートの距離でお隣さんがあったんだけど、ジャンキーが住んでいた。私が街に出て戻ってみると彼らの家は火事で焼け落ちていたの。



リッチー・フューレイ:スティーヴン・スティルは僕に言った、カリフォルニアへ来いよ、バンドを作るんだ、もう一人シンガーが必要なんだって。僕は言った、今向かってるよ。僕たち(バッファロー)がウィスキー(ア・ゴー・ゴー)で演奏を始めた頃、みんなローレル・キャニオンに引っ越したよ。最高の場所だった。ニール・ヤングは例のポンティアックの霊柩車に住んでたけど、ルックアウト・マウンテンに引っ越した。ニールが本当にバンドに参加したがっていたなんて思ったことはないよ。確かに彼はロックン・ロールの象徴であることを証明してみせたけど、スティーヴンこそがバッファローの心であり魂だったんだ。



デヴィッド・クロスビー:バーズから追い出された(1967)後、フロリダへ行った。僕にはロマンチストの気があってヨットを手に入れ海へ出たいといつも思ってたんだ。ココナッツグローブにある喫茶店に行ったらジョニが「山から来たマイケルMichael from Mountains」だったか「青春の光と影Both Sides, Now」を歌っていて、ちょっとショックを受けたんだ。壁にのけぞってしまった。歌を始めたばかりなのにとても個性的だったし、すでに誰よりも良い曲を書いていた。僕は彼女をカリフォルニアに連れていきファースト・アルバムをプロデュースした。

リッチー・フューレイ:スティーヴンは確固たるスタイルを持ったミュージシャンでした。沢山の人たちが彼をコピーしようとしたが無理でした。バッファローが音楽的に上手く行ったのは、ニールとスティーヴンが異なったプレイ・スタイルだったからだと思う。僕は二人を結び付ける接着剤のようなちっちゃなリズム見つけていただけなんだよ。

エリオット・ロバーツ:僕たちはジョニのレコードを作るためにカリフォルニアに向かった、そしてルックアウト・マウンテンで家を手に入れた 、4軒の向かい合った家だ。デヴィッド・クロスビーのプロデュースでサンセット・サウンドでジョニのファースト・アルバムをやってた時、隣のスタジオではバッファローがレコーディングをしていた。ジョニは「ニールに逢いましょう」と言った、カナダ時代から知っていたんだ。その夜、僕たちはベン・フランクの店に行った、当時はそこしか真夜中に開いてる店は無かったんだ。それで僕はニールと仕事をすることになった、そのすぐ後にはジョニとニールのマネジャーになっていた。ニールはバッファローを脱退した、以前も2度脱退していたけど今回は戻ることは無かった。ジョニの家でシーンは動き始めた、僕たちが夜通し過ごす時の中心になっていたから。



グレン・フライ: カリフォルニアに行った最初の日、僕はラ・シエネガをサンセット大通りに向かって走っていた、角を右に曲がりローレル・キャニオンに入って最初に出会ったのが、キャニオン・ストアのポーチに立っているデヴィッド・クロスビーだった。彼はバーズのセカンド・アルバムと同じ服で着飾っていた。ケープを羽織り平らでつばの広い帽子をかぶっていた。まるで彫像みたいだったよ。そして2日目にはJ.D.サウザーに逢っていた。


J.D.サウザー:全てはまさに進化の一種だった。実際には「機会」なんて無かった。



スティーヴン・スティルス:20年代のパリほどでないにしても、すごく活気のあるシーンだった。

グレン・フライ:空気中に何かある感じだったよ。僕はデトロイトからやって来たけど、あそこは活気が無かったよ。丘の中腹には家が立ち並び、今までに見たことも無かったヤシの木やユッカ、ユーカリそして埴生があった。魔法のような場所でした。



クリス・ヒルマン:ロックン・ロール以前にローレル・キャニオンには沢山のジャズやボヘミアンのようなビートニク風のものがありました。ロバート・ミッチャムは48年のパーティでマリワナによって逮捕されています。

ジョニ・ミッチェル:私のダイニングからはフランク・ザッパのアヒル池が見えたの。母が訪れた時があって、3人の女の子が池のいかだの上に裸でいたの。母はすっかり怯えちゃってた。バッファローが演奏をしていた丘の上の方では、午後になると耳障りな音を出す若いバンドがリハーサルをしていた。でも夜は静かだった、猫とモッキンバード以外はね。ユーカリの香りがしていて、春になると、雨のシーズンだけど沢山の野生の花が咲き乱れていた。ローレル・キャニオンはとってもいい香りがしていたの。

デヴィッド・クロスビーは1967年のジョニのファースト・アルバムをプロデュースしている間、ジョニの家に一緒に住んでいた。彼はスティーヴン・スティルスを連れてきた、もしくはみんなでママ・キャスの家に行っていた。ソング・ライターのデヴィッド・ブルーとデイヴ・ヴァン・ロンクはしばらくの間エリオット・ロバーツの家に住んでいた。ポップ・グループであるホリーズに嫌気がさしていたグラハム・ナッシュもいた。クロスビーとスティルスとナッシュが最初に一緒に歌った場所はどこなのか?それがはっきり分からないことは誰もが認めています。

ジョニ・ミッチェル:私はオタワでグラハム・ナッシュに会い、その後カリフォルニアで再会しました。デヴィッドは私のファースト・アルバムをプロデュースしていて、役者はみんなそろっていました・・・。 私の家で紹介しあったと思うの、そしてクロスビー・スティルス&ナッシュは生まれたの。

スティーヴン・スティルス:僕の心の中にはつねに路地猫のための場所があるんだ、そしてデヴィッドときたらほんとファニーなんだ。僕たちがバンド結成を考えていたある日のこと、しばらく会ってなかったママ・キャスをトルバドールで見たんだ。彼女は僕に「三番目のハーモニーはいらない?」と訊いてきた。「どうだろう、人と声によるな。」と返事をすると「デヴィッドがあなたにギターを持って私の家に行こうと言った時には、何も訊かずに、家に来てね。」。僕はこの女王蜂が袖の下に何かを隠しているのが分かりました。そして、しばらく後、デヴィッドは私に「ギターを持ってママ・キャスの家に来てくれ。」と言った。リヴィング、ダイニング、プール、キッチン、今もはっきり覚えているよ、そして僕たちがリヴィングに入るとグラハム・ナッシュがいた。ママ・キャスが行った「さぁ歌って」。僕たちは歌った♪朝、目が覚めると・・・♪ “In the morning, when you rise . . . ”(「泣くことは無いさYou Don't Have to Cry」の冒頭)







グラハム・ナッシュ:スティーヴンは完全に忘れちゃってるね。僕ははっきりと覚えているし、デヴィッドもね。ママ・キャスの家でじゃないよ。たしかにママ・キャスの家でも歌ったけど、初めてではなかった。

ジョニ・ミッチェル:まぁ、重複しちゃうことはあるでしょう、だってママ・キャスのとこには入りびたってたもの。だけど、最初の夜に彼らは叫び声をあげたの、あれは私の家で起こったことよ。彼らの声がブレンドされ私のリヴィングで大喜びするのを覚えてるもの。

スティーヴン・スティルス:デヴィッドとグラハム は僕をジョニの家に連れて行ったと主張している、だけどそいつは不可能なんだよ、ジョニは僕のことを彼女の前で歌うには「くそったれすぎる」と怖がってたからね。 どの本をとっても何が正しいのかは分からない、みんな記憶が違ってるんだから。ママ・キャスはもういないしね、彼女はきっと全てを覚えてたよ。

グラハム・ナッシュ:スリリングで解放された気分だったよ、僕はホリーズで成長したからね、かれらを信頼しなくなったのは僕が作った「マラケッシュ急行」のような曲をレコードにしたくないって言ったからだ。デヴィッドとスティーヴンは不意に言ったんだ「いい曲じゃないか」、そして僕たちは歌った。

デヴィッド・クロスビー:ニールがCSNに参加した時に彼は僕たちがグループだとは思っていなかった。彼にとっては足がかりだったんだ。彼はいつだってソロでの成功を目指していて僕たちはそこへ行きつくための手段だった。彼が素晴らしいミュージシャン、ソング・ライターとしてCSNYに貢献したのは認めてるよ。世界最高のバンドだと思った瞬間もあったからね。

グラハム・ナッシュはキャス・エリオットのことを”ローレル・キャニオンのガートルード・スタイン”と表現した、1920年代のパリのフルールス通り27にあったものと同じような「サロン」を持っていたからだ。ママ・キャスは音楽界と映画界からの友人を一緒に家に招きました。彼女は話し上手でストリーテラーで、すべてを手にしていました。スティーヴン・スティルスに言わせれば「いつだってそこに行けるけど、まずは電話だ。」だとか。

デヴィッド・クロスビー:ママ・キャスはとても愉快で快活な人だった、誰もが例外なく一緒にいて話がしたいと思っていた。彼女はみんなの事を知っていたし、みんなは彼女が好きだった。



ミッシェル・フィリップス: ウッドロウ・ウィルソンに越してからはママ・キャスの家はとてもだらけていました。灰皿は溢れかえっていました。お客にサイン・ペンで壁に電話番号と伝言を書かせていました。たくさんのマリワナを吸っていました。当時の私は食べ物への興味はありませんでした、でもそこには大人の男が沢山いたので、食べ物は必要でした。彼らはおそらくはグリーンブラッツ・デリに電話して、20種類の異なったサンドイッチの大皿を配達させていた。

グラハム・ナッシュ:僕にとってはすべてはテーマパークみたいっだった。人々は僕に意見を求めました、どうしてあなたはハーモニー・パートを試してみないのかと。ロサンジェルスはとても自由な感じで、アメリカは信じられないような場所でした。映画の中みたいに電話は鳴りました。食事をテイクアウトするなんて、一体、誰が考えたんだろう。

ミッシェル・フィリップス:ママ・キャスの家は私が見てきた家の中でいちばんしっちゃかめっちゃかな状態でした。掃除はしない、片付けもなし、皿も洗わない、ベッドも整えない。彼女がウッドローウィルソンに引っ越す前のスタンレーヒルズの彼女の家に行ったのを覚えています。彼女の家に着くと彼女は留守だったのでかなてこで窓をこじ開け中に入りました。あなたは巨大な業務用サイズのマヨネーズ瓶を見たことある?こぼれたまま床に放置されていたの。
私はキッチン全部を掃除したの、それから家全部も 、3時間半もっかってよ。きれいになるまでとにかく掃除した。そしてドアから出ていった、彼女には話してないけど。


みんな独身だった。みんな20代だった。一晩中ぶらぶらできた。ジャクソン・ブラウンがこんなこと言ってた「全員が全員と寝ていたよ。性の革命の時代で、エイズのない時代だった。だけど性病が無い時代ではなかった。僕たちは心の中に無料診断所を持っていた、甘い考えだった。」。



リンダ・ロンスタット:そうね、デートするとしたら・・・歯医者かな?もしあなたが賢い人ならバンド・メンバーとはいちゃつかない。そうもしあなたが賢い人ならね。



ピーター・アッシャー:リンダはプロデューサーのジョン・ボイラン、J.D.サウザーそして誰かと録音をしていた、みんな彼のボーイフレンドだった、うまくいくと思うかい。僕は最初プロデューサとして加わり、その後彼女からマネジャーを頼まれた。 リンダと私は男と女にはならなかった、それがおそらく良いことだった、彼女は信じられないほどホットだったからね。



ボニー・レイット:J.D.サウザーは偉大なソング・ライターの一人でイケメンで素晴らしいシンガーだった。そしてもちろん彼とリンダは長い事アツアツだった。まるで家族の一員だった。

スティーヴン・スティルス:ジュディ・コリンズに会うためにニューヨークと行ったり来たりだったので、そういうのは見逃してたな。



ジュディ・コリンズ:スティーヴンは私のバンドにいたの。バッファローを解散しCSNを結成する前。私たちは恋に落ちとてもホットな関係だった。一目ぼれだった。ロバート・ケネディが暗殺される4日前のことよ。

デヴィッド・ゲフィン:信じられないほど才能にあふれ、魅力的な人々がいるシーンでした。彼らの多くは誰かれなくセックスしていた。誰が拒める?バース・コントロールとプレ・エイズの時代だった。今とは違うんだ。

エリオット・ロバーツ:近親相姦(ジョニとデヴィッドとグラハムの関係のこと)は頻繁には起こらなかった。

ジョニ・ミッチェル:デヴィッド・クロスビーと私は恋人関係にはならなかった。フロリダで一緒に過ごしたけど、彼はドラッグもやらず、とても楽しい関係だった。私たちは自転車でココナッツグローブを通ってボートに乗りに行きました。デヴィッドの欲望は彼を求めるハーレムの若い女の子たちに向けられていたの。私はしもべにはならないもの。私は子供のような心を持っていて、それが彼にとっては魅力的だったし、私の才能は私を魅力的にしていた。私たちは恋仲にはならなかった、フロリダで短い夏のロマンスがあったと思うかも知れないけど。

デヴィッド・クロスビー:僕はたくさんの女性と一緒にいたいと思っていた。ジョニと一緒にいた時は彼女にとても惹かれたよ、だけど彼女には自分の考えがあったんだ。グラハムとの出会いは間違いなく彼女の人生で起こった最高の出来事だった。

ジョニ・ミッチェル:グラハムと私は恋に落ちた、彼が病気になった時にはナイチンゲールのように看病し彼は回復した。私たちは良いカップルでした。グラハムのために料理を作ったけど、問題は彼がマンチェスターから来たことだった、缶詰のしわしわで灰色のエンドウ豆が好きだなんて。私は市場で買った新鮮なエンドウ豆が好きだった。料理が好きでした、けっこう大雑把だけど。なのに彼はコカインを吸っていて、食欲は無かった。

グラハム・ナッシュ:ジョニと僕は特別だった。彼女と過ごした1年半か2年をとても光栄に思うよ。

書き終わってアップしようとしたら、久々に4万字を越える投稿になってしまったようで、1回で投稿できませんでしたのでここまでを「前半」とさせていただきます。引き続き「後半」をお読みいただける方はこちらからお願いいたします。→「アメリカ一番のイカれた人たちが住む街、ローレル・キャニオン 後半」

長距離ドライバーの孤独 「恋はフェニックス」考

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ぼくがフェニックスに着く頃 彼女は目を覚ますだろう
彼女は気づくだろう ドアに残したぼくのメモに
彼女は笑うだろう ぼくは出て行くよという一言に
また出て行ったのねくらいに思うから

ぼくがアルバカーキーを走る頃 彼女は仕事中だろう
彼女は昼食をとるだろう そしてぼくに電話する
だけど彼女が聞くのは 鳴り続ける呼び出し音
だれも出ない壁の電話 それだけ

オクラホマを走る頃 彼女は眠りにつくだろう
ゆっくり寝返りをうつだろう そして僕の名を大声で呼ぶ
彼女は泣き出すだろう どうやらぼくが本当に去ってしまったと
ぼくは何度も何度も彼女に伝えていたのに
彼女はぼくの気持ちをこれっぽちも知らなかった



Songfacts.comによると「恋はフェニックス」はウエッブが高校時代からつきあいになるスージー・ホートンと恋愛がもとになっているようです。

>「マッカーサーパーク」がそうであったように、「恋はフェニックス」はジミー・ウェッブがカリフォルニアのコルトンの高校生の頃に付き合いはじめたスージー・ホートンについて書いたものです。 彼女がダンサーになるためにレイクタホへと逃げるように去ったため、ウェッブは激しく心を痛めました。そして彼女が別の誰かと結婚したことを聞き、最悪の気持ちになりました。1969年のブルックリン・ブリッジのヒット「恋のハプニング(Worst That Could Happen)」(初出は67年のフィフス・ディメンション)はその体験が下敷きになっています。彼女の結婚は失敗に終わります。1993年、ホートンはリンダ・ロンスタットのいとこのボビーと結婚し、今はスージー・ロンシュタットとして暮らしています。

歌詞では去っていくのは男の方になっていますが、現実ではダンサーを夢見たスージーの方がウェッブのもとを去っていったということのようですね。

歌詞を読み直すと経由地としてフェニックス、アルバカーキーという具体的な都市名が出てきていますが、出発地は書かれていないし最後に走っているのも都市名ではなくオクラホマという広い州の名前になっています。出発地、目的地はどこだったのでしょうか?

