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リンダ・ロンシュタット最新インタビュー ニューヨーカー誌より

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新しいドキュメンタリー「Linda Ronstadt: The Sound of My Voice,」が話題のリンダ・ロンシュタット。ローンチに合わせてかニューヨーカー誌の最新インタヴューをジミー・ウェッブのFBで見つけたので訳してみました。病気のこと、政治のこともちろん音楽のことなどいろいろ話しています。



個人的にはリンダにアンナとケイト・マッガリグルの「ハート・イズ・ライク・ア・ホィール」を教えたのがジェリー・ジェフだったというのが嬉しい情報でした。

ちょっと長いですがご興味のある方はぜひ。
(誤訳もあるかと思いますがそこは鷹揚に願います)



>かつてロックン・ロールで最も高給取りの女性であった、リンダ・ロンシュタットが最後のコンサートで歌ってから10年が経ちました。2013年、世界はその理由を知りました:パーキンソン病により、彼女は歌えなくなり、クラシック・ロックの時代に消えることのないマークを残し、10のグラミー賞を獲得した音楽のキャリアを終わらせたのでした。ロンシュタットの驚異的な声とステージでの存在感は、60年代後半に彼女に名声を与えました。彼女の「Different Drum」(最初のグループ、ストーン・ポニーズと)、「You're No Good」(彼女の画期的なアルバム『Heart Like a Wheel』から)、「Blue Bayou」、「Desperado」といった曲はカリフォルニアのフォーク・ロック・サウンドの定義に貢献しました。途中で、2人のバック・アップ・ミュージシャンがイーグルスを結成するために去りました。



現在73歳のロンシュタットは、彼女の最大のヒット曲に満足することなく、目まいがするほどのジャンルに挑戦しました。80年代には、ブロードウェイのギルバート&サリバンの「ペンザンスの海賊」に出演し、ベテランの編曲家ネルソン・リドルとスタンダードアルバムを録音しました。メキシコの伝統的な歌のコレクションである「Canciones de Mi Padre」をリリースし、アメリカ史上最も売れた英語以外のアルバムとなりました。そのレコードは、ロンシュタットを自身のルーツに戻しました。彼女の祖父はメキシコのバンド・リーダーであり、父親は美しいバリトンでメキシコ民謡を母親に歌って聞かせました。彼女は国境に近いアリゾナ州ツーソンで育ちました、この場所はその後政治的な発火点になります。



ロブ・エプスタインとジェフリー・フリードマン監督の新しいドキュメンタリー「リンダ・ロンシュタット:ザ・サウンド・オブ・マイ・ヴォイス」は9月6日に公開され、ロンシュタットの冒険的なキャリアを振り返ります。彼女はサンフランシスコの自宅で2度に渡りニューヨーカーと電話で話しました。この会話は編集し、要約されています。

Q:最近のあなたの日常生活はどんな感じ?

よく横になります、障害のせい。たくさん本を読んでいます、でも、目が悪くなってきていて、ちょっと問題。老化なんでしょうけど。

Q:今何を読んでいるの?

トーマス・マン、「魔の山」を読んでます。どういうわけかトーマス・マンを読まないままこの歳になった、だから取り戻してるの。「ブッデンブローク家の人々」を読んで、彼の文章に恋をしました。彼の本は素晴らしいけど、長いので、理解するには数日かかるけど。

Q:誰と時間を過ごしていますか?

息子は一緒に住んでいます。娘もやってきます。本当に仲の良い友達も。彼らは訪ねて来て私を連れだしてくれます。外に出るのは難しいんです。レストランに座ったり、椅子に座ったりするのは難しい。立っているのも難しくて5分ほど誰かとドアのところで話さねばならないような状況がありそうだと、つい避けようとしてしまいます。

Q:どんな曲を聞いています?

オペラが大好き。Youtubeで聴いてるの、ひどいでしょ。私はオーディオ・ファンだけど、1つの役がらの29の異なるパフォーマンスを聞くことができるっていう便利さに慣れちゃった。他の音楽も聴きますよ。NPRのTiny Desk concertsで、韓国のバンドを見かけておもしろいと思いました。Tiny Desk concertsはミュージシャンを招待し、机の後ろにある本当に小さなスペースでライブ演奏をさせます。ショービジネスじゃなくて、音楽だけ。素晴らしいものを観ました。ランディ・ニューマンがいました。ナタリア・ラフォーケード、大好きなメキシコのアーティスト。
新しいものは何でも。韓国のバンドはシンシン(SsingSsing)と呼ばれていました。



Q:それはKポップのようなものですか?

