新しいドキュメンタリー「Linda Ronstadt: The Sound of My Voice,」が話題のリンダ・ロンシュタット。ローンチに合わせてかニューヨーカー誌の最新インタヴューをジミー・ウェッブのFBで見つけたので訳してみました。病気のこと、政治のこともちろん音楽のことなどいろいろ話しています。
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個人的にはリンダにアンナとケイト・マッガリグルの「ハート・イズ・ライク・ア・ホィール」を教えたのがジェリー・ジェフだったというのが嬉しい情報でした。
ちょっと長いですがご興味のある方はぜひ。
(誤訳もあるかと思いますがそこは鷹揚に願います)
>かつてロックン・ロールで最も高給取りの女性であった、リンダ・ロンシュタットが最後のコンサートで歌ってから10年が経ちました。2013年、世界はその理由を知りました:パーキンソン病により、彼女は歌えなくなり、クラシック・ロックの時代に消えることのないマークを残し、10のグラミー賞を獲得した音楽のキャリアを終わらせたのでした。ロンシュタットの驚異的な声とステージでの存在感は、60年代後半に彼女に名声を与えました。彼女の「Different Drum」(最初のグループ、ストーン・ポニーズと)、「You're No Good」(彼女の画期的なアルバム『Heart Like a Wheel』から)、「Blue Bayou」、「Desperado」といった曲はカリフォルニアのフォーク・ロック・サウンドの定義に貢献しました。途中で、2人のバック・アップ・ミュージシャンがイーグルスを結成するために去りました。
現在73歳のロンシュタットは、彼女の最大のヒット曲に満足することなく、目まいがするほどのジャンルに挑戦しました。80年代には、ブロードウェイのギルバート&サリバンの「ペンザンスの海賊」に出演し、ベテランの編曲家ネルソン・リドルとスタンダードアルバムを録音しました。メキシコの伝統的な歌のコレクションである「Canciones de Mi Padre」をリリースし、アメリカ史上最も売れた英語以外のアルバムとなりました。そのレコードは、ロンシュタットを自身のルーツに戻しました。彼女の祖父はメキシコのバンド・リーダーであり、父親は美しいバリトンでメキシコ民謡を母親に歌って聞かせました。彼女は国境に近いアリゾナ州ツーソンで育ちました、この場所はその後政治的な発火点になります。
ロブ・エプスタインとジェフリー・フリードマン監督の新しいドキュメンタリー「リンダ・ロンシュタット:ザ・サウンド・オブ・マイ・ヴォイス」は9月6日に公開され、ロンシュタットの冒険的なキャリアを振り返ります。彼女はサンフランシスコの自宅で2度に渡りニューヨーカーと電話で話しました。この会話は編集し、要約されています。
Q:最近のあなたの日常生活はどんな感じ?
よく横になります、障害のせい。たくさん本を読んでいます、でも、目が悪くなってきていて、ちょっと問題。老化なんでしょうけど。
Q:今何を読んでいるの?
トーマス・マン、「魔の山」を読んでます。どういうわけかトーマス・マンを読まないままこの歳になった、だから取り戻してるの。「ブッデンブローク家の人々」を読んで、彼の文章に恋をしました。彼の本は素晴らしいけど、長いので、理解するには数日かかるけど。
Q:誰と時間を過ごしていますか?
息子は一緒に住んでいます。娘もやってきます。本当に仲の良い友達も。彼らは訪ねて来て私を連れだしてくれます。外に出るのは難しいんです。レストランに座ったり、椅子に座ったりするのは難しい。立っているのも難しくて5分ほど誰かとドアのところで話さねばならないような状況がありそうだと、つい避けようとしてしまいます。
Q:どんな曲を聞いています?
オペラが大好き。Youtubeで聴いてるの、ひどいでしょ。私はオーディオ・ファンだけど、1つの役がらの29の異なるパフォーマンスを聞くことができるっていう便利さに慣れちゃった。他の音楽も聴きますよ。NPRのTiny Desk concertsで、韓国のバンドを見かけておもしろいと思いました。Tiny Desk concertsはミュージシャンを招待し、机の後ろにある本当に小さなスペースでライブ演奏をさせます。ショービジネスじゃなくて、音楽だけ。素晴らしいものを観ました。ランディ・ニューマンがいました。ナタリア・ラフォーケード、大好きなメキシコのアーティスト。
新しいものは何でも。韓国のバンドはシンシン(SsingSsing)と呼ばれていました。
Q:それはKポップのようなものですか?
いいえ、韓国の伝統的な歌をベースにしています。デヴィッド・ボウイのベースとドラムみたいな感じで、韓国の伝統的な歌なの。ポリフォニー。私たちが使っているものとは異なったスキルです。より多くの音があります。そして、多くのジェンダーの交差。まるで未来を見ているみたい。
Q:ドキュメンタリーでは、あなたはこう言っています、「心の中で歌うことはできるけど、声に出して歌うことはできません。」と。それは慰めにも苦しみにも聞こえるのですが。
家族がアリゾナからやって来ると、みんな一緒に唄いだすからちょっとイライラします。歌えば、政治の話をする必要がないから。それはハーモニー生み出します-しゃれではなく-つながりを作ります。でも私にはもうできません、だから民主党員を招待します(笑)。
Q:あなたが心の中で歌うとき、何が聞こえますか?
歌が聞こえます。歌いたいと思う歌が聞こえます。伴奏が聞こえます。時々私は歌詞を忘れているので、それを調べなければなりません。私が歌っているのはだいたい私の歌じゃありません。自分の歌はあまり聞こえません。
Q:予想外の場所でラジオから自分自身の歌を聞いたことはありますか?
メキシコのラジオ、サンノゼのバンダ駅で。私は主にNPRを聞いています。メインストリームのラジオはもう聞きません。歌手が分からないし音楽も知りません。特に興味もないですし。優秀な若い子はいます。シアとか。彼女は非常に独創的な歌手です。
Q:やりたいことがすべてできないという不満にどう対処しますか?
受け入れました。私には絶対できないことなので。私は標準的なパーキンソン病の薬が効かないパーキン病です、だから私の病気は治療法がありません、P.S.P.-進行性核上性麻痺と呼ばれています。とにかく家にいる必要があります。主な娯楽といえばサンフランシスコではオペラと交響曲、努力して出かけています、でも年に数回しか行けません。マイケル・ティルソン・トーマスが指揮棒をふり上げる時に観客席にいないことが残念です。彼はとても良い指揮者だから、オーケストラの音楽を聞くのが恋しいです。友達が来て音楽を演奏してくれます、一番好きな場所、リビングルームで。
Q:あなたが言うように、パーキンソン病にかかっていることを知る前に、最初に気づいた症状はあなたの歌声でした。
そう。何かをしようとして、メモを取り始めて、その後止まってしまいます。パーキンソ病でできなくなるのは、繰り返しの動きです。歌は繰り返しの動きです。
Q:あなたはその強力な声でシーンに登場しました。そんな声で歌うというのはどんな感じがしましたか?
えぇ、私はどんな風に歌ったらいいかを見つけようとしていました!そして、音響装置を使って聴かそうとしたの。できるだけ大きな声で歌うことしか知りませんでした。いつも十分な大きさで歌っていないと思っていました、初期にはモニターがなかったからです。自分の声が聞こえなかったの。
Q:ドキュメンタリーでは、アリゾナ州ツーソンで育ったこと、それがどれほど文化的に豊かだったかが語られています。現在の国境周辺の政治状況についてあなたはどう思いますか?
壊滅的です。無力な怒りを体中に感じます。私はソノラ砂漠で育ちました、ソノラ砂漠は国境の両側にあります。今そこには分断するフェンスがあります、でも両側は今も同じ文化です。同じ食べ物、同じ服、牧場と農業中心の同じ伝統的な生活。私はよく行きますが国境を越えて戻るのはとても難しくなっています。バカみたい。以前は国境を越えてランチに行ってました、そして友達を訪ね、小さなお店で買い物をしました。50年代および60年代には美しいデパートもありました。両親には国境の両側に友人がいました。彼らは牧場主と友達で、私たちは洗礼式や結婚式や舞踏会などすべてのパーティーに行きました。
それが今ではなくなりました。店はもう米国と取引ができなくなったので一掃されてしまいました。メキシコ側に鉄条網が張られています、アメリカ人が作りました。動物がそれに引っかかっています。子供たちはそれで怪我をしています。絶対いらない。その一方、人々は穏やかにスケートボードをし、女の子はローラースケートをし、子供たちは公園で遊んでいます。何を恐れているの?普通の子供じゃない!