ウェッブは1946年8月15日にオクラホマ州のエルクシティで生まれています。幼い頃から音楽の才能を発揮していたようで、牧師であった父は息子に音楽を学ばせようと64年に一家は南カリフォルニアのサン・バーナディーナ郡のコルトンに引っ越しをします。このコルトンの高校でウェッブとスージー・ホートンは出会っています。その後65年に母が亡くなり父はオクラホマに戻りますが、ウェッブはそのままコルトンに残りサン・バーナディーナ・バレー大学に進学し音楽を学んでいます。



大学に通いながらモータウン・レコードの出版部門Jobete Musicとソングライティング契約を結び、LAでスタッフ・ライターとして音楽業界にかかわっていきます。

という経歴を考えると出発地はカリフォルニアのコルトン、そして目的地は最後に走っているのがオクラホマ州ということで故郷であるエルクシティではないかと推測します。その推測に従って旅の行程をたどってみることにします。なんとも便利なことにGoogle Mapがそのまま使えるんですね、ってもともとあっちのアプリケーションだから当たり前ですが。

カリフォルニア州コルトンからアリゾナ州フェニックス



ハイウェイ10号線を東に向かって一直線という感じですね。距離は319マイル(513km)所要時間がGoogle Mapによれば4時間52分となっています。

歌詞の中では「ぼくがフェニックスに着く頃 彼女は目を覚ますだろう」となっています。彼女が6時に目をさますと仮定するとコルトンを出発するのは午前1時ころということになります。前の日の夜に何らかの、おそらくこれまでもよくあったような諍いがあり男の方はついに堪忍袋の緒が切れてしまいます。彼女がふてくされて寝てしまった後、メモを書き家を出て車に飛び乗ります。そして夜が明ける頃フェニックスの街を通過します。

アリゾナ州フェニックスからニューメキシコ州アルバカーキ



歌詞では「ぼくがアルバカーキーを走る頃 彼女は仕事中だろう 彼女は昼食をとるだろう そしてぼくに電話する」、行程は419マイル(674km)、予定時間は6時間半。フェニックスが朝の6時でしたから12時半頃となり確かにお昼休みの時間帯にはなりますね。

ニューメキシコ州アルバカーキからオクラホマ州エルクシティ



歌詞では「オクラホマを走る頃 彼女は眠りにつくだろう」となっています。行程は432マイル(695km)、予定時間は6時間21分。フェニックスがアルバカーキがお昼でしたから、そのまま行けば19時頃になるので寝るにはちょっと早いですね。長距離の運転ですからアルバカーキあたりでかなりの休憩でもとったのでしょうか・・・。

ってことで全行程を考えると1170マイル(1882km)で時間は17時間43分。平均時速66マイル(106km)で18時間、かなりきついというかほぼ無理な感じがします。実際ウェッブもインタヴューで以下のようなこと言っていたみたいです。

>コンサートが終わった後である男が近づいてきてあなたがLAからフェニックスに車で行くのはどれほど現実的でないかを示した、そのうえアルバカーキまでどんなに遠いかも、要するに彼が言ったのは「この歌はあり得ない」だ。 確かにそのとおり。この歌はぼくがやるべきであったと望む何かについてのある種のファンタジーなんだ、そして逢魔が時だったら起こりえることなんだ。

まぁもちろんフィクションなので「ありえない」こともある程度はOKだとは思います。ただ彼女が眠る頃を真夜中の12時とすれば、彼女が寝入った1時ごろに走り出しフェニックスを6時に通過し12時半頃にアルバカーキに着く。行程は638マイル(1026km)、平均時速55マイル(88km)、長距離トラックの運ちゃんだったら可能なのかな?そこからは彼女が眠りに着く(夜12時)までにエルクシティに着けばいいので11時間半あるのでアルバカーキでで4時間半ほど睡眠をとって走れば7時間で432マイル(695km)ということで平均時速62マイル(100km)で走れば良い事になり、うーん不可能なのか可能なのか?

ところで最初のコルトンからフェニックスなのですが、513Kmという距離が、大阪から東京と同じくらいな気がするなと調べてみると、Google Mapでの距離は503Kmでした。



ただ所要時間はコルトンーフェニックスが4時間52分なのに対して大阪ー東京間は5時間49分と約1時間余計にかかっています。時速で計算すると86.4Km/hと、コルトンーフェニックスの105.3Km/hに比べ平均時速で20Km/h近く遅い速度になっていますね。しかし、大阪ー東京を車で走った経験から考えると、けっこうそれだけでヘトヘトでそこからさらに1200Km余りを走るっていうのは、いやいや不可能でしょ。

話がちょっとそれますが一日で大陸のほぼ半分を横断、で思い出すのが1971年の映画「バニシング・ポイント」です。中学で観たときには1日で大陸横断と思っていてすげぇこと考えるなぁと思ったのですが、確認すると主人公ノコワルスキーはコロラド州デンバーからサンフランシスコまでダッジ・チャーレンジャーを陸送するというお話でした。Google Mapで確認してみます。



行程は1248マイル(2008km)予定時間は19時間31分。「恋はフェニックス」よりちょっと長い行程でした。ただWikiを見ると一日ではなく土曜のお昼に出発してシスコには月曜のお昼に届けるということで歌に比べるとずいぶん楽な行程なのですが、出発前に仲間から無理なことせず休めとか言われているので3日で1248マイルっていうのも大変なことが分かります。

ということで、1日でカリフォルニアのコルトンからオクラホマのエルク・シティまで車を飛ばすのは不可能と思われます。ただ、もし自分の運転ではなくグレイハウンド・バスのような長距離バスを乗り継いだとすれば不可能ではない行程のようには思えます。

そう思い、「恋はフェニックス」が収録された同タイトルのアルバム・ジャケを見直せば、ギター・ケースを抱えたグレン・キャンベルが木製のベンチに疲れた様子で座っている写真。これって夜行バスを待ってる姿に思えてきますし、暗にリスナーに対して「恋はフェニックス」の主人公はバスで街を去ったんだよと示しているようにも思えてきます。



Music
Glen Campbell – vocals, acoustic guitar
James Burton – acoustic guitar, electric guitars
Joe Osborn – bass guitar
Jim Gordon – drums

ティーンエイジャーは両親にストリーミングを教え、ラジオはナーヴァスに。

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ローリング・ストーン誌にちょっと面白い記事があったので抄訳してみました。Teenagers Are Teaching Their Parents to Stream, and Radio Is Nervousという記事です。近年、定額制のストリーミングで音楽を聴くというスタイルが一般化したおかげで音楽CDの存在は、風前の灯となっています。ところが、ストリーミングはCDだけではなくラジオというメディアで音楽を聴くという行為にも打撃を与えるのではないか?実際に、ストリーミングで音楽を聴いている10代の子供たちが、その親たちにラジオなんかよりストリーミングの方が便利だよということを教え、SpotifyやAppleMusic に加入する親世代が増えてきているといいます。

はたして、ストリーミングによってラジオという存在は消えてしまうのか?記事はそんな心配は杞憂だとしています。むしろ、ストリーミングとの相乗効果でラジオの存在価値をあげるチャンスもあり得るとしています。

ティーンエイジャーは両親にストリーミングを教え、ラジオはナーヴァスに。

コアなFMリスナーは歳をとっています。 そして、その子供たちはSpotifyをママとパパに教えることで、ラジオの牙城を侵食しているかもしれません。



ボイスメールを残したり、野球を見たりするのと同じように、ラジオを聴くことは高齢者に人気があります。エジソン・リサーチ社の分析によると、「FMラジオはあなたの世代のためのものですか」という設問に、親世代の70%が同意しています。そして10代では34%だけが同じように感じています。

ラジオを敬遠する10代の若者たちは、両親がミニバンのラジオのプリセットをいじるだけでは満足できません。代わりに、小馬鹿にしながら、新しい技術を使って音楽を流すように提案します。

これは、カントリー・ラジオのフォーマットについて議論するために毎年開催されるカントリーラジオセミナーでの最近の発表のあらましです。エジソン社によると、10代の子供を持つ親は、持たない親よりも過去24時間以内に何かをストリーミングしたと答える割合が約20パーセント高くなります。

「両親が今もラジオを聴いていると、10代の子供もラジオを聴きます。」メーガン・ラゾヴィックとラリー・ロージンと共にエジソン社の研究論文を執筆したローラ・アイヴィーは語ります。「しかし、10代の若者にとって音楽の聴き方で最も好ましく感じるのはスマートフォンで、70%を占めています。今、私たちは、音楽を聴く方法としてスマートフォンがFMラジオと同じくらい大きな役割を果たすことを、10代の子供の親たちによって気づかされています。」

アイヴィーとラゾヴィックのプレゼンでは、10代の子供の親は段階的にストリーミング・テクノロジーを使いだしていくと説明しています。子供たちが「堕落」への代理人を務めるのです。「子供たちは私に(ラジオを聴くのではなく)AUXコードを使って自分の携帯電話を繋ぐ方法を教えてくれます。」と一人の母親が研究者に説明しました。また別の母親は彼女の子供たちについて語ります、「Spotifyが私の人生を変えるだろうって言われました。 それはある種の正解でした。」

奇妙に聞こえるかもしれませんが、現代では、10代の子供たちは両親と一緒に音楽を聴こうとしています。今までは必ずしもそうではありませんでした。「社長のラリーは、彼の母親が、ロックンロールは音楽じゃないと言っていたことをよく話してくれます。」と、ラザヴィックは語り。「ラリーの母のような世代は(若者の)音楽についてまったく無理解でした。今はその頃とはかなり違うようです。両親と彼らの10代の子供たちは音楽を通じてかなり関係があるように思われます。」

エジソン社によると、両親の76%、10代の60%が「音楽を聴くことはあなたとあなたの10代の子供にとって重要な活動である。」という設問に同意しています。「遠回しな賛辞であるかもしれませんが、それが望ましい事であると考える冷静さはあります。」3人の子持ちであるアイヴィーは付け加えます「でも、更に冷静であることが必要であると思うほどには冷静ではありません。」



簡単なことです。エジソン社の調査によると、ラジオはストリーミングの約2倍の人気があります。ラジオはまだまだ、10代の若者の間でも音楽の聴くための主要な方法なのです。しかし、ストリーミングに対するそのリードは急速に縮まっています。二つのグループが互いに恥ずかしい思いや不愉快な気分を持たずに交わることができれば、浸透が起こります。そうすれば両親はもっと頻繁にストリーミングを使うでしょう。調査対象となった1,909人の両親のうち68%が、「あなたの10代の子供たちは新しい技術であなたを手助けしている。」という設問に同意しています。

「子供たちは(Spotifyの使い方を教えて)私が簡単に音楽を聴けるようにしました。」別の母親がエジソンのプレゼンで発言しました。「彼らは私が欲しい曲を聴くのをずっと簡単にしました。」

アイヴィーはエジソン社の新しい研究を強調します。「ラジオに関して悲観的もしくは見下した内容の研究とは見なして欲しくありません。」「まだ多くのリスナーがFMラジオを使っています。」と彼女は付け加えます。「大規模な聴取率を忘れてはいけません。」

ラジオが国を覆い尽くしているのは事実です。「当社の調べでは毎月ラジオを聴く人の数はアメリカ人の91%に達しています。」 iHeartメディア社のCEO、ボブ・ピットマンは、次のように述べています。「10代の若者では、ラジオを毎週聴く人は93%に達しています。 私たちは(ストリーミングで音楽を聴く)未来に興奮しています、でも忘れないで欲しい、全ての人々が未来に興奮してるわけではありません。」SpotifyとApple Musicへの忠誠を誓うリスナーの割合が13%上昇したにもかかわらず、ラジオを聴いていると答えた人が84%いるという割合が2011年から2018年まで変わらなかったことを示す別の調査にも彼は注目します。

最終的な将来像としてピットマンは、ストリーミングとラジオが調和して機能するだろうと考えています。「私たちはストリーミングを競争相手と見なしたことはありません - この2つは一緒になっています。」と彼は言いました。そして、今日のストリーミング・ライブラリを従来のCDのコレクションに例えています。「新しい音楽を発見するための効率的な方法が見つからなければ、音楽コレクションはあまり役に立ちません。」 ピットマンは続けます。「アメリカ人の約70〜80%の人々にとって音楽を発見する主な方法はラジオです。音楽コレクションを持っていてラジオも聴いている人、それが皮肉ではありますが私たちのリスナーです - 私たちは彼らにコレクション追加​​のための有用性を提供しています。」