いいえ、韓国の伝統的な歌をベースにしています。デヴィッド・ボウイのベースとドラムみたいな感じで、韓国の伝統的な歌なの。ポリフォニー。私たちが使っているものとは異なったスキルです。より多くの音があります。そして、多くのジェンダーの交差。まるで未来を見ているみたい。

Q:ドキュメンタリーでは、あなたはこう言っています、「心の中で歌うことはできるけど、声に出して歌うことはできません。」と。それは慰めにも苦しみにも聞こえるのですが。

家族がアリゾナからやって来ると、みんな一緒に唄いだすからちょっとイライラします。歌えば、政治の話をする必要がないから。それはハーモニー生み出します-しゃれではなく-つながりを作ります。でも私にはもうできません、だから民主党員を招待します(笑)。

Q:あなたが心の中で歌うとき、何が聞こえますか?

歌が聞こえます。歌いたいと思う歌が聞こえます。伴奏が聞こえます。時々私は歌詞を忘れているので、それを調べなければなりません。私が歌っているのはだいたい私の歌じゃありません。自分の歌はあまり聞こえません。

Q:予想外の場所でラジオから自分自身の歌を聞いたことはありますか?

メキシコのラジオ、サンノゼのバンダ駅で。私は主にNPRを聞いています。メインストリームのラジオはもう聞きません。歌手が分からないし音楽も知りません。特に興味もないですし。優秀な若い子はいます。シアとか。彼女は非常に独創的な歌手です。



Q:やりたいことがすべてできないという不満にどう対処しますか?

受け入れました。私には絶対できないことなので。私は標準的なパーキンソン病の薬が効かないパーキン病です、だから私の病気は治療法がありません、P.S.P.-進行性核上性麻痺と呼ばれています。とにかく家にいる必要があります。主な娯楽といえばサンフランシスコではオペラと交響曲、努力して出かけています、でも年に数回しか行けません。マイケル・ティルソン・トーマスが指揮棒をふり上げる時に観客席にいないことが残念です。彼はとても良い指揮者だから、オーケストラの音楽を聞くのが恋しいです。友達が来て音楽を演奏してくれます、一番好きな場所、リビングルームで。

Q:あなたが言うように、パーキンソン病にかかっていることを知る前に、最初に気づいた症状はあなたの歌声でした。

そう。何かをしようとして、メモを取り始めて、その後止まってしまいます。パーキンソ病でできなくなるのは、繰り返しの動きです。歌は繰り返しの動きです。

Q:あなたはその強力な声でシーンに登場しました。そんな声で歌うというのはどんな感じがしましたか?

えぇ、私はどんな風に歌ったらいいかを見つけようとしていました!そして、音響装置を使って聴かそうとしたの。できるだけ大きな声で歌うことしか知りませんでした。いつも十分な大きさで歌っていないと思っていました、初期にはモニターがなかったからです。自分の声が聞こえなかったの。

Q:ドキュメンタリーでは、アリゾナ州ツーソンで育ったこと、それがどれほど文化的に豊かだったかが語られています。現在の国境周辺の政治状況についてあなたはどう思いますか?

壊滅的です。無力な怒りを体中に感じます。私はソノラ砂漠で育ちました、ソノラ砂漠は国境の両側にあります。今そこには分断するフェンスがあります、でも両側は今も同じ文化です。同じ食べ物、同じ服、牧場と農業中心の同じ伝統的な生活。私はよく行きますが国境を越えて戻るのはとても難しくなっています。バカみたい。以前は国境を越えてランチに行ってました、そして友達を訪ね、小さなお店で買い物をしました。50年代および60年代には美しいデパートもありました。両親には国境の両側に友人がいました。彼らは牧場主と友達で、私たちは洗礼式や結婚式や舞踏会などすべてのパーティーに行きました。

それが今ではなくなりました。店はもう米国と取引ができなくなったので一掃されてしまいました。メキシコ側に鉄条網が張られています、アメリカ人が作りました。動物がそれに引っかかっています。子供たちはそれで怪我をしています。絶対いらない。その一方、人々は穏やかにスケートボードをし、女の子はローラースケートをし、子供たちは公園で遊んでいます。何を恐れているの?普通の子供じゃない!

まだ健康だった頃には砂漠で過ごしました、迷える人々を見つけるためにサマリタンズ(困難を抱えて自殺を考えている人の相談を受ける慈善団体)のグループと協力していました。5秒ごとにミニットメンまたは国境警備隊に遭遇します。国境は完全に軍事化されています。砂漠をよろめきながら渡ろうとしている脱水状態で、足にはいばらとサボテンのとげがいっぱいの男に出あいます、その後水と食べ物とビールの入ったクラーボックスに座り自動小銃を膝の上に置き完全な迷彩服を着たミニットメンを見つけます。とても残酷なことです、人々は仕事を探しにやって来ます。より良い生活を求めています。砂漠を横断するのは命がけなのです。


Q:2013年にあなたの回顧録が出たとき、この問題がこのように国家的な重要問題になる前に言及していました。以前は誰も十分な注意を払っていませんでしたか?