まだ健康だった頃には砂漠で過ごしました、迷える人々を見つけるためにサマリタンズ(困難を抱えて自殺を考えている人の相談を受ける慈善団体)のグループと協力していました。5秒ごとにミニットメンまたは国境警備隊に遭遇します。国境は完全に軍事化されています。砂漠をよろめきながら渡ろうとしている脱水状態で、足にはいばらとサボテンのとげがいっぱいの男に出あいます、その後水と食べ物とビールの入ったクラーボックスに座り自動小銃を膝の上に置き完全な迷彩服を着たミニットメンを見つけます。とても残酷なことです、人々は仕事を探しにやって来ます。より良い生活を求めています。砂漠を横断するのは命がけなのです。
Q:2013年にあなたの回顧録が出たとき、この問題がこのように国家的な重要問題になる前に言及していました。以前は誰も十分な注意を払っていませんでしたか?
まあ、みんなが国境近くに住んではいませんしね。彼らにとっての問題ではなかったです。私はその時国境に住んでいました。ツーソンに10年間。何が起こっているのかを見ていました。子供を刑務所に入れることは、最近のことではありません。ブッシュ政権の時に起こっていました。バラク・オバマは移民改革を試みましたが、議会は許可しませんでした。だから、人々は苦しみの網に巻き込まれ、砂漠で死にました。彼らは信じられないほど勇敢で機知に富んでいます。ある大企業のC.E.O.がかつて私に言いました。私が「雇用を考える時何を求めますか?」と聞いた時です「多くの逆境に対処している人を探しています。彼らは通常、良いビジネスマンになるからです」。私は思います、国境を越えてやって来るすべての移民を雇うべきです。
Q:ツーソンからサンフランシスコに引っ越すことにしたのはなぜですか?
私の子供たちは学校で聞いた同性愛嫌悪の言葉を繰り返しながら帰宅していました。他にも「教会に行かないと地獄に落ちる」なんてことも聞かされていました。そんなことを聞く必要はないでしょう。だから私はサンフランシスコに戻りました。学校まで歩いたり、市場まで歩いたりすることができるコミュニティがどのようなものであるかを彼らに感じてもらいたかったのです。都市村を経験して欲しかった。ツーソンでは彼らを学校に連れて行くために車を45分間運転していました、そして暑い車で45分かけて帰ってきます。彼らのためにそんな人生は望んでいませんでした。
Q:かっての国境を知っているあなたは、本当に嘆き悲しんでいるのですね。
人々は、メキシコ人がいて、アメリカ人がいて、それからメキシコ系アメリカ人がいることに気が付きません。それらは3つの異なる文化です。そして、それらはすべて互いに影響しあっています。そしてそれらはすべての私たちの文化に深く影響しています。ロイ・ロジャースが着るカウボーイスーツ、ヨーク・シャツとパールボタン、ベルボトム・フロンティア・パンツ、カウボーイ・ハット—それらはすべてメキシコ人のものです。輸入したのです。ブリトーとタコスを食べ、メキシコの音楽に大きく影響されています。文化は常に国境を行き来しています。
Q:メキシコとアメリカのハイブリッド文化で育ったことは、あなたをどのようなミュージシャンに育てましたか?
ラジオではメキシコの音楽をたくさん聴きました、そして父はメキシコの伝統音楽の本当に素晴らしいコレクションを持っていました。アメリカのポップ・ミュージックを歌うのは大変でした、ロックン・ロールは黒い教会のリズムに基づいていて、子供の頃には馴染みがありませんでした。私は聞いたものしか歌えません。私が聞いていたのは、メキシコ音楽、ビリー・ホリディ、そして弟の歌うボーイ・ソプラノでした。
Q:60年代にフォークロックに惹かれたきっかけは何ですか?
ピーター、ポール、メアリーのようなポピュラーなフォークミュージックが大好きでした。カーター・ファミリーのような本物のトラデショナルも大好きでした。ボブ・ディランも大好きでした。そして、できそうなことをコピーしようとしました。バーズがフォーク・ロックを演っているのを聞いたとき、私のやりたいのはこれだと思いました。
Q:1967年にストーン・ポニーズと「Different Drum」をレコーディングしたきっかけは?
グリーンブライア・ボーイズ(Greenbriar Boys)のレコードで見つけた曲ですが、強力な歌だと思いました。大好きでした。私たちは一種のシャッフルとして作りましたがギターとマンドリンを演奏する人たちとの相性はあまり良くありませんでした。でもレコード会社はこの歌が強いものと気づいていたので、私を呼び戻し、彼らのミュージシャンとアレンジで録音しなおしました。かなりショックでした。私はそんなアレンジで歌うとは思ってもみませんでした。でもヒットしました。
Q:ラジオで初めて聞いた時のことを覚えていますか?
えぇ。キャピトル・レコードでの会議に行く途中でした、古いダッジだったかな、後部座席にギターを詰め込んでぎゅうぎゅうで。エンジンがフリーズして、車は恐ろしい金属音をたてていました。半ブロック先のガソリン・スタンドまで車を押していかなければなりませんでした。ガソリン・スタンドの男は車を見て、二度と走らないよと言いました。私たちは、「車なしのロサンゼルスで何ができるの?」とぼやきました。ガレージの後ろでラジオが流れていて「Different Drum」のイントロが聞こえてきました。どこのラジオ局なのか聞くとKRLAでした、ロスのラジオ局でかかっていたので、ヒットしていることがわかりました。
Q:ウェスト・ハリウッドのトルバドールの思い出は?
たむろしていました。演奏している地元の歌手たちや、ホイト・アクストンやオスカー・ブラウン・Jr.、オデッタのような人たちを聞きに行きました。当時はまだ誰も特別な存在ではありませんでした。みんな野心的なミュージシャンでしたけど。ディラーズがいた。バーズもたむろしていました。そして、ジョニ・ミッチェルやジェームス・テイラーのような人々が出てきました。キャロル・キングもそこで演奏していました。ジョニ・ミッチェルが2週間演りました。毎晩見たはずです。
Q:あなたの本の中で、あなたはそこにジャニス・ジョプリンと一緒にいてステージで何を着るかを考えていたことに言及しています。
ああ、何を着たら良いかわからなかったの。リーバイスとTシャツ、セーター、カウボーイブーツかスニーカーを着て育ったから。家を出た時もそれ、結局それだけ。夏になると、リーバイスの足を切り落とし、リーバイスのショーツ。カブ・スカウトの衣装を手に入れて、私は本当に変わりました。
Q:あなたとジャニス・ジョプリンはどうやって適応したらよいか理解できなかったと言ってますね、母性的な女性になるのかそれとも違うのか分からなかったと。
料理をし、縫い、刺しゅうをするかどうかなんてわかりませんでした。女性の役割が再定義されていました。やり方は知っていて母性を持ったヒッピーの女の子もたくさんいました。
Q:1977年のインタビューが収録されたドキュメンタリー・クリップがあります。そこで、あなたはロックン・ロール・スターがいかに疎外されていて、甘やかし放題のマネージャーに囲まれていることが、ドラッグの問題に巻き込まれていく理由だと言っています。
彼らは孤独を感じてドラッグに溺れていきます。スターは孤独です。ミュージシャンになろうとしている人が周りにはたくさんいました。幾人かは選ばれましたが、他の人はだめでした、そのことで選ばれなかった人々との関係は難しくなります。時には彼らは憤慨して、そのことであなたは不快感を感じます。エミルー・ハリスが歌っているように「空のかけらが隣りの人の庭に落ちてきたけど、あなたの所には落ちなかった」のです。賞賛は人々を分断します。そして、ある人々の脳の化学作用は、中毒しやすいの。私は運が良かった。
Q:デビッド・ゲフェンは、あなたのダイエット薬に問題があったと言っています。
問題はありませんでした。必要なときに使っていただけ。好きじゃなかったけど。食べたらダイエット薬を飲む。喜びのために飲んでたわけじゃないの。
Q:今年は1969年の夏の多くの出来事が回顧されています。月面着陸とウッドストックとマンソンの殺人のアニヴァーサリーなどです。あの夏について何を思い出しますか?