エジソン社の調査結果はこの相乗的な見通しを支持しているのでしょうか?「車の中の技術が追いつくまでの何年かは、人々はラジオを聴き続けるだろうとと思います、なぜなら車にはボタンが1つしかなくそれ以上の手順が無いからです。」とラゾヴィックは言います。「しかし、10代の若者と話をした後は、自分のスマートフォンを使用するために必要な手順は、どの放送局を聴くかを考えるよりも簡単だと思いました。」。10代の半数近くは、自分の携帯電話を使用するほうがラジオでゴタゴタするよりも簡単だと同意しました。

エジソン社はFMの素晴らしさを若者に紹介するために2つの戦略を考えています。「ラジオ局は、10代の若者をターゲットにしたり、ラジオの使い方を教育したりすることはしていません。」とラゾヴィック氏は言います。そのため、「彼らはそれがもたらす価値を認識してないのです。」とアイヴィーは付け加えます。プレゼンの後、22歳の若者が立ち上がってこう言いました、「私はストリーミング・サービスからの広告に攻撃されています。ラジオについては私に話す人はいません。私の町のラジオについて、それが何を提供しているのか、どうすればわかりますか?」

エジソン社は両親にも提案します。「カントリー・ミュージックを聴く10代の若者の60%は、両親からより多くのカントリーを聴かされたと述べています。両親は音楽の選択に関してある程度の影響力を持っているのです。」  とアイヴィーは言いいます。つまり、子供たちがストリーミングの使い放題を親たちにロビー活動しているのと同じように、両親はラジオの素晴らしさを子供たちに伝道することができるのです。

Spotifyはラジオにとって新しい脅威になる可能性があります。そして、ラジオを愛する両親は昔からの挑戦に直面しているのです。自分の好きな音楽を自分の子供にも好きにさせるという挑戦に。




ストリーミングを使って音楽を聴くようになっても、新しい音楽との出会う機会はやはりラジオからという意見には納得がいきます。あと最後の親が自分の好きな音楽を子供にも好きになって欲しいというのは誰もが思うことなんですね。僕の場合は仕事が音楽ソフトの卸だったこともあって、娘たちが好きそうな楽曲のサンプルを手に入れて車の中でかけたりして甘やかしたせいか、ほとんど親とは違う音楽を聴くようになってしまいました。もっとスパルタ的にやるべきでしたと後悔です。

モスキートーズっていうフォーク・ロック・バンドを知ってるかい?

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The Mosquitoes : "Don't Bug Me" : "He's A Loser"



あなたはモスキートーズThe Mosquitoesというバンドをご存知だろうか?64年にビートルズがアメリカに上陸しビートルマニアという大嵐を巻き起こした後に、ビートルズに対するアメリカからの返答として生まれた有象無象のバンドのひとつで、65年に"悩ませないでDon't Bug Me"や "彼は負け犬He's A Loser"といったスマッシュ・ヒットを放ったフォーク・ロック・バンドである。全盛期の彼らは当時のアメリカの茶の間(!?)で大人気であったCBSのドラマ「Gilligan's Island」にもゲストで登場していて、上にアップしたYOUTUBEの動画はその時のものです。日本でも「もうれつギリガン(orギリガン君SOS)」というタイトルで放映されていたのでご記憶の方もいらっしゃるのでは・・・・・

なんて、冒頭からフェイク記事で申し訳ありません。モスキートーズは実在のバンドではなく1965年12月9日に放映された「もうれつギリガン」の「Don't Bug the Mosquitoes」というエピソードに登場する架空の人気バンドです。



「もうれつギリガン」は本国での放映は1964年9月26日から1967年4月17日までの3シーズン行われ、日本での放映は1966年から1967年にかけての1シーズンのみのようですから、ひょっとしたら第2シーズンに放映されたこの「Don't Bug the Mosquitoes」は日本放映は無かったのかもしれないですね。

*「もうれつギリガン」についてはコチラを→米ウィキ 、日本語ウィキ

ビートルズの影響を受けたバンドが登場するドラマといえば勿論NBCの「モンキーズ」を思いだすのですが、放映が1966年9月12日から1968年3月25日の2シーズンということで、モスキートーズのエピソードが65年12月9日ですから約9か月モスキートーズが早かったことになりますね。ただ65年9月8日にはモンキーズのオーディションの広告が新聞、雑誌に載っていたみたいなのでアイデアとしてはNBCが先だったのかもしれません。



いずれにせよ65年にはビートルズ人気のおこぼれに預かろうと3大ネットワークもいろいろやっていたっちゅうことなのかなと。

閑話休題。「Don't Bug the Mosquitoes」がどんなエピソードであったのかあらすじを書いておきます。

スキッパー船長はある朝、ギリガンのラジオから大音量で流れるロックンロールで目を覚まします。スキッパーは小屋からギリガンを追い出しますが、それにより今度は大金持ちのハウエルが音に悩まされてしまいます。ハウエルとスキッパーはギリガンを見つけ出しラジオのスウィッチを切らせます。しかし、それでもロンクンロールは鳴り止みません。音はジャングルから聞こえてきていて、3人は音の在りかを探すとジャングルの中で4人組のバンド、モスキートーズが演奏をしていました。モスキートーズは熱狂的な追っかけファンから逃れしばしの充電期間を獲るために無人島にヘリコプターでやって来ていたのでした。

漂流者であるギリガンとその仲間たちは、モスキートーズが島から帰る時が自分たちも島から抜け出るチャンスだと考えます。ところが、モスキートーズたちは一か月以上も島で休養する予定ということを知り、ギリガンたちはモスキートーズをイライラさせて島からすぐに逃げ帰りたくなるように仕向けます。

そして自分たちもバンドを組んでモスキートーズの仲間になれば一緒に島から帰れるだろうと考えギリガン、スキッパー、ハウエル、ヒンクリー教授の4人はGnatsというバンドを組み演奏しますが、演奏を観たモスキートーズのバンドも思わず両手で耳をふさいでしまうひどいもの。

Gilligan's Island | The Gnats



ジンジャー、メアリーアン、ハウエル夫人はハニー・ビーというガールズ・グループとしてキュートな歌と踊りを披露(ハウエル夫人役のナタリー・シェイファーの実年齢は64歳!)してモスキートーズもノリノリになります。

The Honeybees/You Need Us



しかし、計画は裏目に出て、モスキートーズは彼らを置き去りにしたままヘリコプターで去ってしまいます。7人を連れて帰れば、ハニー・ビーが彼らの人気の強力なライバルになると思ったようです。感謝の気持ちとしてモスキートーズ自身のアルバム「カーネギー・ホールのモスキートーズ」を残していきます。自分たちの脱出計画が上手くいかなかったことにイラだつスキッパーとハウエルの横でギリガンだけはアルバムにモスキートーズがサインを書いていないことに怒るのでした。

熱狂的なファンのおっかけにヘキエキとしていうのは映画「ヤァ!ヤァ!ヤァ!」を思い出させますし、ガール・グループのハニー・ビーの歌に大ノリするあたり、いかにもビートルズを意識したネタで面白く思います。そういえばハニー・ビーを紹介するハウエルはエド・サリバンを真似ているし、メアリーアン(白のセーター)の歌の吹替えはジャッキー・デシャノンというのもビートルズとの関連性を感じさせてくれます。

ところで、ドラマの中でモスキートーズのメンバーを演じた4人のうちの3人はウェリントンWellingtonsというフォーク・トリオでした。彼らはディズニーの「デイビー・クロケット」のテーマ曲を歌ったことで知られているようですが、「もうれつギリガン」の第一シーズンのオープニング・テーマも彼らの歌唱によるものでした。



このテーマ曲を聴くと、あぁ懐かしいメロディだなぁと思われる方も多くいらっしゃるのではと思います。日本版の「もうれつギリガンではメロディは同じで日本語の歌詞が付けられたオープニング・テーマになっていました。



当時、僕は小学校低学年でただただギリガン君のおとぼけやすっこけに大笑いをしていただけですが、今になって振り返ってみると、やはりその時代ならではのいろいろのな物事が反映されているものなのですね・・・・#調べてみたから分かったよ


今回のブログはローリングストーン誌の記事「Flashback: The Women of ‘Gilligan’s Island’ Form a Pop Group」を参考にさせていただきました。

そうさ 俺は権力と闘った 権力がいつも勝ちやがった

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John Mellencamp / Authority Song

この曲はそういう思いで作られていたんですね、ヒットした当時さんざん聴いていたのに、なんにも考えていませんでした、トホホ。

> 僕らの新型「アイ・フォウト・ザ・ロウ」なんだ
 成長することは老いていくことで、そのうち死んでしまう
"our new version of 'I Fought The Law.” 
"growing up leads to growing old and then to dying." 

>俺は権力と闘った 権力がいつも勝ちやがった
そうさ 俺は権力と闘った 権力がいつも勝ちやがった
そうさ 俺はガキの頃から闘い続けてきた
権力をあざけ笑いながら
そうさ 俺は権力と闘った 権力がいつも勝ちやがった



コーヒーもう一杯

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ローリング・サンダー・レビューのブートレグBOXの発売とNetflixのマーチン・スコシージによるドキュメンタリーのおかげかディラン周辺が盛り上がりを見せていて嬉しく思います。で僕もいろいろ調べていて気がついた(というか、知っていたけど忘れていた)のですが、『欲望』からカットされた「コーヒーもう一杯」のシングルって日本のみのシングル・カットだったんですよね。

『欲望』からのシングルといえば「ハリケーン」があるのですが、発売(米国)は75年11月で『欲望』の発売が76年1月(米国)なので、いわゆるリード・シングルってやつでした。ちなみに「ハリケーン」はディランにとって久々のプロテスト・ソングそれも8分以上ある大作ということで日本のラジオでもけっこう流れていました(勿論、片面だけですけど)。ちなみに、僕にとって初めて買ったディランのレコードは「ハリケーン」でした。



この「ハリケーン」の話題性もあって『欲望』は全米NO.1の大ヒット・アルバムになっています。当時ディランの担当ディレクターだったヘッケルさんによれば日本でも20万枚を売ったということで日本でも一番売れたディランで僕くらい(60歳)の年代だと、ここからディランを聴き始めたという人も多いのではと思います。



そんな『欲望』からの2枚目のシングルは本国アメリカではポルトガルによる長き支配から共産主義勢力が独立を勝ち取ったばかりのモザンビークをタイトルにしながらも内容的にはモザンビークはかわいいねぇちゃんもいてええとこでっせ(言いすぎか)的な陽気な「モザンビーク」でした。ところが日本では「コーヒーもう一杯」(c/w ドゥランゴのロマンス)がシングルとして発売されます。



妻サラとの上手くいかない関係が背景にあるという見方もされる「コーヒーもう一杯」は『欲望』のレコーディングに入る前に訪れた南仏のサント=マリー=ド=ラ=メールSaintes-Maries-de-la-Merでの体験が元になっているとされています。ディランはそこでジプシーの祝祭の席に招かれます。そこで5発の弾丸を詰めた銃でロシアン・ルーレットをする男を見たりといろいろとショッキングな体験をすることになりました。

>「とにかく、まだまだ続いていたんだけど、そろそろおいとまする時間だった。彼らは言った「帰る前に、何か欲しいものはないかいボブ?」。私は帰途のためにコーヒーが一杯もらえるか尋ねたんだ。彼らは袋からコーヒを取りだし私に手渡した。私は地中海を眺めながらたたずんでいた、それはまるで眼下の谷間を眺めているみたいだった。」(Songfacts.comより)

NYに帰ったディランはグリニッジビレッジのナイト・クラブ、アザーエンドのテーブルで曲を書きあげます。



>おまえの息はあまく
瞳は空に浮かぶふたつの宝石
背筋はまっすぐで 流れるような髪が
横たわる枕を覆う
だけど 感情は動かない
感謝も愛もない
おまえに俺への誠意はなく
空には星が輝くだけ

コーヒーもう一杯 道行のために
コーヒーもう一杯 出て行く前に
谷へと下る前に

ところでサント=マリー=ド=ラ=メールをウィキで調べるとその地名の由来についてこんなことが書かれています。

>ナザレのイエスが磔刑に処せられた後、マグダラのマリア、マリア・サロメ、マリア・ヤコベ、従者のサラ、マルタ、ラザロたちが、エルサレムから小舟で逃れてこの地へと流れ着いた。彼女たちのうち、マリア・ヤコベとマリア・サロメの2人とこれに従うサラがこの地に残った。これがこの市の名の由来であるとされる。

注目なのはこの地に残された者のなかにサラ Saraというディランの妻と同じ名前の女性がいること。やはりコーヒーを一杯最後に飲んで出て行くディランが残していった魅力的だが愛情を感じなくなった女というのはサラだったということなのでしょうか?