まあ、みんなが国境近くに住んではいませんしね。彼らにとっての問題ではなかったです。私はその時国境に住んでいました。ツーソンに10年間。何が起こっているのかを見ていました。子供を刑務所に入れることは、最近のことではありません。ブッシュ政権の時に起こっていました。バラク・オバマは移民改革を試みましたが、議会は許可しませんでした。だから、人々は苦しみの網に巻き込まれ、砂漠で死にました。彼らは信じられないほど勇敢で機知に富んでいます。ある大企業のC.E.O.がかつて私に言いました。私が「雇用を考える時何を求めますか?」と聞いた時です「多くの逆境に対処している人を探しています。彼らは通常、良いビジネスマンになるからです」。私は思います、国境を越えてやって来るすべての移民を雇うべきです。

Q:ツーソンからサンフランシスコに引っ越すことにしたのはなぜですか?

私の子供たちは学校で聞いた同性愛嫌悪の言葉を繰り返しながら帰宅していました。他にも「教会に行かないと地獄に落ちる」なんてことも聞かされていました。そんなことを聞く必要はないでしょう。だから私はサンフランシスコに戻りました。学校まで歩いたり、市場まで歩いたりすることができるコミュニティがどのようなものであるかを彼らに感じてもらいたかったのです。都市村を経験して欲しかった。ツーソンでは彼らを学校に連れて行くために車を45分間運転していました、そして暑い車で45分かけて帰ってきます。彼らのためにそんな人生は望んでいませんでした。

Q:かっての国境を知っているあなたは、本当に嘆き悲しんでいるのですね。

人々は、メキシコ人がいて、アメリカ人がいて、それからメキシコ系アメリカ人がいることに気が付きません。それらは3つの異なる文化です。そして、それらはすべて互いに影響しあっています。そしてそれらはすべての私たちの文化に深く影響しています。ロイ・ロジャースが着るカウボーイスーツ、ヨーク・シャツとパールボタン、ベルボトム・フロンティア・パンツ、カウボーイ・ハット—それらはすべてメキシコ人のものです。輸入したのです。ブリトーとタコスを食べ、メキシコの音楽に大きく影響されています。文化は常に国境を行き来しています。

Q:メキシコとアメリカのハイブリッド文化で育ったことは、あなたをどのようなミュージシャンに育てましたか?

ラジオではメキシコの音楽をたくさん聴きました、そして父はメキシコの伝統音楽の本当に素晴らしいコレクションを持っていました。アメリカのポップ・ミュージックを歌うのは大変でした、ロックン・ロールは黒い教会のリズムに基づいていて、子供の頃には馴染みがありませんでした。私は聞いたものしか歌えません。私が聞いていたのは、メキシコ音楽、ビリー・ホリディ、そして弟の歌うボーイ・ソプラノでした。

Q:60年代にフォークロックに惹かれたきっかけは何ですか?

ピーター、ポール、メアリーのようなポピュラーなフォークミュージックが大好きでした。カーター・ファミリーのような本物のトラデショナルも大好きでした。ボブ・ディランも大好きでした。そして、できそうなことをコピーしようとしました。バーズがフォーク・ロックを演っているのを聞いたとき、私のやりたいのはこれだと思いました。

Q:1967年にストーン・ポニーズと「Different Drum」をレコーディングしたきっかけは?



グリーンブライア・ボーイズ(Greenbriar Boys)のレコードで見つけた曲ですが、強力な歌だと思いました。大好きでした。私たちは一種のシャッフルとして作りましたがギターとマンドリンを演奏する人たちとの相性はあまり良くありませんでした。でもレコード会社はこの歌が強いものと気づいていたので、私を呼び戻し、彼らのミュージシャンとアレンジで録音しなおしました。かなりショックでした。私はそんなアレンジで歌うとは思ってもみませんでした。でもヒットしました。

Q:ラジオで初めて聞いた時のことを覚えていますか?

えぇ。キャピトル・レコードでの会議に行く途中でした、古いダッジだったかな、後部座席にギターを詰め込んでぎゅうぎゅうで。エンジンがフリーズして、車は恐ろしい金属音をたてていました。半ブロック先のガソリン・スタンドまで車を押していかなければなりませんでした。ガソリン・スタンドの男は車を見て、二度と走らないよと言いました。私たちは、「車なしのロサンゼルスで何ができるの?」とぼやきました。ガレージの後ろでラジオが流れていて「Different Drum」のイントロが聞こえてきました。どこのラジオ局なのか聞くとKRLAでした、ロスのラジオ局でかかっていたので、ヒットしていることがわかりました。

Q:ウェスト・ハリウッドのトルバドールの思い出は?