ウッドストックが開催された時、ニューヨークにいました。ヘンリー・ディルツやクロスビー、スティルス&ナッシュなどからたくさんの連絡が来たことを覚えています。みんな泥の中にいると言ってました。そこを生き延びたことが良いことのように思え、そこに行かなかくて良かったと思いました。あふれるトイレ、食料不足、それは私が思う楽しい時じゃありません。私はいくつかのクラブ、たしかビター・エンドで演奏をしていました。
マンソン一家がやってきて、隣人のゲイリー・ヒンマンを殺しました。その夜、私は家にいなかったので幸運だったのですが、彼らは私を狙っていたのかもしれません。(マンソン・ファミリーの)リンダ・カサビアン、そしてレスリー・ヴァン・ハウテンも知っていました。私はその時トパンガキャニオンに住んでいました、彼女たちはヒッチハイクでやってきて、スパン・ランチ牧場のチャーリー(マンソン)について話していました。個人的に彼の事は知りませんでした。ある種の嫌な感じだとはわかっていました。で、その感じがどれほど悪かったのか知った時には、震えました。
Q:捕まる前はみんな本当に怖かったでしょうね。
えぇ、みんな驚きました。当時、ゲイリー・ヒンマンの殺人事件が他の殺人事件と関連しているかどうかはわかってませんでしたが、すぐにわかったので。
Q:当時の音楽は政治ととても絡み合っていました。最近のポピュラー音楽と比べてどう思いますか?音楽は政治の混乱に対処していますか?
ええ、思います。特にヒップホップは。でも、もう少し政治的な活動があってもいいのにとは思います。私は国会議事堂が燃え落ちるのを待っています、知ってた。ワイマール共和国に興味があって、文化が非常に短い時間で圧倒され、破壊される可能性があるってことを常に認識しています。ドイツの知的歴史のすべて-ゲーテとベートーベン-はナチスによって破壊されました。それは30年のスパンで起こっていてドイツ文化をひざまずかせたの。そしてそれは今ここでも起こっています。民主主義を打ち負かそうとする国際ファシズムの真の陰謀があります。彼らは自分自身のためにすべての力を望んでいて、今、ドナルド・トランプが現れたと思います。彼は独裁者になろうとしています。
Q:あなたの歴史をみると、あなたが歯に衣着せない物言いを選んでいることに気づきました。1983年のインタビューでは、オーストラリアのトークショーの司会者が、アパルトヘイトの下の南アフリカでの公演を行うことについて尋ねました。あなたは人種差別のあるところで公演をしないならば、アメリカ南部やボストンでも公演はできなくなるだろうということを述べました。また、ロナルド・レーガンとルパート・マードックと写真を撮っています。人気のあるパフォーマーとして、発言することは代償がありますか?
約15年、ステージ上で私は話しをしませんでした。だけど、音楽仲間たちと団結したことが原因となりました。そのうちの一つは原子力についてでした。多くの反原発(NONUKES)コンサートを行いました。ジェームス・テイラー、私、ジャクソン・ブラウン、ボニー・レイット—そして、それが私が賛同した特定の原因であったとしたら。できる限りのことを私は行ったけど、焦点は特に政治的だとは思ってません。誰かに尋ねられたら、自分の意見が言えてとても幸せだったと答えます。
Q:1995年のクリップも見つけました、ハワード・スターンの共同ホストであるロビン・クイバースと、スターンとの関係について「トゥナイト・ショー」で対決したものです。何をそんなに憤慨していたのか覚えていますか?
そう、まず第一に、ハワード・スターンはラジオで聞いたことがありませんでした。彼が誰なのか知りませんでした。テレビを持っていなかったから。ロビン・クイバースが誰なのかも知りませんでした。でも、それはちょうどその日のニュースがきっかけでした、彼が言ったこと、えーっと、ガール・シンガーのこと・・・。
Q:セレナでしょ?彼はこう言いました「スペイン人は音楽の嗜好が最悪です」そして彼女の音楽を流しました、銃声のBGMとともに。
セレナ、そう。それは私をとても怒らせました。メキシコ系アメリカ人として、彼が誰かの死んだ娘についてそのような恐ろしいことを言うなんて、私はとても不快な気分でした。ハワード・スターンが他人の不幸に言及することでキャリアを築いたことを知りませんでした。それに、ロビン・クイバースが何者なのかも知らなかった。何も知らなかったの。番組に行き「ねえ、本当に怒ってるんだけど」って。本当に怒ってたの。それが、どんなスズメバチの巣に足を踏み入れていたのか気づいてくませんでした。
Q:その後、彼から何かリアクションはありましたか?
そうそう。彼は私について恐ろしいことを言ってました。
Q:音楽活動に話を戻します、ドキュメンタリーで、元マネージャーのピーター・アッシャーは、コンサートで人々がひそひそ話をしているのを見ると、あなたはこんな風に言っていると想像してたそうですね、「彼女は私が聞いた中で最悪の歌手ね」と。あなたはどうしてそんなに不安だったのですか?
満足に歌えてるとは思ってませんでした。すべてを忘れて音楽に集中できるときは最高でした。でも、そこに辿り着くまでに長い時間がかかりました。聴衆の中に知り合い見つけたくありませんでした。本当言えば観客を見たくありませんでした。なぜやって来るのか理解できませんでした。テイラー・スウィフトのような歌手とは異なる関係性です。聴衆を抱きしめて、みんなが同じチームだっていう気分になることは健康的なことだと思います。1960年代には、我々と彼等と考えるよう勧められました。ヒッピーは同族全体という考えをスタートしました、そしてそれはヒッピーに対して誠実でした。でも、それは不健康でした。
Q:どうやって自己疑念を克服しましたか?
ひとつだけ、「深呼吸してそれから歌う」。音楽に集中している限り、私は大丈夫。
Q:ジェリーブラウンとの関係は、ドキュメンタリーと本で取り上げられていますが、ジム・キャリーやジョージ・ルーカスなど他の著名人との関係はありません。その理由は?
私は音楽について書いていました。彼らは私の音楽プロセスとは何の関係もないからです。
Q:彼と連絡を取り合っていますか?
えぇ。私たちは友達です。いつも友達でした。去年のクリスマスもやってきました。
Q:どんな話をしているの?
カリフォルニアの水のこと。彼は引退したら、木々やカリフォルニアのインディアンについて勉強したいと言いました。彼に私の本、「The Hidden Life of Trees」をあげました。カリフォルニアの水使用の新しい歴史は素晴らしいものです。「夢の土地」と呼ばれます。ジョン・マクフィー並みのの執筆といえます。執筆だけでも本当に価値があります。
Q:マスコミはいつもあなたが結婚したことがないという事実について大きな話題にしました。
結婚する必要はありませんでした。結婚する必要があるというのが分かりません。必要ならば、結婚していたでしょう。でも、私は結婚する必要はありませんでした。私には私の人生があったので。
Q:80年代生れの私が認めざるを得ないのは「マペット・ショー」であなたを発見したことです。カーミットと一緒に働いた時の事を教えてください。
私はカーミットに恋をしました、でもミス・ピギーがいたので問題が起こりました。彼は彼女の所有物でした。でも、私たちはそのショーで本当に楽しい時間を過ごしました。パペット使いには非常に創造的なものがあります。彼らは魅力的です、なぜなら彼らのすべての演技は、自分の体を通過させていないのですから。才能でいっぱいです。それを見るのが大好きでした。とても協力的な経験でした。私の物語と歌を手伝ってもらいました。
Q:物語への貢献ってどんなこと?
カーミットに抱いていた恋心のため、ミス・ピギーと私は対立し、それがちょっとした物語になりました。
Q:非常に手ごわいライバルでしたか。
そう。彼女は性悪だった!カーミットをトランクに閉じ込めたの。
Q:あなたは歌手ですがソングライターではないので、芸術的表現の多くは、楽曲の選択を通じてもたらされています。アンナとケイト・マッガリグルのタイトル曲を含む『ハート・ライク・ア・ホィール』の曲はどのように選びましたか?