とにかく、日本のみシングル・カットというヘッケルさんの目論見は大当たりして文化放送のALL JAPAN POPS 20のランキングでも8月の1週2週と2週間に渡り最高位10位を記録しています。BCR,クイーン、ウィングス、カーパネターズ、オリビア・ニュートン・ジョンなどと同じランキングに入っていて、たしかにラジオからもよく流れていた記憶があります。ジプシーを意識したメロディは、あえて言うなら演歌にも通じるところがあったことも日本人には親しみ易かったのかもしれません。あと直訳ではあるのですが「コーヒーもう一杯」というタイトルも、いろいろと妄想の広がる良い邦題だったとも思います。

余談ですが、このシングルでもっとも得をしたのはバック・コーラスを担当したエミルー・ハリスではないかと思います。グラム・パーソンズなんかを聴いていた人には周知だったのでしょうが僕はこの曲で初めて名前を知りました。

>「コロンビア・レコードにはエグゼクティブ・プロデューサーのような立場の人で私のファンだった仲間がいました。ディランが彼に「女の子の歌手が必要なんだけど」と言ったようなのです。ドン・デヴィートがその人なんですけど、彼から「ディランがあなたに歌ってほしいと言っている」という電話を受けました、でもディランはただ女の子の歌手が欲しかっただけで、それは彼の嘘だったの。だからディランに会って(はじめましての)握手をして録音を始めたというわけなの。その曲のことは知らなかったし、歌詞だけが目の前にありました。バンドは演奏を始め、ディランは私に歌ってほしい所がくると、軽くつついてくれました。どういうわけか、私は片目でディランの口を見て、もう片方で歌詞を見ていました。一瞬にして起こったことはレコードになり、手直しされることはありませんでした。」 (Gibson.com のインタヴュー)

エミルーはこの年に発表したアルバム『エリート・ホテル』の「イフ・アイ・クッド・オンリー・ウィン・ユア・ラヴ」でグラミーにノミネートされカントリー界のスターの道を歩んでいきます。



ついでに、イントロのロブ・ストナーのベース・ソロについて。

>「コーヒーもう一杯」の冒頭は、ベース・ソロの予定はなかったんだ。(ヴァイオリンの)スカーレットの用意が出来ていなかったんだ。ボブがギターをかき鳴らしはじめる・・・何も起きない。誰かが続かなきゃ、で俺はベースを弾いた。 基本的にリハーサルがファースト・テイクになったってわけさ。」(モジョ・マガジン2012.9)

ということで、『欲望』聴き直すとロブ・ストナーけっこう頑張ってます。








細野晴臣は、たくさんの素晴らしいレコードを残してきましたがすべてを憶えてはいない。

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『HOCHONO HOUSE』をひっさげ、アメリカの西海岸、東海岸でライヴを行った細野晴臣の現地でのインタビュー記事がありましたので抄訳してみました。アメリカで今、細野さんがどのように評価されているのかが垣間見ることができます。



細野晴臣は、たくさんの素晴らしいレコードを残してきましたがすべてを憶えてはいない。

待望の来米で71歳の日本の伝説の遊び心のある実験的な仕事を反映したショーは両方の海岸で完売しました。


細野晴臣は、ここ数年で自分が実験音楽で最も崇拝される人物の一人になったことを面白がっているようです。「どうして僕のショーにやってくる人がこんなに多くいるんだろう?」71歳のアーティストは、初めてのアメリカのソロ・ツアーを締めくくるろうとしているその時に、笑いながら私に尋ねました。 ロサンゼルスのマヤ劇場の外の路地にある小さなベンチに一緒に座っていると、マスコミやショーの主催者たちが興奮して私たちのところにやってきます。この崇拝の中で、細野は穏やかで絶対的な絵のように見えます。騒ぎを気にしていないかのようにただタバコを吸いながら座っています。



細野は日本のテクノ・ポップのメガスター、イエローマジックオーケストラのリーダーとして80年代にアメリカで驚くほどの人気を博しましたが、最近の彼の音楽は全く異なるチャンネルを通して西欧に広がっています。彼のアルバムは旧い日本のアンビエントミュージックとしてアルゴリズム・ローテーションによってYoutubeに定期的に登場したことで人気が顕著に高まったという事実に加えて、最近のライト・イン・ジ・アティック(レーベル)による彼の最も重要なアルバムのリイシュー(註)のおかげでアメリカでも新しいファンを増やしています。

(註:昨年8月に『はらいそ』『フィルハーモニー』『オムニ・サイト・シーイング』、9月に『HOSONO HOUSE』『コチンの月』が発売されています。)

しかし細野が偏在するSpotifyの障壁を越える前でさえ、彼の多面的なディスコグラフィーのユニークさはファンに長い間カルト的な強迫観念を引き起こしていました。ヴィンテージ・カリフォルニアのフォークロックからサイケデリックなエキゾチカ、深く前衛的なエレクトロニクス、愉快なシンセポップまで、細野はいつもその音楽が世界で最も自然なものであるかのように、難解な音楽をもアクセスしやすいものにしました。彼の支持者にはジム・オルーク、ヴァン・ダイク・パークス、およびマック・デマルコのような人たちがいます。 細野は先週の月曜日の夜、ショーのために準備をしていましたが、デマルコはサウンドチェックの間中、立ちあっていました。(デマルコは最終的に『トロピカル・ダンディ』の中の甘美な「Honey Moon」を細野とデュエットすることになります。)

Mac DeMarco - Honey Moon



アメリカでのショーは細野の最近リリースされた『Hochono House』をフォローするために始められました - 彼の愛すべきソロ・デビュー作『Hosono House』のリメイクは元のアルバムのシャギーなフォーク・ソングをエレクトロ・ラウンジ・ブギーのシャッフル組曲に変えました。彼の演奏はアルバムからの新しい歌のいくつかを含んでいますが、主に旧いブギ・ウギ・ナンバーで、細野がリードする、ため息のでるアコーディオンと天国のようなスライドのギターを含むアコースティック・バンドによるものです。「僕はエレクトロニック・ミュージックを作ってきたんだけど、アメリカン・ミュージックがどれだけ好きかを伝えるためにここへ来たんだ。」とショーの途中で彼は、第二次世界大戦後の日本で育った子供として、ベニー・グッドマンやディズニーのミュージカルの音楽が自分の脳にどれほど永遠に続く印象を残したかについて語りました。

ショーの始まる前のインタビューでは、 細野にとってこれらの旧いアメリカのスタンダードは懐かしく、大きな意味があるようにみえました。翻訳者を通して行き来した心地の良いバリトンで語る細野は(多くの事を必ずしも憶えていないとしながらも)彼の音楽の秘密を語るのをあきらめない、丁寧な話し上手でいつづけました。しかし、時には、彼を魅力的で謙虚なヒーローにしている風変わりな一面を、世界中のリスナーに垣間見せてくれます。

NOISEY:アメリカに戻ってきてどんな感じですか? なにか変わったことはありましたか?
細野晴臣:ニューヨークもロサンゼルスもそれほど変わっていないけど、L.A.は当時と比べてレコード会社が少なくなってて、ちょっと悲しくなるよね。

NOISEY:ショー以外の時はどのように過ごしていますか。
細野晴臣:はっぴいえんどが46年前に録音をしたサンセット・サウンドというスタジオを訪ねてみました。すごくノスタルジックな気分になったよ。食事も楽しんでいる。



NOISEY:アメリカではイエロー・マジック・オーケストラに関して、ある種の悪評がありましたが、最近あなたのソロの音楽が人気を博していることに注目していますか。
細野晴臣:うん、分かってるよ。 なぜなのかは、僕にはよくわからないけどとても嬉しいよ。

NOISEY:あなたの新しいアルバムの曲は、アメリカのバンドに夢中だった頃に書かれたものです。あなたの見方が大きく変わった今、これらの曲をどのように思っていますか?
細野晴臣:僕は、40年代や50年代の音楽にますます興味を感じています。今の方が好きなくらいだ。誰もそれらの音楽を継承していないのが大きいね、僕はそれを新しいオーディエンスたちに知らせたいんだ。分かるかな?

NOISEY:それじゃ、あなたがまだ子供だった頃にあなたが好きだったのと同じように今もアメリカが好きですか、あなたはまるでカリフォルニアのバンドの1つになりたがっていたように見えましたけど。
細野晴臣:旧いアメリカだね。現在のアメリカじゃなく。僕は旧き時代に憧れている。

NOISEY:なぜ今、デビューアルバムに戻ろうと思ったのですか?何か影響を与えたことがあるのでしょうか?
細野晴臣:うーん・・・僕は24歳の頃にそのアルバムを作りました。僕の最初のソロアルバムだった。そして・・・どう言えばいいのか・・・物足りない処がたくさんあったんだ。言い方をかえると、未完成だと感じながらも放置したという意味で不完全でした。だから、今これらの曲に立ち返って現在の気持ちで演奏したらどうなるのかを知りたかったんだ。好奇心がアルバムを作り直させたんだ。



NOISEY:あなたはこのアルバムの雰囲気についてオリジナルと比べてどのように思いますか?
細野晴臣:まったく違うよね。そうするのは簡単じゃなかったけど、楽しんでやったよ。僕は満足してるんだ。

NOISEY:アメリカでは、ここ数年で私の友人の多くがあなたの仕事のファンになりました。日本の若い人たちは今もあなたの音楽を聴いていますか?
細野晴臣:一般的に言って、若い世代が僕の音楽を聴いてくれているとしたら素晴らしいよね。日本でも、YouTubeやインターネットで僕の音楽を聴いてくれている若い子がたくさんいます。それは世界中どこも一緒だなと感じています。

NOISEY:あなたのMUJI用のBGMのテープが最近ヴァンパイア・ウィークエンドの曲でサンプリングされています、そして、あなたの音楽を愛するもう一人のアメリカのインディーズ・アーティストであるマック・デマルコと今夜は共演しています。あなたの作品がこれらの若い欧米のアーティストに再解釈されることについてはどう思いますか?
細野晴臣:最初、どうして僕がMUJIのために作った音楽を誰かが興味をもつのか分かりませんでした。店内のBGMとして作ったものだし、ずいぶん昔の仕事だったし、すっかり忘れていたからね。でもヴァンパイア・ウィークエンドがこの曲で何をしたのか、どうやって見つけだし、素晴らしいトラックを作ったのかを聞いて、すごく新鮮だった。僕には「さあ、これがあなたがやり方です!」のように思えた。自分やりたかったよ。



NOISEY:あなたはメイン・ストリームのJ-POPについていこうと思いますか?ここ数年、アメリカではアジア発のポップ・ミュージックの人気はますます高まっています。
細野晴臣:あまり聴いていないね。音はいいよね。音のクオリティは向上している。でも、音楽としては、僕が本当に興味を魅かれるものはないね。

NOISEY:それでは この旧いアメリカのブギウギの音楽が時代を越えて廃れないと思うの点は何なのでしょうか?
細野晴臣:当時の雰囲気、文化、そして当時の生活を含む空気感かな。さらに、レコードのサウンド、スタジオのサウンド、そしてミュージシャンの持つグルーヴも。それらすべては失われてしまった。なくなってしまった。だから僕はその時代からそのエッセンスを抽出して、現在の時代に引き継ぎたい、渡たしたいんだ。

NOISEY:あなたは今も新しいテクノロジーを試してみたいと思いますか?この新しいアルバムは昔ながら曲により現代的なエッジを加えることに成功したように思えます。
細野晴臣:そうだね、やりたいことはいろいろあるんだ。
今はブギウギかな、もう10年ほどやってるけどね。今、他にも新しいことをやりたくて、そのための器材を集めているとこなんだ。

NOISEY:長年かけて取り組んできた、さまざまな種類の音楽を振り返って、最も誇りに思っているものは何ですか。
細野晴臣:ソロ・アルバムの中では『フィルハーモニー』と『オムニ・サイト・シーング』が気に入っている、そして・・・後は・・・忘れちゃった(笑)。やりすぎだよね。もう50年もやってるからね、自分の仕事についてはあまり考えないんだ。



NOISEY:これはちょっと個人的な質問ですが、あなたがこれまでに参加したレコードで私のお気に入りは『PACIFIC』なのですが、そのアルバムに関する情報を見つけるのは本当に難しいと思います。どんな意図で作られたのですか?あなたのディスコグラフィーの中では、それ以上のものを聞いたことがないと思います。
細野晴臣:思い出せないな(笑)。ソニーの企画で、たくさんの人が集まったはず。作った後で聴き直したことはないな。

NOISEY:空き時間はどのように過ごしますか。
細野晴臣:僕はおじいさんだから、散歩をしたり、寝たり、テレビを見たりするのが好きです(笑)。普通にしています。

NOISEY:坂本龍一との関係はどうですか?
細野晴臣:坂本はとにかく忙しいので、お互いに会うことはあまりないかな。でも、僕は彼のやっている様々な仕事についてはいろんな人たちを通してたくさんのことを聞いています。どっちかっていえば、幸宏とよくあってるかな。彼は今夜もやってくるよ。

NOISEY:キャリアを通して、あなたの音楽は往々にして非常に未来的に聞こえるよう思います、たとえあなたが古風なジャンルに取り組んでいるという時でさえも。今、未来についてどう考えますか?
細野晴臣:僕が今やっていることは、さっきも言ったけど、40年代やそれ以前の時代から失われてしまったことを伝えることなんだ。それが僕自身の未来だ。過去に戻ることで未来を思い描くんだ。それ以外の点では、将来に対しては否定的なヴィジョンしか抱けない。あんまり希望は感じられない。それでも、僕は未来についてのこのディストピア的な考えを気に入ったりしているんだ。

NOISEY:このツアーが終わったら、あなたは何をするつもりですか?
細野晴臣:すぐに家に帰りたいよ(笑)。小さな国に戻りたい。アメリカは広するよね、極端なんだ。

(この記事はVICE USに掲載されたものです。)

プラスチック・ゴミを捨てないで by Keb.MO 

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Keb.MOの新しいアルバム『オクラホマ』からタジ・マハールの参加した「ドント・スロウ・イット・アウェイ」のビデオがアップされています。曲調はなんとものどかでトロピカルな感じなのですが歌詞は使い捨てプラスチックを失くそうというメッセージを持ったものになっています。映像の方も海に浮かぶというか海を覆い尽くす使い捨てられたプラスチックなど我々が見て見ぬふりをしているシーンが続きます。

そういえばTBCのコマーシャルで人魚に扮したローラが泳ぐ一見きれいな海にプラスチック・ゴミが浮かぶシーンが挟み込まれるのがあって、TBCやるなと思ったのですがどこからか横槍が入ったのか今はゴミのシーンのないものに変わってしまいました。ご存知の方も多いでしょうが日本が使い捨てプラスチック・ゴミの海への流出量がアメリカについで世界第2位の「海洋汚染大国」です。個人的にはスーパーでのレジ袋は一切もらわないようにしていますが、コンビニなんかに行くと気が付くとレジ袋を下げて出てきてしまうこともよくあったりして、反省。Keb.MOの歌を聴いて心を入れ替えたいと思います。



レオB.はビッグ・アイデアを持っていた
百万年は続くような
私たちはいつか姿を消す
でもビッグ・アイデアはずっと残る
もう一度使うんだ
ベイビー、捨てちゃだめ(捨てちゃだめ)
 
みんなどうなるのか分かってる
プラスチックを古くはならない
とても便利だし、手放せない
海に入って、魚が食べてしまうまで
もう一度使うんだ
ベイビー、捨てちゃだめ(捨てちゃだめ)
 
そして今、カメは泳げず、鳥は歌えない
6パック・リングで動けなくなる
ボトルとバッグ、キャップとカップ
あまりにも多すぎる きれいにしなきゃ
もう一度使うんだ
ベイビー、捨てちゃだめ(捨てちゃだめ)
 