たむろしていました。演奏している地元の歌手たちや、ホイト・アクストンやオスカー・ブラウン・Jr.、オデッタのような人たちを聞きに行きました。当時はまだ誰も特別な存在ではありませんでした。みんな野心的なミュージシャンでしたけど。ディラーズがいた。バーズもたむろしていました。そして、ジョニ・ミッチェルやジェームス・テイラーのような人々が出てきました。キャロル・キングもそこで演奏していました。ジョニ・ミッチェルが2週間演りました。毎晩見たはずです。

Q:あなたの本の中で、あなたはそこにジャニス・ジョプリンと一緒にいてステージで何を着るかを考えていたことに言及しています。

ああ、何を着たら良いかわからなかったの。リーバイスとTシャツ、セーター、カウボーイブーツかスニーカーを着て育ったから。家を出た時もそれ、結局それだけ。夏になると、リーバイスの足を切り落とし、リーバイスのショーツ。カブ・スカウトの衣装を手に入れて、私は本当に変わりました。

Q:あなたとジャニス・ジョプリンはどうやって適応したらよいか理解できなかったと言ってますね、母性的な女性になるのかそれとも違うのか分からなかったと。

料理をし、縫い、刺しゅうをするかどうかなんてわかりませんでした。女性の役割が再定義されていました。やり方は知っていて母性を持ったヒッピーの女の子もたくさんいました。

Q:1977年のインタビューが収録されたドキュメンタリー・クリップがあります。そこで、あなたはロックン・ロール・スターがいかに疎外されていて、甘やかし放題のマネージャーに囲まれていることが、ドラッグの問題に巻き込まれていく理由だと言っています。

彼らは孤独を感じてドラッグに溺れていきます。スターは孤独です。ミュージシャンになろうとしている人が周りにはたくさんいました。幾人かは選ばれましたが、他の人はだめでした、そのことで選ばれなかった人々との関係は難しくなります。時には彼らは憤慨して、そのことであなたは不快感を感じます。エミルー・ハリスが歌っているように「空のかけらが隣りの人の庭に落ちてきたけど、あなたの所には落ちなかった」のです。賞賛は人々を分断します。そして、ある人々の脳の化学作用は、中毒しやすいの。私は運が良かった。



Q:デビッド・ゲフェンは、あなたのダイエット薬に問題があったと言っています。

問題はありませんでした。必要なときに使っていただけ。好きじゃなかったけど。食べたらダイエット薬を飲む。喜びのために飲んでたわけじゃないの。

Q:今年は1969年の夏の多くの出来事が回顧されています。月面着陸とウッドストックとマンソンの殺人のアニヴァーサリーなどです。あの夏について何を思い出しますか?

ウッドストックが開催された時、ニューヨークにいました。ヘンリー・ディルツやクロスビー、スティルス&ナッシュなどからたくさんの連絡が来たことを覚えています。みんな泥の中にいると言ってました。そこを生き延びたことが良いことのように思え、そこに行かなかくて良かったと思いました。あふれるトイレ、食料不足、それは私が思う楽しい時じゃありません。私はいくつかのクラブ、たしかビター・エンドで演奏をしていました。
マンソン一家がやってきて、隣人のゲイリー・ヒンマンを殺しました。その夜、私は家にいなかったので幸運だったのですが、彼らは私を狙っていたのかもしれません。(マンソン・ファミリーの)リンダ・カサビアン、そしてレスリー・ヴァン・ハウテンも知っていました。私はその時トパンガキャニオンに住んでいました、彼女たちはヒッチハイクでやってきて、スパン・ランチ牧場のチャーリー(マンソン)について話していました。個人的に彼の事は知りませんでした。ある種の嫌な感じだとはわかっていました。で、その感じがどれほど悪かったのか知った時には、震えました。


Q:捕まる前はみんな本当に怖かったでしょうね。

えぇ、みんな驚きました。当時、ゲイリー・ヒンマンの殺人事件が他の殺人事件と関連しているかどうかはわかってませんでしたが、すぐにわかったので。

Q:当時の音楽は政治ととても絡み合っていました。最近のポピュラー音楽と比べてどう思いますか?音楽は政治の混乱に対処していますか?

ええ、思います。特にヒップホップは。でも、もう少し政治的な活動があってもいいのにとは思います。私は国会議事堂が燃え落ちるのを待っています、知ってた。ワイマール共和国に興味があって、文化が非常に短い時間で圧倒され、破壊される可能性があるってことを常に認識しています。ドイツの知的歴史のすべて-ゲーテとベートーベン-はナチスによって破壊されました。それは30年のスパンで起こっていてドイツ文化をひざまずかせたの。そしてそれは今ここでも起こっています。民主主義を打ち負かそうとする国際ファシズムの真の陰謀があります。彼らは自分自身のためにすべての力を望んでいて、今、ドナルド・トランプが現れたと思います。彼は独裁者になろうとしています。

Q:あなたの歴史をみると、あなたが歯に衣着せない物言いを選んでいることに気づきました。1983年のインタビューでは、オーストラリアのトークショーの司会者が、アパルトヘイトの下の南アフリカでの公演を行うことについて尋ねました。あなたは人種差別のあるところで公演をしないならば、アメリカ南部やボストンでも公演はできなくなるだろうということを述べました。また、ロナルド・レーガンとルパート・マードックと写真を撮っています。人気のあるパフォーマーとして、発言することは代償がありますか?