まったくの不意打ちでした。ジェリー・ジェフ・ウォーカーと一緒にタクシーに乗っていた時に、彼が言いました、「僕はフィラデルフィア・フォーク・フェスティヴァルに出演した、そこで二人の女の子が歌っているのを聞いたんだ、二人は姉妹だったよ。本当にいい歌だったよ。君も聴くべきだ」そして最初の歌詞を歌い出しました。
心は車輪のようだと人は言う
曲がってしまえば 直せない
私の愛は沈没しかけた船
私の心は、海の真ん中の船の上
私が聞いた中で最も美しい歌詞でした。「その歌を送ってください」と私は言いました。オープン・リールが郵送されて来ました。ピアノとチェロだけで二人の少女が美しいハーモニーを歌っています。当時のマネージャーは、それはあまりにも感傷的すぎると言いました。絶対ヒットしないと言った人も。ラジオ向けのシングルだとは思いませんでしたが、私にとって重要な歌でした。自分のキャリアを通してずっと歌ってきましたから。
Q:そのアルバムからヒット曲が出たことに驚きましたか?
成功したことすべてが驚きでした、寄せ集めに思えていたからです。いろんな曲を試しましたが、必ずしも互いに関係があるものではありませんでした、でも、それらはただ表現したいという私にとっての本当の緊急感を表現していました。「ユー・ノー・グッド」は後から付け加えたものです。ショーを閉じるにはアップテンポの曲が必要で、ラジオで知っていた歌だったので。
Q:有名人になるための最大の課題は何でしたか?
他の人を観察する能力がないということ、みんながに観察されているのに。私はいつも頭を下げてなければなりませんでした。耐え難いことでした。今もそう感じています。そんな所にはいたくない。人間関係は大変でした、いつもバスに乗ってるみたいなものでしたから。
Q:1977年のインタビューで、あなたは言いました、「一般的に言って男性は私をひどく扱っていると思います。男女間の闘争という考え方は、私たちの文化の中に現実としてあります。メディアで、女はセックスを武器とするものとして作り上げられます、そして、男はそれに魅了され脅かされているとされ、できる限り激しく報復します」覚えていますか?
覚えてないわ!キャリア全体を見てもらえば、最も重要なのは、音楽を演奏したかどうかです。そうした騒ぎがエミールーで起こるのを見ました、ジョニ・ミッチェルでも起こりました。ジョニ・ミッチェルは皆を脅かしていましたから。彼女はもっと上手くプレイができました。もっと歌うことができました。もっと素晴らしくなれました。すべてを行うことができました。ある種の排外主義があった、それが真実。私がやっているようなことを業界内でやっている女の子はほとんどいませんでした、だからエミルー・ハリスと友情はとても重要なものでした。
Q:同時代の男性と比べ女性であるがゆえに大変だと思うことはありましたか?
そうね、化粧と髪のセットをしなきゃいけない。大変なの、一日2時間、あなたは本を読み、言語を学び、ギターを練習している。男はシャワーを浴びて古着を着るだけ。あと、ハイヒール。外反母趾だったのでハイヒールには苦しみました。ステージで履いていて、脱ぎ捨て、モニターの後ろに足を隠し、ステージを降りる時に履きなおしていました。
Q:ロックンロールの名声がピークの時にあなたはギルバートとサリバンの歌劇を選びました。どこに惹かれたのですか?
私の姉、彼女が11歳で私が6歳の時、中学校で「軍艦ピナフォナ」を歌っていました。母はピアノ版のギルバートとサリバンのオペレッタの楽譜を持っていてどういうわけか私は歌を学びました。姉が練習しているのを聞いていたんです。だから、「ペンザンスの海賊」と聞いたとき、ギルバートとサリバンであることは知っていました。
Q:ロックスターであることにうんざりしていた?
ある意味でとてもうんざりしていました。音楽のために作られたとは思えないホールで大声で歌っていましたから。プロセニアム・ステージというアイデアが好きでした。プロセニアムは観客の注意を集中させることに関係があると思います。劇場は、観客の注意を集中し、夢を見ることができるように作られた仕掛けです。ある種の催眠術をかけられ、ステージ上の人が観客の主役となり、観客の物語を語ってくれます。自分が気付いていなかった感情を見つけることができます。
Q:80年代を通して、あなたは野心的にジャンルについての実験を行いました、プッチーニからグレートアメリカン・ソングブック、メキシコの歌謡に至るまで。レコード・レーベルは驚いたでしょうね、あなたが 「メキシコのフォーク・ミュージックのアルバムを作りたい」と言った時には。
まあ、その前に、アメリカのスタンダードをやりたかったのですが、彼らには「そんなの、売れないよ」と言われました。実際には、ジョー・スミス(エレクトラ/アサイラムの会長)は、私の自宅にまでやって来て、あきらめるように懇願しました。 彼は言いました、「キャリアを捨てるのか」と。
Q:ファンも反対してるんじゃないかと心配しませんでしたか?
レコード(『ホワッツ・ニュー』)を作り、ラジオ・シティ・ミュージック・ホールでお披露目をするまでは心配していませんでした。突然、観客が現れないかもしれないことに気づきました。彼らはそれを好きじゃないかもしれません。隣のカーネギー・デリにマッツォ・ボール・スープを注文していましたが、動揺し、ステージに上がったときにはほとんど我慢できなくなっていました。私は舞台袖でネルソン・リドルと手をつないでいました—彼も緊張していました。「僕を失望させないでくれ、ベイビー」と彼が言い「頑張るわ」と答えました。彼は最高のアレンジャーで、ローズマリー・クルーニー、フランク・シナトラ、エラ・フィッツジェラルドとコラボしました。私のために美しい楽譜をを書いてくれました。 彼に会えて本当にラッキーでした。その夜、アパートに戻り、微笑みました。なぜなら、私たちは「アメリカン・スタンダードの夜」を見逃してしまったからです。
Q:レディー・ガガがトニー・ベネットとスタンダード・アルバムを録音したのを見たとき、彼女はあなたに借りがあると思いました。
いえ、私に負う所は何もありません。自分でそれを作るのに十分な才能を持っていますから。でも、それまで、女性ポップ・アーティストによるスタンダードへの回帰の試みは成功していませんでした。ジョーン・バエズはスペイン語で録音しようとしましたが、うまくいきませんでした。観客が何を期待しているかにかかっています。メキシコの歌を作ったときには、まったく新しい観客を呼び込みました。 同じ会場で演っても、祖母と孫くらい違いました。みんな子供を連れてきていました。スタンダードの聴衆はもっと年配で、50代から60代でした。当時の私には信じられないほどのお歳でした。
Q:ジョージルーカスのレコーディングスタジオ、スカイウォーカーサウンドで「カンシオーネス・デ・ミ・パードレCanciones de Mi Padre」を録音したというのは本当ですか?
セカンド・アルバム「マス・カンシオーネス Mas Canciones」の方。スタジオに大きなオーケストラ・ホールを持っているので、選びました。壁の木製パネルで調整できる優れた音響効果がありました。いいムードでした。マリアッチはフォーク・オーケストラなので、良い音がしました。なかなか無いのです。
Q:エミールー・ハリスとドリー・パートンともコラボレーションしました。彼らとは連絡を取り合っていますか?
エミルーはいつも「Hardly Strictly Bluegrass」に出演します、ここサンフランシスコのブルーグラス・フェスティバルです。だから彼女には年に一度くらい会っています。彼女は私の家にやって来ます。以前は一緒に歌っていました。洗濯物を持ってきて、話に花を咲かせます。ツアーでは洗濯物が余計に出るでしょ。
Q:ドリーとも?
エミルーと私は最近彼女に賞を贈りました、それまでしばらく彼女に会っていませんでした。 彼女は私の障害のほどに気づいていなかったと思います。彼女は私に腕を回してきたので私は言ったの「ドリー、気をつけて! あなた私をKOしちゃうわ!」。彼女は冗談だと思ってたみたい。 倒れそうになって私は表彰台をつかみ、倒してしまいました。それはガラスでできていて、壊れました。「おめでとう、これがあなたの賞よ、粉々!家に持ち帰ることができるわ」。
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Q:魔法の杖を振って、もう1枚のアルバムを録音できるとしたら、どんなものにしたい?