この惑星の顔を見ていると 
ちょっぴり整形しなきゃいけない
 
レオは自分が迷いだしたことを知らなかった
最後にどうなるかは予測困難
いつも使っていたことを告白するよ
でも なんとかしたいならば
使うのは減らさなきゃ
もう一度使うんだ
美しい世界のために
ベイビー、捨てちゃだめ(捨てちゃだめ)


註:「レオB.」=レオ・ベークランド(Leo Hendrik Baekeland, 1863年11月14日 – 1944年2月23日)はベルギー生まれのアメリカ合衆国の化学者、発明家。 合成樹脂「ベークライト」を発明、工業化に成功し、「プラスチックの父」とよばれる。

註:「6パック・リング」=アメリカでビールやコーラの缶を6缶パックで販売するために使われるプラスチック製のリング。海に入ると魚に絡みつき魚の死の原因になったりする。


註:「整形手術」=原詞はplastic surgery、「プラスティックを手術」とのダブル・ミーニングでしょうね。

「天国への階段」盗作問題の行方 著作権は拡大するのか

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ツェッペリンの「天国への階段」のイントロがスピリットの「トーラス」という曲に酷似しているということで盗作として訴えられていたことはロック・ファンであればご存知の方も多いかと思います。2016年の判決ではペイジとプラントは「トーラス」を耳にしていたと思われるが、盗作とするほどの類似性は無いとされ、ツェッペリン側が勝訴しています。

しかし昨年末に一審の判決を不服としたスピリット側の控訴が認められ、まもなく公判が始まるようなのですが、どうも今回は前回とは違った視点での論争が行われるようで、おそらくツェッペリンが敗訴するのではないかと思われているようです。そして今回の裁判は今後の著作権をめぐる裁判に大きな影響を与える可能性があるようなのです。以下は米国の音楽専門WEBのURCの記事を抄訳したものです。なかなかに面白いのでぜひご一読を。



レッド・ツェッペリンの最も有名な歌をめぐる法廷への控訴は、著作権法に大きな影響を与えるかもしれません。

クラシック・ロックのレジェンズは、1971年の「天国への階段」のイントロとスピリットの60年代後半のインストゥルメンタル曲「トーラス」の間の類似点についての訴えで法廷闘争に巻き込まれました。紆余曲折の道のりを経たのち、ジミー・ペイジとロバート・プラントによる劇的な証言などもあって、レッド・ツェッペリンは2016年の判決で勝利しました。その後、米国の控訴裁判所は昨年になり新しい裁判の開始を命じましたが、それは歌の著作権を取り巻く問題に焦点を当てることになりそうです。

2014年の最初の訴訟で、レッド・ツェッペリンに対して訴訟を起こしたスピリットのソングライターの故ランディ・カリフォルニアの遺産の管財人で、スピリットのバンドメイト、音楽学者であるマイケル・スキッドモアによる陳述を陪審員は聞きました。ハリウッド・レポーターによれば、一審の最初の5週間では、レッド・ツェッペリンが『レッド・ツェッペリンⅣ』のセッションが行われる前に「トーラス」を聞いていたかどうか、イントロの下降する半音階の共通性はあるか、そして2曲が実際にどれだけ似ているかについて論じられました。

重要なことですが、一審の裁判長は、1978年以前の著作権法は「楽譜」にのみ適用されていたことから、陪審員は、録音されたバージョンではなく、2曲の(譜面による)実演に基づいて判断すべきであると提言していました。当時、楽曲はワシントンDCの連邦事務所に寄託された楽譜によって登録されていたのです。これらは「デポジット・コピー」と呼ばれ、レーベルの担当者がレコードを聞きとって作成した骨格のみの譜面でした。

そのため、メインのメロディ以外の楽曲を特徴づけるソロ演奏やホーン・セクション、ベース・ライン、バック・コーラス、そして「天国への階段」のようなイントロなどの多くは楽譜に書かれていませんでした。AP通信によれば、法廷のためにピアニストが「トーラス」をが実演した際に、デポジット・コピーを見ながら実演したため、スピリットの歌に似ていないと思ったとしても驚くにはあたりません。転写された譜面をもとにした実演だったために陪審員は、共通点を認識できなかったのです。

フォックスのリポートでは、陪審員がペイジとプラントは歌を作る前に「トーラス」を聞いていたと思うとしながらも、曲の間に実質的な類似点は見つけることができないと陳述したあと、裁判官はレッド・ツェッペリン寄りの裁定を下しました。




そうであっても、「天国への階段」が「牡牛座」をコピーしているかどうかについての弁護士フランシス・マロフィが米国著作権局に提出した書類が、最終的に訴訟の軌跡を変化させることになります。ペイジの証言の一つにより、盗作問題が再燃しただけではなく、より古い歌に関してもその著作権の保護の方法についての我々の理解を永久に変えてしまう、そんな裁判所の判決につながる可能性があります。

当時は目立たないやり取りでした。マロフィーは、ペイジに、イントロを含め、「天国への階段」のデポジット・コピーの中に記録され保護されている要素を示すよう求めました。ペイジは、そこには締めくくりのギター・ソロも、論争になっているイントロも書かれていないと認めざるを得ませんでした。「それはデポジット・コピーには書かれていないのですね?」 マロフィは尋ね、ペイジは答えました、「あなたの言う通りだ」と。




そう、そもそもそれが著作権で保護されていたはずだったのではないでしょうか。マロフィーは控訴を決定し、サンフランシスコの第9回米国巡回控訴裁判所は、この問題をより深く検討する必要があることに同意しました。ブルームバーグ誌のヴァーノン・シルバーによる新しいレポートによると、これまでのところ、裁判所が要求した唯一の概要は、デポジット・コピーに関するものです。

シルバーは米国著作権局を訪問しました。そこでは、1978年以前の曲についての事務処理が今もなお昔ながらのカード・カタログ・システムで行われていました。彼は衝撃的な発見をします:デポジット。コピーには、イーグルスの「ホテル・カリフォルニア」の最後のツイン・ギター・ソロも、ブルース・スプリングスティーンの「明日なき暴走」の象徴的なクラレンス・クレモンスのサックス・ソロも、レイ・マンザレクの雨音のようなフェンダー・ローズも譜面化されていなかったのです。




現在、これらの(楽譜として記録されていない)要素が保護されているかどうかについて法務専門家の意見は一致していません。この事実はレッド・ツェッペリンの書いた歌を危険にさらすと判断したため、弁護士は戦術の変更を余儀なくさせられました。ブルームバーグによれば、彼らは現在、「天国への階段」の一部についてデポジット・コピーには記載されていないものも「1978年1月1日の早い時期に、または著作権で保護された楽譜の最初の公衆配信により、連邦著作権によって保護されるようになった」と公判前申請で主張しています。

しかし、これは著作権法についての過去の判例にそったものではありません。しかも、裁判所がその保護に同意した場合、その新しい判決はレッド・ツェッペリンが結果的に敗訴するような状況になる可能性にさらします。そうなればマロフィはスピリットの「トーラス」の保護も拡大すると考えているからです。

「彼らは自分たちのクソったれの足をすくったんだよ」とマロフィーはシルバーに言いました。「彼らのばかげたクソ論理のおかげで、「トーラス」のすべては保護を与えられるんだ。彼らがそんなみえみえの罠に陥いるとは信じ難いよ」。マロフィーは今も「トーラス」と「天国への階段」の実際のレコードを法廷で流したいと思っています。そうすれば、11人の控訴裁判所の陪審員が裁判の前に事件を再考するでしょうとマロフィーはロイター通信に語りました、著作権保護が拡大されるかどうかが注目されます。


(元記事はUltimate Classic Rock に掲載されたものです。)

以上、ご理解いただけたでしょうか。

「トーラス」と似てないとされたのはレコードではなくデポジット・コピーに記録された「楽譜」としての「天国への階段」のため、もし他の歌手が「天国への階段」のイントロのメロディを使った曲を作ったとしても、ツェッペリンの「楽譜」にはその部分が記録されていないので「盗作」の訴えができないという訳です。それは困るということでレコードの音源自体に著作権があると主張すれば、こんどは「トーラス」との類似性が「盗作」と判決されてしまうだろうということです。どうすんでしょうね、結果が楽しみになってきました(笑)


いかにして映画「イエスタデイ」がビートルズに新たな命を吹き込んだか

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ビートルズがいない世界で、たった一人ビートルズの曲を知っているとしたら、そしてその曲を周りの人々に聴かせたら一体どんな事が起こるのか・・・、主人公は存在しないビートルズに代わりビートルズの楽曲で大ヒットをとばしていくのですが・・・・

いよいよ今週末、話題の映画「イエスタデイ」が公開されます(日本公開は10/11)。監督は「トレイン・スポッティング」「スラムドッグ・ミリオネア」のダニー・ボイル(62)、脚本は「ラブ・アクチュアリー」「ノッティングヒルの恋人」のリチャード・カーティス(62)。

「音楽に関する映画を作るのは素晴らしいことだと思います。それはミュージカルではありません。ビートルズの曲をカバーするだけでなく、それらの曲を記憶の大きなゴミ箱から拾いだし、世界に再提示することなんだ。」

と語る二人に、どうやってビートルズ楽曲を使用する許可を得たのかや、この映画を通じてビートルズ楽曲をどのように伝えたかったのかなどについて語った記事がありましたので抄訳してみました。記事を読みさらに映画が観たくなったのと、来週のストリーミングのランキングに果たしてビートルズ楽曲がランク・インしてくるのか興味が湧いてきました。

ローリングストーン誌の元記事はこちら
→How ‘Yesterday’ Breathes New Life Into the Beatles’ Music



どのようにして1つの映画であんなに多くのビートルズの曲を使うことができたのですか?

金こそは全て。カーティスは早い段階からビートルズの楽曲を映画で使うのは実現可能だと言っていた、カバーを録音するので使用許諾が困難なオリジナルを使うよりも安くなるからだ。「私は映画すべてが描けるのか分からなかった、許諾がおりるか安心できなかったからね。」彼の脚本では主人公のジャックは「抱きしめたい」から「レット・イット・ビー」まで15曲を歌うことになっていた。法的義務があるわけではないが、カーティスは事を荒立てたくないので、脚本をビートルズの出版権を管理するSony / ATVに送った。「送られてくるほとんどすべての脚本は、伝記またはドキュメンタリーなんだ」映画、TV、その他のプロジェクトのためにビートルズ楽曲の使用を許可するかの決定権をもつソニー/ ATV出版の社長兼最高マーケティング責任者ブライアン・マルコは語りました。「だから、今回のやつは、ちょっと革新的で、みんなの注目を集めた。」モナコとアップル・コープは、どちらもコンセプトと台本を気に入りました。

 「彼らがそれを悪いアイデアだと思ったら15曲もの使用許可を出していなかっただろうね、ビートルズにとって不名誉だと思っていたらね。」モナコにしては珍しく使用に関しての取引は行われず、ビートルズのカタログから選んだ15曲すべてを(非公開の料金で)映画製作者が使用できるように許可されました。ボイルによれば「それぞれについて使用回数の規定はあったけど、私たちが望むなら曲を変える自由も与えられた契約を結んだんだ。」と。


なぜ大ヒットばかりを選んだのですか、「ヘルプ!」や「イエスタデイ」のような曲はありますが、「セクシー・セディ」や「レイン」のようなのはありませんよね。

映画の前提を簡単に説明すると 「それは偉大なカタログだから、映画におけるジョークとして、曲がとても有名なのに、誰もそれを知らないということを考えた。個人的には「ジス・ボーイ」やそれよりマイナーな曲が好んでいるけどね、肝心なのは、ジャックが「イエスタデイ」や「ロング・アンド・ワインデング・ロード」を歌うということで、そして誰もそれを知らないということだ。私たちは常にカタログのトップ25、青と赤から選ぶつもりだった。」とカーティス、またボイルは「私は「夢の人」を入れたかったんだけど、みんなが知ってるとは言えないしね。」と付け加えました。



脚本についてビートルズの許可はいりませんでしたか?

いらなかった、でも映画の最後では彼らの実際の歌を1曲使うので、彼らに現場での使用法を承認してもらわなければいけなかった。幸運にも、マッカートニー、スター、レノン、ハリスンの代理人はみなそれで大丈夫だった。マッカートニーのためには試写を行うことができなかったが、スターは試写を見た後に関係者全員に前向きなメモを送ってくれた。

ボイルはパンク偏執狂で現在、クリエーション・レコードに関する伝記映画を制作しています。ビートルズ・ファンとして正当性はあるの。

イギリスで育ったボイルは、彼の両親を通してバンドの音楽に紹介されました。「私は双子で、姉と私はビートルズが階下で流れるのを聞いていました。姉はポールに恋したし、私はジョンの真似をした。2階で一緒に歌い、映画を真似たゲームをした。7インチのシングルも持っているよ。」

レッド・ツェッペリンとデヴィッド・ボウイのアルバムは、彼の最初のレコードコレクションでした。しかし最終的にボイルは『アビー・ロード』を買いました、サイド2のメドレーは今も彼の心を一撃します。「彼らはそれらの曲を並べてまとまりのあるものにした、まるで交響曲みたいに、まるではしゃぐ気持ちと哀しい思いの変奏曲。彼らはリミックスやミックスを使うまで我々が出来なかったことを、それ以前にすべてやっていました。驚くべきことです。」



どうしてエド・シーランが映画に出てくるのですか?

他の多くのものと同様に、それはクリス・マーティンのおかげです。コールドプレイが2015年のイベントのためにふざけたゲーム・オブ・スローンズのミュージカルを撮影したとき、英国での慈善活動レッド・ノーズ・デーの主催者の1人であるカーティスはマーティンの存在感とさりげないユーモアのセンスに気付いた。彼は当初、マーティンにジャックの役を演じるよう依頼したが、マーティンは自分が俳優ではないと言って固辞しました。

カーティスは2番目の選択として、シーランに目をつけました。ロンドン郊外で10マイル以内にお互いが住んでいて「突然の飲み会や、フットボールの試合を観戦するためにやってくる」とカー​​ティスは言いいました。カーティスがある部分でシーランを念頭に置いてスクリプトを書いていたので、その選択もまた理にかなっていました:ポップスターとしての旅と大騒ぎの数年を過ごした後、シーランは昨年12月、彼の幼馴染の恋人と結婚しました、これも「イエスタデイ」のプロットの一つと結びついています。「エドは、物事をシンプルに保ち、友との休暇を楽しむなど、非常に多くの素晴らしい選択をしました。私の最初の選択はクリス・マーティンでしたが、エドは映画にとってのインスピレーションでした。」

初めての大役に身を投じ、シーランはリハーサルから参加して、映画のエンディングのために新曲を書きました。彼はまた、ジャックの演奏シーンとして、自分のスタジアム・コンサートの1つを撮影することを許可しました。シーランはマーティンの後釜にハリー・スタイルが指名されたと言っていますが、カーティスはそれを否定します:「2番目はエドだった、そのことに何か問題がある?」



「イエスタデイ」はビートルズの遺産にどのような影響を与えることを目指していますか?