約15年、ステージ上で私は話しをしませんでした。だけど、音楽仲間たちと団結したことが原因となりました。そのうちの一つは原子力についてでした。多くの反原発(NONUKES)コンサートを行いました。ジェームス・テイラー、私、ジャクソン・ブラウン、ボニー・レイット—そして、それが私が賛同した特定の原因であったとしたら。できる限りのことを私は行ったけど、焦点は特に政治的だとは思ってません。誰かに尋ねられたら、自分の意見が言えてとても幸せだったと答えます。

Q:1995年のクリップも見つけました、ハワード・スターンの共同ホストであるロビン・クイバースと、スターンとの関係について「トゥナイト・ショー」で対決したものです。何をそんなに憤慨していたのか覚えていますか?



そう、まず第一に、ハワード・スターンはラジオで聞いたことがありませんでした。彼が誰なのか知りませんでした。テレビを持っていなかったから。ロビン・クイバースが誰なのかも知りませんでした。でも、それはちょうどその日のニュースがきっかけでした、彼が言ったこと、えーっと、ガール・シンガーのこと・・・。

Q:セレナでしょ?彼はこう言いました「スペイン人は音楽の嗜好が最悪です」そして彼女の音楽を流しました、銃声のBGMとともに。

セレナ、そう。それは私をとても怒らせました。メキシコ系アメリカ人として、彼が誰かの死んだ娘についてそのような恐ろしいことを言うなんて、私はとても不快な気分でした。ハワード・スターンが他人の不幸に言及することでキャリアを築いたことを知りませんでした。それに、ロビン・クイバースが何者なのかも知らなかった。何も知らなかったの。番組に行き「ねえ、本当に怒ってるんだけど」って。本当に怒ってたの。それが、どんなスズメバチの巣に足を踏み入れていたのか気づいてくませんでした。



Q:その後、彼から何かリアクションはありましたか?

そうそう。彼は私について恐ろしいことを言ってました。

Q:音楽活動に話を戻します、ドキュメンタリーで、元マネージャーのピーター・アッシャーは、コンサートで人々がひそひそ話をしているのを見ると、あなたはこんな風に言っていると想像してたそうですね、「彼女は私が聞いた中で最悪の歌手ね」と。あなたはどうしてそんなに不安だったのですか?

満足に歌えてるとは思ってませんでした。すべてを忘れて音楽に集中できるときは最高でした。でも、そこに辿り着くまでに長い時間がかかりました。聴衆の中に知り合い見つけたくありませんでした。本当言えば観客を見たくありませんでした。なぜやって来るのか理解できませんでした。テイラー・スウィフトのような歌手とは異なる関係性です。聴衆を抱きしめて、みんなが同じチームだっていう気分になることは健康的なことだと思います。1960年代には、我々と彼等と考えるよう勧められました。ヒッピーは同族全体という考えをスタートしました、そしてそれはヒッピーに対して誠実でした。でも、それは不健康でした。

Q:どうやって自己疑念を克服しましたか?

ひとつだけ、「深呼吸してそれから歌う」。音楽に集中している限り、私は大丈夫。

Q:ジェリーブラウンとの関係は、ドキュメンタリーと本で取り上げられていますが、ジム・キャリーやジョージ・ルーカスなど他の著名人との関係はありません。その理由は?

私は音楽について書いていました。彼らは私の音楽プロセスとは何の関係もないからです。

Q:彼と連絡を取り合っていますか?

えぇ。私たちは友達です。いつも友達でした。去年のクリスマスもやってきました。

Q:どんな話をしているの?

カリフォルニアの水のこと。彼は引退したら、木々やカリフォルニアのインディアンについて勉強したいと言いました。彼に私の本、「The Hidden Life of Trees」をあげました。カリフォルニアの水使用の新しい歴史は素晴らしいものです。「夢の土地」と呼ばれます。ジョン・マクフィー並みのの執筆といえます。執筆だけでも本当に価値があります。

Q:マスコミはいつもあなたが結婚したことがないという事実について大きな話題にしました。

結婚する必要はありませんでした。結婚する必要があるというのが​​分かりません。必要ならば、結婚していたでしょう。でも、私は結婚する必要はありませんでした。私には私の人生があったので。

Q:80年代生れの私が認めざるを得ないのは「マペット・ショー」であなたを発見したことです。カーミットと一緒に働いた時の事を教えてください。

私はカーミットに恋をしました、でもミス・ピギーがいたので問題が起こりました。彼は彼女の所有物でした。でも、私たちはそのショーで本当に楽しい時間を過ごしました。パペット使いには非常に創造的なものがあります。彼らは魅力的です、なぜなら彼らのすべての演技は、自分の体を通過させていないのですから。才能でいっぱいです。それを見るのが大好きでした。とても協力的な経験でした。私の物語と歌を手伝ってもらいました。

Q:物語への貢献ってどんなこと?