それはいろんなものがミックスされたものになるでしょう。 「知らない私がいるのI Still Have That Other Girl」という歌があるのよ。
https://www.newyorker.com/culture/the-new-yorker-interview/linda-ronstadt-has-found-another-voice?fbclid=IwAR2X9k9qITHzFQqlb0yzHk2JCMC3yTOI7EDGpg7ldh8pbGt0e-LR9e0R3Pw

個人的にはリンダにアンナとケイト・マッガリグルの「ハート・イズ・ライク・ア・ホィール」を教えたのがジェリー・ジェフだったというのが嬉しい情報でした。
ちょっと長いですがご興味のある方はぜひ。
(誤訳もあるかと思いますがそこは鷹揚に願います)
>かつてロックン・ロールで最も高給取りの女性であった、リンダ・ロンシュタットが最後のコンサートで歌ってから10年が経ちました。2013年、世界はその理由を知りました:パーキンソン病により、彼女は歌えなくなり、クラシック・ロックの時代に消えることのないマークを残し、10のグラミー賞を獲得した音楽のキャリアを終わらせたのでした。ロンシュタットの驚異的な声とステージでの存在感は、60年代後半に彼女に名声を与えました。彼女の「Different Drum」(最初のグループ、ストーン・ポニーズと)、「You're No Good」(彼女の画期的なアルバム『Heart Like a Wheel』から)、「Blue Bayou」、「Desperado」といった曲はカリフォルニアのフォーク・ロック・サウンドの定義に貢献しました。途中で、2人のバック・アップ・ミュージシャンがイーグルスを結成するために去りました。
現在73歳のロンシュタットは、彼女の最大のヒット曲に満足することなく、目まいがするほどのジャンルに挑戦しました。80年代には、ブロードウェイのギルバート&サリバンの「ペンザンスの海賊」に出演し、ベテランの編曲家ネルソン・リドルとスタンダードアルバムを録音しました。メキシコの伝統的な歌のコレクションである「Canciones de Mi Padre」をリリースし、アメリカ史上最も売れた英語以外のアルバムとなりました。そのレコードは、ロンシュタットを自身のルーツに戻しました。彼女の祖父はメキシコのバンド・リーダーであり、父親は美しいバリトンでメキシコ民謡を母親に歌って聞かせました。彼女は国境に近いアリゾナ州ツーソンで育ちました、この場所はその後政治的な発火点になります。
ロブ・エプスタインとジェフリー・フリードマン監督の新しいドキュメンタリー「リンダ・ロンシュタット:ザ・サウンド・オブ・マイ・ヴォイス」は9月6日に公開され、ロンシュタットの冒険的なキャリアを振り返ります。彼女はサンフランシスコの自宅で2度に渡りニューヨーカーと電話で話しました。この会話は編集し、要約されています。
Q:最近のあなたの日常生活はどんな感じ?
よく横になります、障害のせい。たくさん本を読んでいます、でも、目が悪くなってきていて、ちょっと問題。老化なんでしょうけど。
Q:今何を読んでいるの?
トーマス・マン、「魔の山」を読んでます。どういうわけかトーマス・マンを読まないままこの歳になった、だから取り戻してるの。「ブッデンブローク家の人々」を読んで、彼の文章に恋をしました。彼の本は素晴らしいけど、長いので、理解するには数日かかるけど。
Q:誰と時間を過ごしていますか?
息子は一緒に住んでいます。娘もやってきます。本当に仲の良い友達も。彼らは訪ねて来て私を連れだしてくれます。外に出るのは難しいんです。レストランに座ったり、椅子に座ったりするのは難しい。立っているのも難しくて5分ほど誰かとドアのところで話さねばならないような状況がありそうだと、つい避けようとしてしまいます。
Q:どんな曲を聞いています?
オペラが大好き。Youtubeで聴いてるの、ひどいでしょ。私はオーディオ・ファンだけど、1つの役がらの29の異なるパフォーマンスを聞くことができるっていう便利さに慣れちゃった。他の音楽も聴きますよ。NPRのTiny Desk concertsで、韓国のバンドを見かけておもしろいと思いました。Tiny Desk concertsはミュージシャンを招待し、机の後ろにある本当に小さなスペースでライブ演奏をさせます。ショービジネスじゃなくて、音楽だけ。素晴らしいものを観ました。ランディ・ニューマンがいました。ナタリア・ラフォーケード、大好きなメキシコのアーティスト。
新しいものは何でも。韓国のバンドはシンシン(SsingSsing)と呼ばれていました。
Q:それはKポップのようなものですか?
いいえ、韓国の伝統的な歌をベースにしています。デヴィッド・ボウイのベースとドラムみたいな感じで、韓国の伝統的な歌なの。ポリフォニー。私たちが使っているものとは異なったスキルです。より多くの音があります。そして、多くのジェンダーの交差。まるで未来を見ているみたい。
Q:ドキュメンタリーでは、あなたはこう言っています、「心の中で歌うことはできるけど、声に出して歌うことはできません。」と。それは慰めにも苦しみにも聞こえるのですが。
家族がアリゾナからやって来ると、みんな一緒に唄いだすからちょっとイライラします。歌えば、政治の話をする必要がないから。それはハーモニー生み出します-しゃれではなく-つながりを作ります。でも私にはもうできません、だから民主党員を招待します(笑)。
Q:あなたが心の中で歌うとき、何が聞こえますか?
歌が聞こえます。歌いたいと思う歌が聞こえます。伴奏が聞こえます。時々私は歌詞を忘れているので、それを調べなければなりません。私が歌っているのはだいたい私の歌じゃありません。自分の歌はあまり聞こえません。
Q:予想外の場所でラジオから自分自身の歌を聞いたことはありますか?
メキシコのラジオ、サンノゼのバンダ駅で。私は主にNPRを聞いています。メインストリームのラジオはもう聞きません。歌手が分からないし音楽も知りません。特に興味もないですし。優秀な若い子はいます。シアとか。彼女は非常に独創的な歌手です。
Q:やりたいことがすべてできないという不満にどう対処しますか?
受け入れました。私には絶対できないことなので。私は標準的なパーキンソン病の薬が効かないパーキン病です、だから私の病気は治療法がありません、P.S.P.-進行性核上性麻痺と呼ばれています。とにかく家にいる必要があります。主な娯楽といえばサンフランシスコではオペラと交響曲、努力して出かけています、でも年に数回しか行けません。マイケル・ティルソン・トーマスが指揮棒をふり上げる時に観客席にいないことが残念です。彼はとても良い指揮者だから、オーケストラの音楽を聞くのが恋しいです。友達が来て音楽を演奏してくれます、一番好きな場所、リビングルームで。
Q:あなたが言うように、パーキンソン病にかかっていることを知る前に、最初に気づいた症状はあなたの歌声でした。
そう。何かをしようとして、メモを取り始めて、その後止まってしまいます。パーキンソ病でできなくなるのは、繰り返しの動きです。歌は繰り返しの動きです。
Q:あなたはその強力な声でシーンに登場しました。そんな声で歌うというのはどんな感じがしましたか?
えぇ、私はどんな風に歌ったらいいかを見つけようとしていました!そして、音響装置を使って聴かそうとしたの。できるだけ大きな声で歌うことしか知りませんでした。いつも十分な大きさで歌っていないと思っていました、初期にはモニターがなかったからです。自分の声が聞こえなかったの。
Q:ドキュメンタリーでは、アリゾナ州ツーソンで育ったこと、それがどれほど文化的に豊かだったかが語られています。現在の国境周辺の政治状況についてあなたはどう思いますか?
壊滅的です。無力な怒りを体中に感じます。私はソノラ砂漠で育ちました、ソノラ砂漠は国境の両側にあります。今そこには分断するフェンスがあります、でも両側は今も同じ文化です。同じ食べ物、同じ服、牧場と農業中心の同じ伝統的な生活。私はよく行きますが国境を越えて戻るのはとても難しくなっています。バカみたい。以前は国境を越えてランチに行ってました、そして友達を訪ね、小さなお店で買い物をしました。50年代および60年代には美しいデパートもありました。両親には国境の両側に友人がいました。彼らは牧場主と友達で、私たちは洗礼式や結婚式や舞踏会などすべてのパーティーに行きました。
それが今ではなくなりました。店はもう米国と取引ができなくなったので一掃されてしまいました。メキシコ側に鉄条網が張られています、アメリカ人が作りました。動物がそれに引っかかっています。子供たちはそれで怪我をしています。絶対いらない。その一方、人々は穏やかにスケートボードをし、女の子はローラースケートをし、子供たちは公園で遊んでいます。何を恐れているの?普通の子供じゃない!