ビートルズはほとんど忘れられていない - 昨年も何十億ものストリーミングがあったが - ミレニアル世代に彼らの存在を知らせるということが関係者全員にあった、特にSony / ATVはカタログをリフレッシュさせる方法を積極的に探していました。「スクリプトを読んだとき、最初はうまくいくかわからなかった」とモナコは認めています。「私は今、若い世代がビートルズを知っているとは必ずしも確信していません、でもエドのファン層は映画を見るでしょう、彼らの中にはビートルズを知らない人もいるかもしれません。だから私たちはストリーミングが急上昇すること期待しています。」
それだけではなく、「イエスタデイ」をブロードウェイ・ミュージカルにするという計画もすでに進行中です。

ボイルは付け加えます。「私たちはいくつかの試写会を行い、彼らの曲を知らないと言う人々に会いました。たしかに、あるレベルでは、彼らに同意したいと思います。このことについての私の理論の一つは、気づいているかどうかにかかわらず、それは受け継がれているということです。これらの曲のほとんどは、何らかの形で人々の中に入りこんでいます。」

その傾向が今後、数十年と続くかどうかに関しては、カーティスは次のように考えています。「物事は今、すごい速度で動いています。しかし、私は彼らが本当に興味深くそして複雑な方法で続くだろうと思っています。彼らの曲の多様性は並外れています。ヒメーシュ・パテルはポールやジョンほどの歌手ではありませんが、これらは今も素晴らしい曲です。彼らは今もヒットする、映画を作っていた時の私の直感です。 」





ビリーブラッグ,モリッシーを痛烈批判「スミスのファンとして、胸が張り裂けそうだ」

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21世紀に活動する音楽家の中で最も政治的で過激ながら知的なソング・ライターであるビリー・ブラッグが、極右的な言動を繰り返しかってスミスの音楽に胸を熱くした人々をおおいに戸惑わせているモリッシーをフェイス・ブックで痛烈に批判しています。



以下、ビリー・ブラッグのフェイス・ブックからの引用です。
先週の日曜日、イギリスのメディアの多くがグラストンベリーでのストームジーのヘッドライン・ショーを絶賛していた頃、モリッシーは自身のウエッブにコメントを伴って白人至上主義者のビデオを投稿していました。黒いスター(ストームジー)のピラミッドを配したステージ・パフォーマンスを引き合いに出して、英国の特権階級は白人文化をないがしろにして多文化主義を推進していると9分間のビデオで主張しました。

このビデオの作者のYouTubeチャンネルには、同性愛嫌悪、人種差別、虐待などを表現した他のクリップが多数含まれています、とりわけ有色人種の左翼女性は彼の憤怒の対象となっています。*グレート・リプレースメント理論、大量移民と文化戦争を通してヨーロッパと北アメリカの白人集団を消滅させる陰謀があると主張する極右による陰謀論を説明するクリップもあります。私が最初に考えたのは、そのクリップがオンラインに登場したその日にクリップを見つけてシェアするために、モリッシーがこの手のウェブを徹底的に探しているんだろうなぁということでした。私はグラストンベリーから帰ってきました。モリッシーが白人至上主義を支持していることに対するリアクションがあることを期待していました。ところが、NMEはモリッシーが今も「王」であると宣言するキラーズのブランドン・フラワーズのインタビューを発表していました。

(註:グレート・リプレースメント。2011年にフランスの右派学者であるルノー・カミュが使った言葉’Le grand remplacement’から来ています。フランスの白人が北アフリカからやってくるイスラム系移民にとってかわられる(replace)危険性を指摘したもので、ヨーロッパではこうした表現が移民排斥主義者の合言葉のようになっているようです。ブラッグも言及しているクライスト・チャーチの殺戮者もFBの犯行声明でグレート・リプレースメントを引用しています。)

その週が進むにつれ、私は白人至上主義者のビデオへのリアクションを待ち続けました、しかし何もリアクションはありませんでした。私がモリッシーとググるたびに、音楽サイトからの記事がポップアップされます、それはNMEの「キラーズのブランドン・フラワーズモリッシーについて「彼は今も王だ」」という見出しでした。私の個人的な経験で、アーティストの長い談話が、必ずしも発言の本質ではない形で煽情的な見出しになることがあることをよく知っています。しかし、私は、フラワーズがモリッシーが極左の政党を支持していると表明していることの悪影響を本当に理解しているのだろうかと疑問に思います。キラーズの強力な歌「ランド・オブ・フリー」の歌詞を書いた作家として、フォー・ブリテン党が移民に対してある種の障壁を築こうとしていることを知っているのだろうか?


(ビデオを見れば歌の内容は分かりますよね)

(フォー・ブリテンの)党首のアニー・マリー・ウォリターズはジェネレーション・アイデンティティとの関係を維持しています、そのグループはクライスト・チャーチのモスクで50人の信者を殺害したガンマンから資金を得ていました。「ランド・オブ・フリー」という歌と一人のガンマンによる大量殺人という悲劇にどうやって折り合いをつけられるのか?

明確な反ムスリムの党として、フォー・ブリテンはスタニング(スタンガンなどで気絶させること)無しで行われる宗教的な屠殺に反対しています、この政策は、動物福祉を支持しているという体面でモリッシーを覆い隠します。
そのことが彼の主な関心事であれば、最近のEUの選挙で候補になった英国の動物福祉党(AWF)を支持しなかったのはどうしてなのだろう?AWFのには、ノンスタニング屠殺を禁止することを目指す方針もあります。モリッシーの唯一の興味がこの慣習を終わらせることであったならば、彼はAWFを支持することによってイスラム嫌悪を喧伝することなしでこれを達成したかもしれません。AWF小さな党ですが、モリッシーが応援すれば動物の権利運動は世論に対する大きな後押しになったことだろう。

モリッシーはその代わりに、反イスラムの活動家への支持を表明し、白人至上主義者のビデオを投稿し、反論されると、保身のため、「中傷だ、中傷だ、みんなが私を誹謗中傷している」と叫びます。彼の最近の主張は「いわゆるエンターテイナーなので、私には(説明の)権利はない」というもので、それが右翼の反動分子の間の共通認識だという事実は、事態をさらにややこしくしている。

特定の個人が特定の発言をすることが許されていないという考えは、主に攻撃的なコメントをした後に主張される場合が最も多いということをみても、言い訳にすぎない。
彼らの主張をよく聞けば、彼らが実際に不満を言っているのは、自分たちが異議を申し立てられているという事実です。

新世代の言論の自由の戦士たちによって広められた自由の概念は、個人は自分たちが望むことについて何であろうと、いつでも、だれに対しても、反論無しで、発言する権利を有するということだ。それが自由の定義であるならば、私たちの世代の自由の女神としてドナルド・トランプのツィッター以上のものはどこにも無いだろう。NYの自由の女神はガス灯を持ち、トーガを羽織ったドナルドの巨大な彫刻と置き換えられるべきだ。

困ったことに、フォー・ブリテンに対する支持に異議を唱えられたことに対するモリッシーの反応は、人を激怒させたことを詫びるよりはむしろ自分の意思を倍加させ、自分の部外者としてのペルソナを傷つける偏見が向けられていると示唆している。その昔、自身が残酷で不公正な世界の犠牲者たちに安らぎを与えていたのに、今は学校の門の外で待っているいじめっ子の列にモリッシーも加わったようです。

私は活動家として、この転向に愕然とします、そしてスミスのファンとしては胸が張り裂けます。



私をスミスに引き寄せたのはジョニー・マーの素晴らしいギターでしたが、「リール・アラウンド・ザ・ファウンテイン」を聞いたとき、モリッシーが並外れた作詞家であることを知りました。皮肉なことに、私を夢中にさせたラインはモリッシーが盗んだものでした。「昨夜あなたのことを夢見ていて、私は二度もベッドから落ちた」は黒人船員のジミーがシェイラ・デラニーの映画「蜜の味」の中で、10代の白人の恋人ジョーに言うセリフです。1961年のリタ・ツィンガム主演の映画は、多民族間の関係(そして同性愛も)を含む戦後のイギリス社会を描いた初期の例でした。

その歌のために注目すべきラインを盗むことによって、
モリッシーはスミスを北部労働者階級文化の偉大な伝統の中に置いていました、それは排水溝の中にいるようなものかもしれませんが、そこから星を見ていたのです。

いまだ、「誰もが自分の人種を好む」と言っている白人至上主義者のビデオを投稿しつづけることで、モリッシーはそのラインを傷つけました、ジョーとジミー、そしてスミスがかって励ましを与えていたはみ出し者のファンたちを消し去ったのです。

ビデオがモリッシーのウェブサイトに掲載されてから1週間が経ったが、彼の立場に異議を唱えるメディアはまだ現れない。今日、戦略対話研究所は、英国を本拠とする過激派組織は、グレート・リプレイスメント理論が極右により非常に効果的に推進されていることを明らかにし、それが政治のメインストリームになってきているとした。

モリッシーがこの考えが広まるのを助けているということ - それはクライスト・チャーチのモスクでの殺戮者に影響を与えた - は疑いの余地がない。

このことが芸術家としての彼の偉大さとは無関係であると主張する人は、自問してほしい。

歌手と歌を分けることを主張することによって、あなたも人種差別主義の信条を広めるのを助けているということを。



存在しないビートルズの全米チャートへの影響は?

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ビートルズが存在しないもう一つの世界(パラレル・ワールド)でただ一人ビートルズ・ナンバーを記憶している男の物語、映画「イエスタデイ」が6月28日に全米公開されました。




大ヒットとは言えないまでも話題を集めている映画の公開でビルボードによるロック・ソングのランキングにも少なからぬ影響が出ているようです。

現在ビルボードのロック・ソングのランキングとしては2009年よりスタートしたホット・ロック・ソングス・チャートがあります。ランキングのベースは米国における売上(フィジカルおよびデジタル)、ラジオの再生、およびオンラインス・トリーミングの集計です。

13日付のホット・ロック・ソングス・チャートを見ると5曲のビートルズ・クラシックスがランク・インしています。



まず9位に「ヒア・カムズ・ザ・サン」、380万ストリームと2,000ダウンロードを記録。ホット・ロック・ソングスが始まって以降でビートルズが記録した最高位はやはり「ヒア・カムズ・ザ・サン」と「カム・トクゲザー」の14位でしたので、ビートルズにとっての最高位の更新であるとともに初のTOP10入りとなります。つづいて12位に「レット・イット・ビー」、280万ストリームと2000ダウンロード。16位「ヘイ・ジュード」、230万ストリーム、2000ダウンロード。17位「カム・トゥゲザー」、270万ストリーム、1000ダウンロードと続きます。

それにしても21世紀に入り「ヒア・カムズ・ザ・サン」や「サムシング」といったジョージのナンバーの評価が高まっていましたが、ストリーミングが主流となり更に高評価になってる気がします。

また6月28日から7月4日の集計期間中にビートルズのアルバム売上は26%アップし54000枚を売り上げました。デジタル・ダウンロードは35000、ストリーミングについては17%のアップで5120万ストリーミングを記録しました。しかし、やはりアメリカにおける音楽の聴き方は圧倒的にストリーミングだというのを見せつけられる数字です。日本とのこの違い、今後どうなっていくのでしょうね・・・。

21世紀のビートルズのアルバムで最も売れているコンピレーション『1』は、トップロックアルバムで9位→4位、ビルボード200で60位→43位と上昇しています。



映画の中で主人公を演じたヒメーシュ・パテルによる劇中化「イエスタデイ」もホット・ロック・ソングスで37位に入っています。

正直、僕のような世代にとっては重要な存在のビートルズなのでもう少し顕著なチャート・アクションがあるのかなぁと思っていましたが、ちょっと期待が大きすぎたでしょうか。

監督のダニー・ボイル、脚本のリチャード・カーティスが意図した「ビートルズの曲をカバーするだけでなく、それらの曲を記憶の大きなゴミ箱から拾いだし、世界に再提示することなんだ。」という目的は少しは果たされているとは思いますが。



>ビートルズのヒット作における作曲クレジットの論争をAIを使い解決する

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ビートルズに関する、ちょっと面白い記事を見つけました。
ご存知のようにビートルズのジョージ・ハリスン、リンゴ・スター以外の作品の作曲クレジットはすべてレノン/マッカートニーという共作名義とされています。もちろんビートルズ作品の多くは、特に初期の作品については、レノンとマッカートニーが二人でアイデアを出し合って作られた「共作」のものがほとんどです。5:5の共作もあれば6:4や7:3といった力関係で作られた曲もありますし、後期の作品ではほぼ全てをどちらかが作曲している作品もでてきます。しかし、現在映画で話題の「イエスタデイ」のように明らかにマッカートニー一人が歌詞も曲もすべて作り上げたものであってもクレジットはかたくなに「レノン/マッカトニー」とされています。

そして、全てが「レノン/マッカトニー」とされているがゆえに評論家やファンの間では「あの曲はレノンがすべて書いた」「いやいや、歌詞はレノンでも曲はマッカートニーだよ」といった推測を呼ぶこととなります。リード・ボーカルを取っている方が主に作曲の主導権を握っていたということもよく言われています。それでも「やはりあの曲は違うよ」といった論争の答えは、真実を知る二人のうち一人がすでに鬼籍に入ってしまっていることで永遠に「正解」は出ない論争になっていると言えるでしょう。

その永遠に答えの出ない論争にAIを使って客観的な「正解」もしくは「ほぼ正解」を出そうという試みが行われているというのです。これとてAIなんていう心の無い機械を使ってレノンとマッカートニーの魂のこもった楽曲を使って判断しようなんてこと自体が許せないとブーイングするファンは多いのではないかと思います。