カーミットに抱いていた恋心のため、ミス・ピギーと私は対立し、それがちょっとした物語になりました。

Q:非常に手ごわいライバルでしたか。

そう。彼女は性悪だった!カーミットをトランクに閉じ込めたの。



Q:あなたは歌手ですがソングライターではないので、芸術的表現の多くは、楽曲の選択を通じてもたらされています。アンナとケイト・マッガリグルのタイトル曲を含む『ハート・ライク・ア・ホィール』の曲はどのように選びましたか?

まったくの不意打ちでした。ジェリー・ジェフ・ウォーカーと一緒にタクシーに乗っていた時に、彼が言いました、「僕はフィラデルフィア・フォーク・フェスティヴァルに出演した、そこで二人の女の子が歌っているのを聞いたんだ、二人は姉妹だったよ。本当にいい歌だったよ。君も聴くべきだ」そして最初の歌詞を歌い出しました。



心は車輪のようだと人は言う
曲がってしまえば 直せない
私の愛は沈没しかけた船
私の心は、海の真ん中の船の上

私が聞いた中で最も美しい歌詞でした。「その歌を送ってください」と私は言いました。オープン・リールが郵送されて来ました。ピアノとチェロだけで二人の少女が美しいハーモニーを歌っています。当時のマネージャーは、それはあまりにも感傷的すぎると言いました。絶対ヒットしないと言った人も。ラジオ向けのシングルだとは思いませんでしたが、私にとって重要な歌でした。自分のキャリアを通してずっと歌ってきましたから。




Q:そのアルバムからヒット曲が出たことに驚きましたか?

成功したことすべてが驚きでした、寄せ集めに思えていたからです。いろんな曲を試しましたが、必ずしも互いに関係があるものではありませんでした、でも、それらはただ表現したいという私にとっての本当の緊急感を表現していました。「ユー・ノー・グッド」は後から付け加えたものです。ショーを閉じるにはアップテンポの曲が必要で、ラジオで知っていた歌だったので。

Q:有名人になるための最大の課題は何でしたか?

他の人を観察する能力がないということ、みんながに観察されているのに。私はいつも頭を下げてなければなりませんでした。耐え難いことでした。今もそう感じています。そんな所にはいたくない。人間関係は大変でした、いつもバスに乗ってるみたいなものでしたから。

Q:1977年のインタビューで、あなたは言いました、「一般的に言って男性は私をひどく扱っていると思います。男女間の闘争という考え方は、私たちの文化の中に現実としてあります。メディアで、女はセックスを武器とするものとして作り上げられます、そして、男はそれに魅了され脅かされているとされ、できる限り激しく報復します」覚えていますか?

覚えてないわ!キャリア全体を見てもらえば、最も重要なのは、音楽を演奏したかどうかです。そうした騒ぎがエミールーで起こるのを見ました、ジョニ・ミッチェルでも起こりました。ジョニ・ミッチェルは皆を脅かしていましたから。彼女はもっと上手くプレイができました。もっと歌うことができました。もっと素晴らしくなれました。すべてを行うことができました。ある種の排外主義があった、それが真実。私がやっているようなことを業界内でやっている女の子はほとんどいませんでした、だからエミルー・ハリスと友情はとても重要なものでした。

Q:同時代の男性と比べ女性であるがゆえに大変だと思うことはありましたか?

そうね、化粧と髪のセットをしなきゃいけない。大変なの、一日2時間、あなたは本を読み、言語を学び、ギターを練習している。男はシャワーを浴びて古着を着るだけ。あと、ハイヒール。外反母趾だったのでハイヒールには苦しみました。ステージで履いていて、脱ぎ捨て、モニターの後ろに足を隠し、ステージを降りる時に履きなおしていました

Q:ロックンロールの名声がピークの時にあなたはギルバートとサリバンの歌劇を選びました。どこに惹かれたのですか?

私の姉、彼女が11歳で私が6歳の時、中学校で「軍艦ピナフォナ」を歌っていました。母はピアノ版のギルバートとサリバンのオペレッタの楽譜を持っていてどういうわけか私は歌を学びました。姉が練習しているのを聞いていたんです。だから、「ペンザンスの海賊」と聞いたとき、ギルバートとサリバンであることは知っていました。



Q:ロックスターであることにうんざりしていた?

ある意味でとてもうんざりしていました。音楽のために作られたとは思えないホールで大声で歌っていましたから。プロセニアム・ステージというアイデアが好きでした。プロセニアムは観客の注意を集中させることに関係があると思います。劇場は、観客の注意を集中し、夢を見ることができるように作られた仕掛けです。ある種の催眠術をかけられ、ステージ上の人が観客の主役となり、観客の物語を語ってくれます。自分が気付いていなかった感情を見つけることができます。

Q:80年代を通して、あなたは野心的にジャンルについての実験を行いました、プッチーニからグレートアメリカン・ソングブック、メキシコの歌謡に至るまで。レコード・レーベルは驚いたでしょうね、あなたが 「メキシコのフォーク・ミュージックのアルバムを作りたい」と言った時には。

まあ、その前に、アメリカのスタンダードをやりたかったのですが、彼らには「そんなの、売れないよ」と言われました。実際には、ジョー・スミス(エレクトラ/アサイラムの会長)は、私の自宅にまでやって来て、あきらめるように懇願しました。 彼は言いました、「キャリアを捨てるのか」と。

Q:ファンも反対してるんじゃないかと心配しませんでしたか?