まだ健康だった頃には砂漠で過ごしました、迷える人々を見つけるためにサマリタンズ(困難を抱えて自殺を考えている人の相談を受ける慈善団体)のグループと協力していました。5秒ごとにミニットメンまたは国境警備隊に遭遇します。国境は完全に軍事化されています。砂漠をよろめきながら渡ろうとしている脱水状態で、足にはいばらとサボテンのとげがいっぱいの男に出あいます、その後水と食べ物とビールの入ったクラーボックスに座り自動小銃を膝の上に置き完全な迷彩服を着たミニットメンを見つけます。とても残酷なことです、人々は仕事を探しにやって来ます。より良い生活を求めています。砂漠を横断するのは命がけなのです。
Q:2013年にあなたの回顧録が出たとき、この問題がこのように国家的な重要問題になる前に言及していました。以前は誰も十分な注意を払っていませんでしたか?
まあ、みんなが国境近くに住んではいませんしね。彼らにとっての問題ではなかったです。私はその時国境に住んでいました。ツーソンに10年間。何が起こっているのかを見ていました。子供を刑務所に入れることは、最近のことではありません。ブッシュ政権の時に起こっていました。バラク・オバマは移民改革を試みましたが、議会は許可しませんでした。だから、人々は苦しみの網に巻き込まれ、砂漠で死にました。彼らは信じられないほど勇敢で機知に富んでいます。ある大企業のC.E.O.がかつて私に言いました。私が「雇用を考える時何を求めますか?」と聞いた時です「多くの逆境に対処している人を探しています。彼らは通常、良いビジネスマンになるからです」。私は思います、国境を越えてやって来るすべての移民を雇うべきです。
Q:ツーソンからサンフランシスコに引っ越すことにしたのはなぜですか?
私の子供たちは学校で聞いた同性愛嫌悪の言葉を繰り返しながら帰宅していました。他にも「教会に行かないと地獄に落ちる」なんてことも聞かされていました。そんなことを聞く必要はないでしょう。だから私はサンフランシスコに戻りました。学校まで歩いたり、市場まで歩いたりすることができるコミュニティがどのようなものであるかを彼らに感じてもらいたかったのです。都市村を経験して欲しかった。ツーソンでは彼らを学校に連れて行くために車を45分間運転していました、そして暑い車で45分かけて帰ってきます。彼らのためにそんな人生は望んでいませんでした。
Q:かっての国境を知っているあなたは、本当に嘆き悲しんでいるのですね。
人々は、メキシコ人がいて、アメリカ人がいて、それからメキシコ系アメリカ人がいることに気が付きません。それらは3つの異なる文化です。そして、それらはすべて互いに影響しあっています。そしてそれらはすべての私たちの文化に深く影響しています。ロイ・ロジャースが着るカウボーイスーツ、ヨーク・シャツとパールボタン、ベルボトム・フロンティア・パンツ、カウボーイ・ハット—それらはすべてメキシコ人のものです。輸入したのです。ブリトーとタコスを食べ、メキシコの音楽に大きく影響されています。文化は常に国境を行き来しています。
Q:メキシコとアメリカのハイブリッド文化で育ったことは、あなたをどのようなミュージシャンに育てましたか?
ラジオではメキシコの音楽をたくさん聴きました、そして父はメキシコの伝統音楽の本当に素晴らしいコレクションを持っていました。アメリカのポップ・ミュージックを歌うのは大変でした、ロックン・ロールは黒い教会のリズムに基づいていて、子供の頃には馴染みがありませんでした。私は聞いたものしか歌えません。私が聞いていたのは、メキシコ音楽、ビリー・ホリディ、そして弟の歌うボーイ・ソプラノでした。
Q:60年代にフォークロックに惹かれたきっかけは何ですか?
ピーター、ポール、メアリーのようなポピュラーなフォークミュージックが大好きでした。カーター・ファミリーのような本物のトラデショナルも大好きでした。ボブ・ディランも大好きでした。そして、できそうなことをコピーしようとしました。バーズがフォーク・ロックを演っているのを聞いたとき、私のやりたいのはこれだと思いました。
Q:1967年にストーン・ポニーズと「Different Drum」をレコーディングしたきっかけは?
グリーンブライア・ボーイズ(Greenbriar Boys)のレコードで見つけた曲ですが、強力な歌だと思いました。大好きでした。私たちは一種のシャッフルとして作りましたがギターとマンドリンを演奏する人たちとの相性はあまり良くありませんでした。でもレコード会社はこの歌が強いものと気づいていたので、私を呼び戻し、彼らのミュージシャンとアレンジで録音しなおしました。かなりショックでした。私はそんなアレンジで歌うとは思ってもみませんでした。でもヒットしました。
Q:ラジオで初めて聞いた時のことを覚えていますか?
えぇ。キャピトル・レコードでの会議に行く途中でした、古いダッジだったかな、後部座席にギターを詰め込んでぎゅうぎゅうで。エンジンがフリーズして、車は恐ろしい金属音をたてていました。半ブロック先のガソリン・スタンドまで車を押していかなければなりませんでした。ガソリン・スタンドの男は車を見て、二度と走らないよと言いました。私たちは、「車なしのロサンゼルスで何ができるの?」とぼやきました。ガレージの後ろでラジオが流れていて「Different Drum」のイントロが聞こえてきました。どこのラジオ局なのか聞くとKRLAでした、ロスのラジオ局でかかっていたので、ヒットしていることがわかりました。
Q:ウェスト・ハリウッドのトルバドールの思い出は?
たむろしていました。演奏している地元の歌手たちや、ホイト・アクストンやオスカー・ブラウン・Jr.、オデッタのような人たちを聞きに行きました。当時はまだ誰も特別な存在ではありませんでした。みんな野心的なミュージシャンでしたけど。ディラーズがいた。バーズもたむろしていました。そして、ジョニ・ミッチェルやジェームス・テイラーのような人々が出てきました。キャロル・キングもそこで演奏していました。ジョニ・ミッチェルが2週間演りました。毎晩見たはずです。
Q:あなたの本の中で、あなたはそこにジャニス・ジョプリンと一緒にいてステージで何を着るかを考えていたことに言及しています。
ああ、何を着たら良いかわからなかったの。リーバイスとTシャツ、セーター、カウボーイブーツかスニーカーを着て育ったから。家を出た時もそれ、結局それだけ。夏になると、リーバイスの足を切り落とし、リーバイスのショーツ。カブ・スカウトの衣装を手に入れて、私は本当に変わりました。
Q:あなたとジャニス・ジョプリンはどうやって適応したらよいか理解できなかったと言ってますね、母性的な女性になるのかそれとも違うのか分からなかったと。
料理をし、縫い、刺しゅうをするかどうかなんてわかりませんでした。女性の役割が再定義されていました。やり方は知っていて母性を持ったヒッピーの女の子もたくさんいました。
Q:1977年のインタビューが収録されたドキュメンタリー・クリップがあります。そこで、あなたはロックン・ロール・スターがいかに疎外されていて、甘やかし放題のマネージャーに囲まれていることが、ドラッグの問題に巻き込まれていく理由だと言っています。
彼らは孤独を感じてドラッグに溺れていきます。スターは孤独です。ミュージシャンになろうとしている人が周りにはたくさんいました。幾人かは選ばれましたが、他の人はだめでした、そのことで選ばれなかった人々との関係は難しくなります。時には彼らは憤慨して、そのことであなたは不快感を感じます。エミルー・ハリスが歌っているように「空のかけらが隣りの人の庭に落ちてきたけど、あなたの所には落ちなかった」のです。賞賛は人々を分断します。そして、ある人々の脳の化学作用は、中毒しやすいの。私は運が良かった。
Q:デビッド・ゲフェンは、あなたのダイエット薬に問題があったと言っています。
問題はありませんでした。必要なときに使っていただけ。好きじゃなかったけど。食べたらダイエット薬を飲む。喜びのために飲んでたわけじゃないの。
Q:今年は1969年の夏の多くの出来事が回顧されています。月面着陸とウッドストックとマンソンの殺人のアニヴァーサリーなどです。あの夏について何を思い出しますか?