まぁ、でも考えてみれば20世紀最大の音楽家とされるビートルズが、たまたまレノンとマッカートニーという並び立つこれまた20世紀最大のソング・ライターを抱えていたからこそ論争が起こり、AIまで導入して解明しようとなるわけです。そして、その事実こそが正にビートルズ、レノン/マッカートニーの偉大さの証明以外のなにものでもないんですよね。

では記事の抄訳をどうぞ。

>ビートルズのヒット作における作曲クレジットの論争をAIを使い解決する

Alex Matthews-King The Independent6 July 2019

ポール・マッカートニーとジョン・レノンのパートナーシップのもとに書かれたビートルズのヒット曲のオリジナル作家の争いは、各アーティストの音楽的影響を識別できる人工知能(AI)のソフトウェアによってひと段落するかもしれません。

米国のハーバード大学の研究者は、各ソングライターの「音楽的指紋」を構築するために、何百ものビートルズのヒットについてのアルゴリズムを教え込みました。

その後で1962年から1966年の間に録音された8つの象徴的な曲、または音楽の断片を評価させてみました。




その中には「ア・ハード・デイズ・ナイト」や「イン・マイ・ライフ」などの曲が含まれます。これらは「レノン/マッカートニーのパートナーシップ」に属しますが、どちらか一方が全てを書いたものと一般的に信じられています。

ハーバード・データ・サイエンス・レビューに発表された調査結果は、楽曲に対する各アーティストの影響を評価することを可能にし、マッカートニーまたはレノンのどちらが主に作曲をしたのかの可能性を予測します。

2015年には、レノンが1980年に殺害された後、レノンの曲への影響について「修正主義」的とされることにポール・マッカートニーはいらだっていました。

彼は2002年のアルバムで「マッカートニー/レノン」と名前の順を逆にクレジットを行って、レノンの未亡人であるヨーコ・オノを怒らせました。

8曲のうち「アスク・ミー・ホワイ」や、以前のインタビューではマッカートニーが歌ったブリッジの部分については自分が書いたとしていた「ア・ハード・デイズ・ナイト」は主にレノンのスタイルであると予測されました。



2011年にローリングストーン誌が史上23番目に偉大な歌であるとランク付けした「イン・マイ・ライフ」は、「真の作家についての最も多くの憶測を集めた」と研究者は述べました。

マッカートニーは、歌詞はレノンが書いたが、争点となっている作曲はすべて自分が行ったと主張しました。

アルゴリズムは、レノンが歌詞を書いたことについての確率は81.1パーセントとしました、しかし、歌のブリッジについてはマッカートニーの影響が43.5パーセントの確率で認められるとしました。

これは、ポールがミドル・エイトのメロディーに貢献したというレノンの言葉を裏付けるものです。

「曲をヴァースとブリッジに分けてみるとヴァースについては一貫してレノンのソング・ライティングであることは明らかです。」




他の「ベイビーズ・イン・ブラック」、「ザ・ワード」、「フロム・ミー・トゥー・ユー」などの曲は、最大97パーセントという高い確率でマッカートニーのものであるとされました。

このシステムは、各ミュージシャンの影響が時間の経過とともに変化していく様や、ポピュラー音楽におけるソング・ライティングの共同作業の研究を可能にします。

この研究から得られる推察では、マッカートニーの作品については「よりノン・スタンダードな音楽モチーフを使う傾向がある」ことや、より複雑な曲作りであることが彼の歌の「際立った特徴」であるとされています。


元記事はコチラ→AI used to solve disputed songwriting credits of Beatles hits

何故スティーヴィー・レイ・ヴォーンはデヴィッド・ボウイのツアーを降りたのか?

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この8月13日にスティーヴィー・レイ・ヴォーンの関係者の証言による新しい伝記本「テキサス・フラッド:スティーヴィー・レイ・ヴォーンの裏話」が発売されました。ローリングストーン誌にその中の「シリアスムーンライト」と題された章の抜粋記事が載っていて、内容は1983年のデヴィッド・ボウイのアルバム『レッツ・ダンス』への参加と、実現しなかったワールド・ツアーへの参加についてという興味深い記事だったので、抜粋の抜粋になりますがご紹介しておきます。

元記事はコチラ→Why Stevie Ray Vaughan Turned Down a David Bowie Tour




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ダブル・トラブルがLAでデビューアルバムとなる『テキサス・フラッド』を録音していた時、ヴォーンは借りていたアパートの電話で重要な案件の依頼をうけます。

クリス・レイトン(ダブルトラブルのドラマー):朝の3時に電話が鳴った。落ち着いた英語だった。「スティーヴィー・ヴォーンはいますか?」。俺は訊いた「あんた誰だい?」「僕はデヴィッド・ボウイだ」、考えたよ「それって、シン・ホワイト・デュークのこと?ジギー・スターダストか?デヴィッド・ボウイなのか」ちょっと間を置いて言ったよ「えーっと1分だけ待ってくれ」って。スティーヴィーの部屋に駆け込んで体を揺さぶって叫んだ。「起きろ、起きろ。デヴィッド・ボウイから電話だぞ!」彼らはしばらく電話してたよ、ボウイはスティーヴィーに新しいレコードの何曲かで演奏してくれないかと依頼し、ワールド・ツアーにも参加しないかと言った。ボウイは最初からスティーヴィーを雇うことに興味をしめしていた、誰も真剣には受け止めてなかったけど。

トミー・シャノン(ダブルトラブルのベーシスト)スティーヴィーはボウイの次のレコードで演奏することを頼まれたことに本当に興奮してたよ。その時点では、俺たち(ダブルトラブル)がショーのオープニングと思っていたからな、ボウイが彼に言ったんだよ。」

オースティンに戻り、スティーヴィーがボウイと一緒に録音するためにニューヨークに行く計画を立てたとき、バンドとエンジニア/プロデューサーのリチャード・マレンは「ジャクソン・ブラウン・テープ」に取り組んでいた、ジャクソン・ブラウンのL.A.のスタジオ、リバーサイド・サウンドで行った『テキサス・フラッド』の録音テープだ。(註:前年のモントルーでのスティーヴの演奏を気に入ったジャクソンは自分のスタジオを彼らの録音のために提供していた。)

クリス・レイトン:『テキサス・フラッド』のテープは、南オースティンの誰かのガレージに放置されていた。必要は発明の母、そのテープは公にする必要があった。カッター(ヴォーンの友人)は、俺たちにそのことを指摘していた。スティーヴィーはボウイにかなりのめり込んでいたので、テープへの興味が戻れば彼は大事なものを思い出すだろうと考えたんだ、彼がいつも望んでいたもの、自分のバンドのことを。テープを忘れていることはないと思ったけど、自信もなかった。トミー、カッター、そして俺はこれについて議論しマネージャーのチェスリーに話をしたよ。「邪魔すんなよ!スティーヴィーはデヴィッド・ボウイのことで忙しいんだから!」と言うチェスリーに、誰かにテープを聞かせて、契約ができないか確かめてくれと頼んだ。彼は「まあ、やってみるよ」と言った。ボウイと一緒にやった後で、スティーヴィーがミルクトラック(註:チェスリー・ミリキンのミリキンに引っ掛けたあだ名か?)に戻ってくるとは思えなかったよ。

ヴォーンは1月初旬にニュー・ヨークに飛んでボウイとパワー・ステーション・スタジオのプロデューサー、ナイル・ロジャースに加わりました。『レッツ・ダンス』の録音のほとんどはすでに完了していました。

ナイル・ロジャース:『レッツ・ダンス』のミュージシャンとエンジニアのほとんどは私が選んだ。ボウイはモントルーで聞いたこの驚くべき新しいギタリストについて、アルバムのソロにぴったりだと言った。スティーヴィーのプレイを初めて聞いたのは、彼が金メッキのストラトをプレイしたときでした。

カーマイン・ロハス(ベーシスト):アルバートキングを「レッツダンス」でプレイさせるという案がありました。デヴィッドは反対のものを組み合わせる天才だったから、何が見事に機能するかを理解してたんだ。彼は最初から『レッツ・ダンス』の曲のいくつかでそのギターのスタイルを思い描いていたんだ。

ナイル・ロジャース:カーマインはちょっと混乱しているよ。 彼は、スティーヴィーの最初のこま切れのソロを聞いた後で「なぜアルバート・キングを連れてこなかったんだ?」と言ったんだよ。それは私の最初の考えだった。 スティーヴィーがものすごく特別な才能であることに気付くのに、それほど時間はかからなかったよ。



ボブ・クリアマウンテン:バンドのトラックを録音した後でスティーヴィーのソロとデビッドの最後のボーカルを何度か録りました。スティーヴィーが持ってきたのはストラトとコードとスーパー・リバーブ・アンプだけ。当時、ほとんどのギタリストが複数のラックと巨大なペダルボードを持ち込んでいたので、彼のシンプルさは際立っていました。でも、彼は最高に素晴らしい音を出しました、最も甘い音を出す男でした。

カーマイン・ロハス:俺は仕事を終えてパワーステーションに戻った。スティーヴィーのギターパートを録音しているとこだった。驚いたよ。 彼は最大限の音量で演奏するようにセッティングされていたのに、美しく、最高の音色で、音楽に完全に包まれていたんだ。見とれてしまったね。「レッツダンス」のアウトロを演奏してた。弾くほどに良くなるんだ。フィルモア・イーストでアルバート・キングやヘンドリックスを観たけど、スティーヴィーは、彼らが俺に与えたのと同じ種類のソウル、タッチ、そしてハートを感じさた。それは二度と経験することのない過去の出来事と思っていたので、他の誰かに心を貫かれるとは、びっくりだった。



ボブ・クリアマウンテン:スティーヴィーは(オーバーダブの前に)「チャイナ・ガール」を一度しか聞いていなかったと思う。セクションの終わりに、コードの変更があるんだけど彼はノートを間違えた、少し不協和音ななったんだ。コントロール・ルームでは、お互いを見つめ合って、私は言った、「修正しなきゃな」、しかしデヴィッドは「いや、パーフェクトだ」と言った。彼は不協和音が好きで、ファースト・テイクが大好きだった。

『レッツ・ダンス』は1983年4月14日にリリースされ、ボウにとって米国初のプラチナ・アルバムになりました。タイトル曲は世界中でナンバー・ワン・ヒットとなり、ボウイは初めて批評家の称賛と彼の影響力に見合った国際的なスーパー・スターとなりました。『レッツ・ダンス』は700万枚の売り上げを記録し、ボウイにとって最も成功したアルバムになりました。

クリス・レイトン:スティーヴィーを使うことは、ボウイの天才としての一撃だった。彼のギター演奏は本当に飛びぬけていた、当然みんなの注目を集めた。頭を混乱させるような強い何かでみんなをふっ飛ばした。誰もがスティーヴィーを初めて聞いたときの話をしだした、ちょうど俺たちのように。

エリック・クラプトン:車を運転してた、「レッツダンス」がラジオから流れたんだ。車を停めて呟いたよ「このギター・プレイヤーが誰なのか今日知らなきゃならない。明日じゃない、今日だ。」これまでに3、4回あったかな、デユアン・オールマンの次がスティーヴィーだった。

スティーヴ・ミラー:スティーヴィー・レイ・ヴォーンを初めて聴いたのはMTVで「レッツ・ダンス」を見たときだ、俺は叫びながら席から飛び上がった。「一体、誰がギターを弾いているんだ?」

ガス・ソーントン(アルバート・キングのベーシスト):
長年アルバートと一緒にやってたから、アルバートの音にはちょっとうるさいんだが、スティーヴィーは俺を鷲づかみにした!「レッツ・ダンス」を聞いた時に思った「あぁ、こいつはマジですげぇ、まるでアルバートとデヴィッド・ボウイだ。」スティーヴィーほどアルバートのタッチやトーン、アタックを再現できるギタリストはこれまで聞いたことがなかった。ラジオからその音を聴こえてくるのは本当にクールだったよ。

ベルギーのブリュッセルで5月18日にキック・オフし、香港で12月に終了する予定のシリアス・ムーンライト・ツアーは、大きな話題を集めました。スティーヴィーを含むボウイのバンドは1983年4月下旬にテキサス州ラスコリナスでリハーサルのために集まりました。長年ボウイと仕事をしていたギタリストのカルロス・アロマーが音楽監督でした。



カーマイン・ロハス:リハーサルはうまくいった、カルロスは地球上で最高の一人だからね。スティーヴィーは、彼が録音に参加した曲や「ジン・ジーニー」などの曲では驚異的だった。しかし、彼は音楽的だったので、風変わりな感じの曲では自分の居場所を見つけるのに苦労していた、彼のスタイルじゃなかったんだ。カルロスが代わりに弾き、俺たちは蚊帳の外だった。

トミー・シャノン:長いこと彼は黒人ではないという事実に心を引き裂かれていた。彼は自分が音楽に近づけたと感じることができた。

カーマイン・ロハス:俺たちは皆、お互いを理解していたよ。休憩中にジャムるのが大好きだった、ブルースを演るんだ、「ムスタング・サリー」、ただ、ただ弾きまくった。

トミー・シャノン:ショーの一部に、スティーヴィーがスロープを歩いていくパートがあった。彼が歩く時に振り付けを要求されたんだ、でも彼は毎回まったく同じ普通の歩き方をした。望まれることをまったくやらなかった、スティーヴィーはわざとらしいことができなかったんだ。

カルロス・アロマー:彼はブルースに忠実であり続けたし、俺たちはそんな彼と一緒に仕事をするつもりだった。本物のブルース・プレーヤーがいるのはすごいと思ったからね。ある日、スティーヴィーは喪に服しているのでリハーサルができないと言いだした。 「お気の毒に、いったい誰が亡くなったんだい?」「マディ・ウォーターズだよ」「ああ、彼と知り合いだったんだね?」「そんなには」。最初、「私は喪に服していても、リハーサルを行うよ」と彼に言いました。しかし、だめだ、だめだ、だめだ、兄弟よ、ブルースマンに対してマディ・ウォーターズが亡くなった時でも、歩き続けるようなんて言っちゃいけないんだ!神聖なものなんだ、ボウイにとっては残念だったけどリハーサルはキャンセルされた。「デヴィッド、真のブルース・マンはそんなもんだ。」敬意をこめて話したよ。彼無しでリハーサルをやろう、僕が彼のパートをカバーする、だから彼を放っておくんだ。」