レコード(『ホワッツ・ニュー』)を作り、ラジオ・シティ・ミュージック・ホールでお披露目をするまでは心配していませんでした。突然、観客が現れないかもしれないことに気づきました。彼らはそれを好きじゃないかもしれません。隣のカーネギー・デリにマッツォ・ボール・スープを注文していましたが、動揺し、ステージに上がったときにはほとんど我慢できなくなっていました。私は舞台袖でネルソン・リドルと手をつないでいました—彼も緊張していました。「僕を失望させないでくれ、ベイビー」と彼が言い「頑張るわ」と答えました。彼は最高のアレンジャーで、ローズマリー・クルーニー、フランク・シナトラ、エラ・フィッツジェラルドとコラボしました。私のために美しい楽譜をを書いてくれました。 彼に会えて本当にラッキーでした。その夜、アパートに戻り、微笑みました。なぜなら、私たちは「アメリカン・スタンダードの夜」を見逃してしまったからです。

Q:レディー・ガガがトニー・ベネットとスタンダード・アルバムを録音したのを見たとき、彼女はあなたに借りがあると思いました。

いえ、私に負う所は何もありません。自分でそれを作るのに十分な才能を持っていますから。でも、それまで、女性ポップ・アーティストによるスタンダードへの回帰の試みは成功していませんでした。ジョーン・バエズはスペイン語で録音しようとしましたが、うまくいきませんでした。観客が何を期待しているかにかかっています。メキシコの歌を作ったときには、まったく新しい観客を呼び込みました。 同じ会場で演っても、祖母と孫くらい違いました。みんな子供を連れてきていました。スタンダードの聴衆はもっと年配で、50代から60代でした。当時の私には信じられないほどのお歳でした。

Q:ジョージルーカスのレコーディングスタジオ、スカイウォーカーサウンドで「カンシオーネス・デ・ミ・パードレCanciones de Mi Padre」を録音したというのは本当ですか?

セカンド・アルバム「マス・カンシオーネス Mas Canciones」の方。スタジオに大きなオーケストラ・ホールを持っているので、選びました。壁の木製パネルで調整できる優れた音響効果がありました。いいムードでした。マリアッチはフォーク・オーケストラなので、良い音がしました。なかなか無いのです。




Q:エミールー・ハリスとドリー・パートンともコラボレーションしました。彼らとは連絡を取り合っていますか?

エミルーはいつも「Hardly Strictly Bluegrass」に出演します、ここサンフランシスコのブルーグラス・フェスティバルです。だから彼女には年に一度くらい会っています。彼女は私の家にやって来ます。以前は一緒に歌っていました。洗濯物を持ってきて、話に花を咲かせます。ツアーでは洗濯物が余計に出るでしょ。

Q:ドリーとも?

エミルーと私は最近彼女に賞を贈りました、それまでしばらく彼女に会っていませんでした。 彼女は私の障害のほどに気づいていなかったと思います。彼女は私に腕を回してきたので私は言ったの「ドリー、気をつけて! あなた私をKOしちゃうわ!」。彼女は冗談だと思ってたみたい。 倒れそうになって私は表彰台をつかみ、倒してしまいました。それはガラスでできていて、壊れました。「おめでとう、これがあなたの賞よ、粉々!家に持ち帰ることができるわ」。



Q:魔法の杖を振って、もう1枚のアルバムを録音できるとしたら、どんなものにしたい?

それはいろんなものがミックスされたものになるでしょう。 「知らない私がいるのI Still Have That Other Girl」という歌があるのよ。







https://www.newyorker.com/culture/the-new-yorker-interview/linda-ronstadt-has-found-another-voice?fbclid=IwAR2X9k9qITHzFQqlb0yzHk2JCMC3yTOI7EDGpg7ldh8pbGt0e-LR9e0R3Pw

ものみの塔からずっと ALL ALONG THE WATCHTOWER

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まもなく発売のディランの新しいブートレグ・シリーズ『Travelin’ Thru, 1967 – 1969: The Bootleg Series Vol. 15』の英文記事をGoogle翻訳で訳していると「ものみの塔にそって」という訳語がたびたび出てきます。「ものみの塔」ってなんだと一瞬考えて、あぁそうか「All Along The Watchtower(邦題「見張り塔からずっと」)」の訳かと気づきました。ネット辞書の英辞郎では「watchtower」は「望楼、物見やぐら、観点」となっていて、「watch tower」だと「見張り塔」となるようです。