ウッドストックが開催された時、ニューヨークにいました。ヘンリー・ディルツやクロスビー、スティルス&ナッシュなどからたくさんの連絡が来たことを覚えています。みんな泥の中にいると言ってました。そこを生き延びたことが良いことのように思え、そこに行かなかくて良かったと思いました。あふれるトイレ、食料不足、それは私が思う楽しい時じゃありません。私はいくつかのクラブ、たしかビター・エンドで演奏をしていました。
マンソン一家がやってきて、隣人のゲイリー・ヒンマンを殺しました。その夜、私は家にいなかったので幸運だったのですが、彼らは私を狙っていたのかもしれません。(マンソン・ファミリーの)リンダ・カサビアン、そしてレスリー・ヴァン・ハウテンも知っていました。私はその時トパンガキャニオンに住んでいました、彼女たちはヒッチハイクでやってきて、スパン・ランチ牧場のチャーリー(マンソン)について話していました。個人的に彼の事は知りませんでした。ある種の嫌な感じだとはわかっていました。で、その感じがどれほど悪かったのか知った時には、震えました。
Q:捕まる前はみんな本当に怖かったでしょうね。
えぇ、みんな驚きました。当時、ゲイリー・ヒンマンの殺人事件が他の殺人事件と関連しているかどうかはわかってませんでしたが、すぐにわかったので。
Q:当時の音楽は政治ととても絡み合っていました。最近のポピュラー音楽と比べてどう思いますか?音楽は政治の混乱に対処していますか?
ええ、思います。特にヒップホップは。でも、もう少し政治的な活動があってもいいのにとは思います。私は国会議事堂が燃え落ちるのを待っています、知ってた。ワイマール共和国に興味があって、文化が非常に短い時間で圧倒され、破壊される可能性があるってことを常に認識しています。ドイツの知的歴史のすべて-ゲーテとベートーベン-はナチスによって破壊されました。それは30年のスパンで起こっていてドイツ文化をひざまずかせたの。そしてそれは今ここでも起こっています。民主主義を打ち負かそうとする国際ファシズムの真の陰謀があります。彼らは自分自身のためにすべての力を望んでいて、今、ドナルド・トランプが現れたと思います。彼は独裁者になろうとしています。
Q:あなたの歴史をみると、あなたが歯に衣着せない物言いを選んでいることに気づきました。1983年のインタビューでは、オーストラリアのトークショーの司会者が、アパルトヘイトの下の南アフリカでの公演を行うことについて尋ねました。あなたは人種差別のあるところで公演をしないならば、アメリカ南部やボストンでも公演はできなくなるだろうということを述べました。また、ロナルド・レーガンとルパート・マードックと写真を撮っています。人気のあるパフォーマーとして、発言することは代償がありますか?
約15年、ステージ上で私は話しをしませんでした。だけど、音楽仲間たちと団結したことが原因となりました。そのうちの一つは原子力についてでした。多くの反原発(NONUKES)コンサートを行いました。ジェームス・テイラー、私、ジャクソン・ブラウン、ボニー・レイット—そして、それが私が賛同した特定の原因であったとしたら。できる限りのことを私は行ったけど、焦点は特に政治的だとは思ってません。誰かに尋ねられたら、自分の意見が言えてとても幸せだったと答えます。
Q:1995年のクリップも見つけました、ハワード・スターンの共同ホストであるロビン・クイバースと、スターンとの関係について「トゥナイト・ショー」で対決したものです。何をそんなに憤慨していたのか覚えていますか?
そう、まず第一に、ハワード・スターンはラジオで聞いたことがありませんでした。彼が誰なのか知りませんでした。テレビを持っていなかったから。ロビン・クイバースが誰なのかも知りませんでした。でも、それはちょうどその日のニュースがきっかけでした、彼が言ったこと、えーっと、ガール・シンガーのこと・・・。
Q:セレナでしょ?彼はこう言いました「スペイン人は音楽の嗜好が最悪です」そして彼女の音楽を流しました、銃声のBGMとともに。
セレナ、そう。それは私をとても怒らせました。メキシコ系アメリカ人として、彼が誰かの死んだ娘についてそのような恐ろしいことを言うなんて、私はとても不快な気分でした。ハワード・スターンが他人の不幸に言及することでキャリアを築いたことを知りませんでした。それに、ロビン・クイバースが何者なのかも知らなかった。何も知らなかったの。番組に行き「ねえ、本当に怒ってるんだけど」って。本当に怒ってたの。それが、どんなスズメバチの巣に足を踏み入れていたのか気づいてくませんでした。
Q:その後、彼から何かリアクションはありましたか?
そうそう。彼は私について恐ろしいことを言ってました。
Q:音楽活動に話を戻します、ドキュメンタリーで、元マネージャーのピーター・アッシャーは、コンサートで人々がひそひそ話をしているのを見ると、あなたはこんな風に言っていると想像してたそうですね、「彼女は私が聞いた中で最悪の歌手ね」と。あなたはどうしてそんなに不安だったのですか?
満足に歌えてるとは思ってませんでした。すべてを忘れて音楽に集中できるときは最高でした。でも、そこに辿り着くまでに長い時間がかかりました。聴衆の中に知り合い見つけたくありませんでした。本当言えば観客を見たくありませんでした。なぜやって来るのか理解できませんでした。テイラー・スウィフトのような歌手とは異なる関係性です。聴衆を抱きしめて、みんなが同じチームだっていう気分になることは健康的なことだと思います。1960年代には、我々と彼等と考えるよう勧められました。ヒッピーは同族全体という考えをスタートしました、そしてそれはヒッピーに対して誠実でした。でも、それは不健康でした。
Q:どうやって自己疑念を克服しましたか?
ひとつだけ、「深呼吸してそれから歌う」。音楽に集中している限り、私は大丈夫。
Q:ジェリーブラウンとの関係は、ドキュメンタリーと本で取り上げられていますが、ジム・キャリーやジョージ・ルーカスなど他の著名人との関係はありません。その理由は?
私は音楽について書いていました。彼らは私の音楽プロセスとは何の関係もないからです。
Q:彼と連絡を取り合っていますか?
えぇ。私たちは友達です。いつも友達でした。去年のクリスマスもやってきました。
Q:どんな話をしているの?
カリフォルニアの水のこと。彼は引退したら、木々やカリフォルニアのインディアンについて勉強したいと言いました。彼に私の本、「The Hidden Life of Trees」をあげました。カリフォルニアの水使用の新しい歴史は素晴らしいものです。「夢の土地」と呼ばれます。ジョン・マクフィー並みのの執筆といえます。執筆だけでも本当に価値があります。
Q:マスコミはいつもあなたが結婚したことがないという事実について大きな話題にしました。
結婚する必要はありませんでした。結婚する必要があるというのが分かりません。必要ならば、結婚していたでしょう。でも、私は結婚する必要はありませんでした。私には私の人生があったので。
Q:80年代生れの私が認めざるを得ないのは「マペット・ショー」であなたを発見したことです。カーミットと一緒に働いた時の事を教えてください。
私はカーミットに恋をしました、でもミス・ピギーがいたので問題が起こりました。彼は彼女の所有物でした。でも、私たちはそのショーで本当に楽しい時間を過ごしました。パペット使いには非常に創造的なものがあります。彼らは魅力的です、なぜなら彼らのすべての演技は、自分の体を通過させていないのですから。才能でいっぱいです。それを見るのが大好きでした。とても協力的な経験でした。私の物語と歌を手伝ってもらいました。
Q:物語への貢献ってどんなこと?
カーミットに抱いていた恋心のため、ミス・ピギーと私は対立し、それがちょっとした物語になりました。
Q:非常に手ごわいライバルでしたか。
そう。彼女は性悪だった!カーミットをトランクに閉じ込めたの。
Q:あなたは歌手ですがソングライターではないので、芸術的表現の多くは、楽曲の選択を通じてもたらされています。アンナとケイト・マッガリグルのタイトル曲を含む『ハート・ライク・ア・ホィール』の曲はどのように選びましたか?