カッター・ブランデンブルク(ダブル・トラブルのマネージャー):彼はマディの葬儀に行くことを計画していた、でもドラッグに苦しんでいて、結局は行けなかった。彼はいつもそれを悔やんでいたが、マディは理解していたと思うよ。親切で愛情深く、スティーヴィーのことを「マイ・ベイビー・ボーイ」と呼んだ優しい男だ。



クリス・レイトン:ダラス・モーニング・ニュースは、スティーヴィーについて大きな記事を組みました。エンターテインメントの頁に「ダラスのお気に入りの息子」と見出しをつけ、スティーヴィーの大きな写真とボウイの小さな小さなショットを載せたんだ。レニー(スティーヴィー・レイ・ヴォーンの妻)は、スティーヴィーが正当に扱われていないと感じていた。そこで新聞を持ってリハーサルに出向き、ボウイのところに行き、足元に新聞を投げ捨てた。「それを見なさいよ!」、レニーの強さはボウイの想像以上でした、彼女とスティーヴィーはかなりのドラッグをきめていたしね。

エディ・ジョンソン:レニーは多くの問題を引き起こした。誰かがチェスリーに電話していた、「その女をここからつまみだせ」。

カルロス・アロマー:レニーは物事を混乱させ、しかし、それは1つの原因が蓄積されたものだったと思う。薬物乱用はプライベートな問題だ、ケツをだそうが気にはしない、だが、リハーサルを混乱させるとなると話は別だ。誰かの家に行ったら、テーブルに足は乗せないだろ。

クリス・レイトン:ボウイは、すべての報道機関をコントロールしようとしていた。ネジをもう少しきつく回そうとしていた。スティーヴィーは支配されることを嫌っていた。彼は刑務所から脱出したいと思いだした、ボウイとスティーヴィーのマネージメントの間は緊張し始めたんだ。

カルロス・アロマー:妻や子供が許可されていない場所はたくさんあって、リハーサルを邪魔することは一切許容されない。みんなハッピーでいてほしい、ただし、許容範囲を広げ続ければ、前には進めなくなる。うまくいかないね、兄弟よ。レニーに立ち入らないことを頼んだ時に物事は個人的な問題になった。「俺の妻に対する侮辱は、ぜんぶ俺に対する侮辱だ。」

クリス・レイトン:トミーと俺はちょうど、ここオースティンにいて、給料をもらい、どうなるんだろうと考えていた。デヴィッドの最初の口説き文句は、「スティーヴィーは僕のレコードとワールド・ツアーでプレイするべきだよ。ダブル・トラブルもオープニング・アクトとして一緒に来られたら素敵だと思うよ。」だった。しかし、それは本当の招待ではなく、ほのめかしだったんだ。スティーヴィーがレコードとツアーに興味を持つようにするためだったんだ。それ以降話はなかったよ、実際のオファーじゃなかったからね。

カッター・ブランデンブルク:俺たちはいくつかのオープン・アクトを務めるだろうって推測のもとで給料を支払っていた、しかし、ツアー開始まで1か月かそこらになり、スティーヴィーはリハーサル中、もう日にちはなかったが、ボウイのキャンプの誰も私に電話を返してはくれなかった。ラスコリナスでスティーヴィーに電話して言ったよ、「どうなってんのか知らないが、ツアーに参加できるとは思えないな。」何かがおかしいと感じて、スティーヴィにそう言ったよ。

トミー・シャノン:彼らの会話には関与してなかったけど、俺たちにオープニング・アクトをやらせる気が無いと分かって、スティヴィーが怒っていたことは知っていた。俺たちを一年のあいだほったらかしにはしたくなかったんだ。一方、チェスリーはスティーヴィーに再三の圧力をかけていた。「スティーヴィー、ボウイと一緒にツアーをやらなきゃ!」って。



ヴォーン陣営とボウイ陣営の間で緊張が高まる中、エピック(レコード)は『テキサス・フラッド』のリリースに向けて準備を進めていました。ヴォーンの仲間とレーベルは、スティーヴィーにアルバムのためのプロモーションをしてもらうかボウイとの注目度の高いツアーで紹介してもらうか検討をしていました。ボウイの一行がニューヨークに移動したとき、エピックは、5月9日と10日にボトムラインでダブル・トラブルとブライアン・アダムスとの業界向けのショーケースを開催しました。参加者の中には、ミック・ジャガー、ジョン・ハモンド・ジュニア、ジョニー・ウィンター、チープ・トリックのリック・ニールセン、世界一のテニス選手のジョン・マッケンローがいました。

ジョン・マッケンロー:スティーヴィーはドアを吹っ飛ばした。音を間違えず1時間もプレイできるなんて、なんて野郎だと思ったのを覚えている。スティーヴィーは会場を破壊しつくした、演奏が終わると、みんな去っていった。

ポール・シェーファー:多くの人々がMTVで彼のプレイを見て興奮していた。ヘンドリックスをほうふつとさせるパフォーマンスは爆発的だった。

グレッグ・ゲラー(エピックの重役):スティーヴィーがボウイとツアーをするべきかどうかについて大きな議論がありました、それは彼のプロフィールを高めはするが、彼自身のバンドにとって何が最高かいうこととは対立していた。

カルロス・アロマー:スティーヴィーは世に出る絶好のタイミングにいた。長い間取り組んできたことがすべて実現しそうだった、『レッツ・ダンス』の波に便乗して、彼自身のアルバムをリリースする。デヴィッド・ボウイとツアーをすることで気持ちが高まり、そのことを僕に相談してきたとき、私はとても率直に答えたよ。ミュージシャンと一緒にいるときはいつだって、自分たちは兄弟だと思うので、情報と経験は共有することにしているんだ。僕は彼に面と向かい、ここのスターはデヴィッド・ボウイだよと言った、彼のファンは君と君の新しいアルバムを発見するかもしれない。だけど、歴史をみればそうならないことだってある。それに、仲間よ!自分自身のファースト・アルバムなら君はセンターだ、でもボウイの経営陣は、彼らの宣伝チームを君のために自由に使わせるつもりはまったくないよ。世界最大のスーパースター、ボウイのためにあるんだから。

トミー・シャノン:彼らは徐々にテーブルから物を引き上げ始めた。オープニング・アクトを何日か務めるというアイデアは無くなった。それから、スティーヴィーはインタビューで自分のバンドや音楽について語ってはならないと命じられた。

カルロス・アロマー:彼は、土壇場まで交渉しました。議論すべき相違はたくさんありますが、暗黙の掟はシンプルです:契約したら、それを尊重する。みんなが階下で最初のギグのためブリュッセルに行く準備をしているときでもスティヴィーはすべてをまだ確定していない、契約の再交渉をしてたからだ。それは冷酷な脅迫状のようなもので、好ましくない管理スキルといえる、でも僕は物事を管理しようとは思いません、アーティスト自身が気づくべきだから。ボウイがやって来て「問題がある」と言った。僕の答えはいつも同じだ:問題がないところに問題を作るんじゃない。別のギタリストにしよう、アール・スリックなら曲の半分をすでに知っているし、ブルースも演れるよ。それって、「悪い、スティーヴィー・レイ、あんたは外す」ってことだ。

ビル・ベントレー(オースティン・サン・ミュージックの編集者):ロサンゼルス・タイムズにスティーヴィーの記事を書いた、ボウイのツアー・メンバーがLAに来た時にスティーヴィーに電話インタビューをした。彼は言った、「疲れたよ。ツアーから降りなきゃ。」って。「冗談でしょ。」と言うと「俺はサイド・マンじゃない。俺には自分のバンドと自分のレコードがあるんだ。」と言いました。

クリス・レイトン:スティーヴィーは言った、「あいつらは、レコードや俺自身のことを話していいかどうかをコントロールしようとしやがった。」それはスティーヴィー・レイ・ヴォーンにとっての一線を越えていました。彼はデヴィッドと直接話をしたかったが、デヴィッドは島にいるということで断られた。「島には電話はないのか?」と訊くと「デヴィッドには届かないんだ」との答えに、スティーヴィーは言った「あぁ分かったよ、あんたが彼に言葉を伝える時があれば、スティーヴィー・レイが辞めたって伝えといてくれ。」と。

トミー・シャノン:彼が正しい決断をしたと思った人はあまりいなかった。そしてスキャンダラスなことをやったとして離れていった、しかし、彼はツアーに心を込めることが出来なかったんだ。ほとんどのギタリストではゲームを楽しみ自分のキャリアをアップさせただろうね。でもスティーヴィーはいつも玄関じゃなくて裏口を選ぶ!それが彼の人生へのアプローチってやつだ。

クリス・レイトン:俺たちはニューヨークでエピックのスタッフと取引を行っていた、すると突然、スティーヴィーがツアーをやめたという知らせがあって、テキサスに戻ったんだ。トミーと俺はハッピーだったよ。俺たちも周りの誰もが何があったのかをちゃんと知らなかった、全体像はスティーヴィーの頭にあって、何をすべきかは聞かされなかったけど、自分の音楽でどこに向かうのかわかるまで、すぐに動き出そうとは思っていなかった。

カッター・ブランデンブルク:スティーヴィーは自分の音楽を世に出すために一生をかけていた。彼はデヴィッドのツアーでプレーすることでそれをやめてしまうつもりはなかった。チェスリーはその出来事について夢中になっていたので、全てはお金の問題だと思ったんだけど、お金じゃなかったんだよ。オープニング・アクトの話が無いと分かった時に、スティヴィーのすべてが変わったんだ。

J.マーシャルクレイグ(作家、チェスリー・ミリキンの腹心):チェスリーは、スティーヴィーがボウイのキャリアの再スタートに本当に貢献したと思っていたが、彼らはスティヴィーを軽視し、他のサイドマンと同じように彼を扱っていた。彼はバックアップ歌手以上の報酬を支払われるべきだと考えていました。彼はスティーヴィーがツアーに参加することを望んでいました。しかし、低賃金、オープニング・アクトはなし、彼自身のバンドについて話すことは許可されていませんでした。チェスリーと(ヴォーンの広報担当)チャーリー・カマーは、最後までデヴィッド・ボウイに対して不満をぶつけていました。

ロックスターのツアーを降りた無名のテキサスの反逆者の伝説は、スティービーのイメージを高め魅力的な物語を生み出しました。しかし、現実はもっと複雑でした。レニーはリハーサルで邪魔な存在になりましたが、ミリキンは自分の要求を通そうとするサイドマンに怒り心頭のボウイのマネージャーと真剣勝負をしていました。ヴォーンの別れは、ワールドツアーの開始に向けて、バスで空港に向かおうとする時に訪れました。

カーマイン・ロハス:バスでヨーロッパ行きの準備をしていたんだ。窓の外を見ると、足もとに荷物を置き、ホテルの壁にもたれているスティーヴィー・レイが悲しそうな様子で、みんなに別れを告げた。俺たちが暗号として使っているペイン語で何が起こったのかをカルロスに尋ねると、彼はスペイン語で答えた。「スティーヴィーのマネージャーはもっとお金を寄こすか、彼をオープニング・アクトにすることを望んだが、却下された。」スティーヴィーはナイフで銃を持ったローリングストーンズのツアーをしきるようなニューヨークのやつら挑んだんだ。挑む相手を間違っえたんだ、はなから相手にされてなかった。彼らはすぐに動いて、俺たちが空港に到着したときにはアール・スリックが彼の代わりにそこにいたってわけさ。

アル・ステイハリー(弁護士、元スピリット):スティーヴィーからツアーに戻れるように交渉することを頼まれて、試みましたが、すでに彼らの給与計算書にはアール・スリックの名がありました。チェスリーは物語を紡ぎました:マッチョなテキサスのギタースリンガーが、吹けば飛ぶよなイギリス野郎をぶっ飛ばしたと。それは正しいものではなかったが、彼の有名にするためには正しい方法でした。

1983年5月21日に、オースティン・アメリカン・ステーツマン紙は、スティーヴィーがボウイのツアーを去ることについて報じました。作家のエド・ウォードは、ボウイの広報担当のジョー・デラが、ヴォーンの給料が低額であったというミリキンの主張を否定したことを引用しました、「スティーヴィー・ーレイ・ヴォーンの取り巻き連中が売名行為のチャンスをつかんだことに失望しています。」それでも、ウォードは結論付けました、「物事はまだ終わっていないかもしれません・・・あらゆる人たちがツアーで彼を観たがっている。」

クリス・レイトン:『テキサス・フラッド』の宣伝と前評判は『レッツ・ダンス』のスティーヴィーに対する関心と好奇心によってかきたてられました。みんなデヴィッド・ボウイのお株を奪ったこの知られざるギタリストが誰かを知りたがった。ツアーに参加するよりも大きなニュースになったんだ。

ジェームズ・エルウェル(ヴォーンの友人):家に戻ると、スティーヴィーとレニーが家の前に『テキサス・フラッド』のテスト・プレスを持って立っていたよ。彼はステレオを持ってなかったんだ、うちにはとびきりのやつがあった、そして、俺たちはみんな、それを聞きたくてしょうがなかった。聞いたあと、レニーと俺お互いを見て頭を振って言ったよ、「こいつだ!こいつだよ!」。スティーヴィーはスピーカーの真上に立って、一つも聞き逃さないようしていた。魔法の瞬間だった。5回しか聞けないワックス・プレスだったので、すぐに聴けなくなっちまった。『テキサス・フラッド』はリリース前、バンドはヴァンに乗りクラブ巡りに戻っていて、そこで初めてヴォーンのギターソロを真似たボウイをフィーチャーした「レッツダンス」のビデオを見たんだ。ヴォーンは少しも喜ばなかったよ。



トミー・シャノン:俺たちは小さなクラブのテレビで見たんだ。スティーヴィーは激怒してたね。

クリス・レイトン:スティーヴィーは(レッツ・ダンスの)ソロを演奏した男として世界的に有名になるはずだった、でも、そのビデオは彼を本当に嫌な思いにさせたんだ。ボウイは白いリネンの手袋をはめていた、スティーヴィーは言ったよ、

「あのマザーファッカー野郎は自分で弾いてねぇくせにくそったれな弾き真似をしやがって!」

ボウイがなんでそんなことをしたか、スティヴィーには理解できなかったんだよ。

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