まったくの不意打ちでした。ジェリー・ジェフ・ウォーカーと一緒にタクシーに乗っていた時に、彼が言いました、「僕はフィラデルフィア・フォーク・フェスティヴァルに出演した、そこで二人の女の子が歌っているのを聞いたんだ、二人は姉妹だったよ。本当にいい歌だったよ。君も聴くべきだ」そして最初の歌詞を歌い出しました。
心は車輪のようだと人は言う
曲がってしまえば 直せない
私の愛は沈没しかけた船
私の心は、海の真ん中の船の上
私が聞いた中で最も美しい歌詞でした。「その歌を送ってください」と私は言いました。オープン・リールが郵送されて来ました。ピアノとチェロだけで二人の少女が美しいハーモニーを歌っています。当時のマネージャーは、それはあまりにも感傷的すぎると言いました。絶対ヒットしないと言った人も。ラジオ向けのシングルだとは思いませんでしたが、私にとって重要な歌でした。自分のキャリアを通してずっと歌ってきましたから。
Q:そのアルバムからヒット曲が出たことに驚きましたか?
成功したことすべてが驚きでした、寄せ集めに思えていたからです。いろんな曲を試しましたが、必ずしも互いに関係があるものではありませんでした、でも、それらはただ表現したいという私にとっての本当の緊急感を表現していました。「ユー・ノー・グッド」は後から付け加えたものです。ショーを閉じるにはアップテンポの曲が必要で、ラジオで知っていた歌だったので。
Q:有名人になるための最大の課題は何でしたか?
他の人を観察する能力がないということ、みんながに観察されているのに。私はいつも頭を下げてなければなりませんでした。耐え難いことでした。今もそう感じています。そんな所にはいたくない。人間関係は大変でした、いつもバスに乗ってるみたいなものでしたから。
Q:1977年のインタビューで、あなたは言いました、「一般的に言って男性は私をひどく扱っていると思います。男女間の闘争という考え方は、私たちの文化の中に現実としてあります。メディアで、女はセックスを武器とするものとして作り上げられます、そして、男はそれに魅了され脅かされているとされ、できる限り激しく報復します」覚えていますか?
覚えてないわ!キャリア全体を見てもらえば、最も重要なのは、音楽を演奏したかどうかです。そうした騒ぎがエミールーで起こるのを見ました、ジョニ・ミッチェルでも起こりました。ジョニ・ミッチェルは皆を脅かしていましたから。彼女はもっと上手くプレイができました。もっと歌うことができました。もっと素晴らしくなれました。すべてを行うことができました。ある種の排外主義があった、それが真実。私がやっているようなことを業界内でやっている女の子はほとんどいませんでした、だからエミルー・ハリスと友情はとても重要なものでした。
Q:同時代の男性と比べ女性であるがゆえに大変だと思うことはありましたか?
そうね、化粧と髪のセットをしなきゃいけない。大変なの、一日2時間、あなたは本を読み、言語を学び、ギターを練習している。男はシャワーを浴びて古着を着るだけ。あと、ハイヒール。外反母趾だったのでハイヒールには苦しみました。ステージで履いていて、脱ぎ捨て、モニターの後ろに足を隠し、ステージを降りる時に履きなおしていました。
Q:ロックンロールの名声がピークの時にあなたはギルバートとサリバンの歌劇を選びました。どこに惹かれたのですか?
私の姉、彼女が11歳で私が6歳の時、中学校で「軍艦ピナフォナ」を歌っていました。母はピアノ版のギルバートとサリバンのオペレッタの楽譜を持っていてどういうわけか私は歌を学びました。姉が練習しているのを聞いていたんです。だから、「ペンザンスの海賊」と聞いたとき、ギルバートとサリバンであることは知っていました。
Q:ロックスターであることにうんざりしていた?
ある意味でとてもうんざりしていました。音楽のために作られたとは思えないホールで大声で歌っていましたから。プロセニアム・ステージというアイデアが好きでした。プロセニアムは観客の注意を集中させることに関係があると思います。劇場は、観客の注意を集中し、夢を見ることができるように作られた仕掛けです。ある種の催眠術をかけられ、ステージ上の人が観客の主役となり、観客の物語を語ってくれます。自分が気付いていなかった感情を見つけることができます。
Q:80年代を通して、あなたは野心的にジャンルについての実験を行いました、プッチーニからグレートアメリカン・ソングブック、メキシコの歌謡に至るまで。レコード・レーベルは驚いたでしょうね、あなたが 「メキシコのフォーク・ミュージックのアルバムを作りたい」と言った時には。
まあ、その前に、アメリカのスタンダードをやりたかったのですが、彼らには「そんなの、売れないよ」と言われました。実際には、ジョー・スミス(エレクトラ/アサイラムの会長)は、私の自宅にまでやって来て、あきらめるように懇願しました。 彼は言いました、「キャリアを捨てるのか」と。
Q:ファンも反対してるんじゃないかと心配しませんでしたか?
レコード(『ホワッツ・ニュー』)を作り、ラジオ・シティ・ミュージック・ホールでお披露目をするまでは心配していませんでした。突然、観客が現れないかもしれないことに気づきました。彼らはそれを好きじゃないかもしれません。隣のカーネギー・デリにマッツォ・ボール・スープを注文していましたが、動揺し、ステージに上がったときにはほとんど我慢できなくなっていました。私は舞台袖でネルソン・リドルと手をつないでいました—彼も緊張していました。「僕を失望させないでくれ、ベイビー」と彼が言い「頑張るわ」と答えました。彼は最高のアレンジャーで、ローズマリー・クルーニー、フランク・シナトラ、エラ・フィッツジェラルドとコラボしました。私のために美しい楽譜をを書いてくれました。 彼に会えて本当にラッキーでした。その夜、アパートに戻り、微笑みました。なぜなら、私たちは「アメリカン・スタンダードの夜」を見逃してしまったからです。
Q:レディー・ガガがトニー・ベネットとスタンダード・アルバムを録音したのを見たとき、彼女はあなたに借りがあると思いました。
いえ、私に負う所は何もありません。自分でそれを作るのに十分な才能を持っていますから。でも、それまで、女性ポップ・アーティストによるスタンダードへの回帰の試みは成功していませんでした。ジョーン・バエズはスペイン語で録音しようとしましたが、うまくいきませんでした。観客が何を期待しているかにかかっています。メキシコの歌を作ったときには、まったく新しい観客を呼び込みました。 同じ会場で演っても、祖母と孫くらい違いました。みんな子供を連れてきていました。スタンダードの聴衆はもっと年配で、50代から60代でした。当時の私には信じられないほどのお歳でした。
Q:ジョージルーカスのレコーディングスタジオ、スカイウォーカーサウンドで「カンシオーネス・デ・ミ・パードレCanciones de Mi Padre」を録音したというのは本当ですか?
セカンド・アルバム「マス・カンシオーネス Mas Canciones」の方。スタジオに大きなオーケストラ・ホールを持っているので、選びました。壁の木製パネルで調整できる優れた音響効果がありました。いいムードでした。マリアッチはフォーク・オーケストラなので、良い音がしました。なかなか無いのです。
Q:エミールー・ハリスとドリー・パートンともコラボレーションしました。彼らとは連絡を取り合っていますか?
エミルーはいつも「Hardly Strictly Bluegrass」に出演します、ここサンフランシスコのブルーグラス・フェスティバルです。だから彼女には年に一度くらい会っています。彼女は私の家にやって来ます。以前は一緒に歌っていました。洗濯物を持ってきて、話に花を咲かせます。ツアーでは洗濯物が余計に出るでしょ。
Q:ドリーとも?
エミルーと私は最近彼女に賞を贈りました、それまでしばらく彼女に会っていませんでした。 彼女は私の障害のほどに気づいていなかったと思います。彼女は私に腕を回してきたので私は言ったの「ドリー、気をつけて! あなた私をKOしちゃうわ!」。彼女は冗談だと思ってたみたい。 倒れそうになって私は表彰台をつかみ、倒してしまいました。それはガラスでできていて、壊れました。「おめでとう、これがあなたの賞よ、粉々!家に持ち帰ることができるわ」。

Q:魔法の杖を振って、もう1枚のアルバムを録音できるとしたら、どんなものにしたい?
それはいろんなものがミックスされたものになるでしょう。 「知らない私がいるのI Still Have That Other Girl」という歌があるのよ。
https://www.newyorker.com/culture/the-new-yorker-interview/linda-ronstadt-has-found-another-voice?fbclid=IwAR2X9k9qITHzFQqlb0yzHk2JCMC3yTOI7EDGpg7ldh8pbGt0e-LR9e0R3Pw