日曜の午後なんかに家でくつろいでいるとチャイムがピンポーンとなって、誰やねんとドアをあけるとおばちゃんの二人組かなんかが「あなたは神を信じますか?」とかいきなりの重たい言葉を投げかけてくる。「すんまへん、うち浄土真宗ですねん」とスルーしようとすると「では、これだけでも」とかいって小冊子を手渡され、何やコレと表紙をみると「ものみの塔」。



「ものみの塔」のWIKIには以下のような説明があります。
>「ものみの塔」は新世界訳聖書のイザヤ21章8節に由来している。現在の正式名称は『エホバの王国を告げ知らせる ものみの塔 (The Watchtower Announcing Jehovah's Kingdom)』と言う。

またボブ・ディランの「見張り塔からずっと」のWIKIには
>「見張り塔からずっと」の歌詞は、イザヤ書の第21章、5節から9節までの歌詞に似ていると指摘した評論家もいます。

ということで出所は一緒だったんですね。もちろんボブ・ディランは一時期を除きユダヤ教の信者なのでエホバの証人とは無関係かとは思いますが、アメリカ人であれば「All Along The Watchtower」というタイトルを見ればキリスト教との関連、中にはエホバの証人との関連性を思う人も多いのではないでしょうか。この辺は日本人には分かりづらいところです。

「ものみの塔」が出てきたついでにというわけではありませんがエホバの証人にはもう一つ一般向けの機関誌「目ざめよ!」というものがあります。



「目ざめよ!」のアメリカでの誌名は「AWAKE!」です。この「AWAKE!」がジャケットに登場するアルバムがあります。ご覧になった方も多いのではないかと思いますが、雑誌名までご記憶されていない方がほとんどではないかと思います。




収録曲の「ブラジル」がTVCMに使われたりと、日本ではエイモス・ギャレットの素晴らしいギターが聴けるルーツ、オールド・タイム系の名盤としてひょっとしたら本国以上に愛されているんじゃないかと思えるジェフ&マリア・マルダーの『ポッテリー・パイ』です。。ベットに半身を横たえているマリア・マルダーが読んでいる雑誌が「AWAKE!」です。

ということで、アメリカ人はこのアルバムを手にしてジャケットを見たときに真っ先に思うのは「この二人はエホバの証人だったのか」ということじゃないかと思います。すると、そこで内容についても聴く前から何らかのバイアスがかかっちゃうんじゃないのかなと思ってしまいます。日本に置き換えると例えば歌手の書斎を再現したジャケットの本棚に「人間革命」が並んでいるみたいなことと置き換えれば、日本社会では、まずありえないジャケットなのかなと思います。

ところでさきのディランも70年代の一時期、ユダヤ教からいきなりキリスト教福音派へと信仰の対象を変えたことがあります。その際に後に「キリスト教三部作」と呼ばれるアルバムを発表するのですが、『スロー・トレイン・カミング』と『セイヴド』の2枚のジャケットはあからさまに宗教観を出したものになっていました。

 

ということでアメリカでは自らの宗教観を表明することって当り前のことだということなんでしょうね。そもそもゴスペルとかクリスチャン・ミュージックみたいなジャンルがロックやカントリーといったジャンルと横並びである国ですからね。僕がこんなこと書いてること自体、アメリカ人からしたら何しょーもないこと書いとんねんという感じなんでしょね(笑)






いつでも恋はきらめく謎ね 私は 私は 燃えるルビイ 追悼 和田誠さん

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和田誠さんがお亡くなりになりました。R.I.P.

和田誠さんというと思いだすのが小泉今日子の「快盗ルビイ」。和田さんが脚本/監督を務め小泉が主役の映画「快盗ルビイ」の主題歌で、作曲は大瀧詠一師匠、そして作詞は和田誠さんでした。

小泉の歌う主題歌の作曲を大瀧さんに依頼したのは小泉の担当ディレクターだったビクターの田村充義氏でした。

>田村は学生時代から〈はっぴいえんど〉のファンで小泉今日子の担当でした。「渚のはいから人魚」は「はいからはくち」から、「タイフーン ナイト(颱風騎士)」は「颱風」からのイタダキだとの話でした。(大瀧詠一「SONG BOOK2」ライナーより)

大瀧ファンであった田村にとって自分が担当する小泉今日子に大瀧作の新曲を歌わせるというのが悲願であったようでかなり強引なお願いであったようでした。

>あまりにも僕がしつこく言うので「まあ、いいや」と思われたのかもしれません。大瀧さんは映画好きだったですしね。どう思われて僕の依頼を承諾されたのかは、もうわからないんですが」(田村充義「コイズミクロニクル」ライナーより)

田村とは「ゴーゴー・ナイアガラ」時代からの知り合いであり、小泉今日子も面白いと思っていた大瀧師匠ですが、依頼を受けた理由としては和田誠さんが絡んでいたというのが大きかったようです。

>和田誠さんということで、映画を見るようになったのも小林信彦さんとか和田誠さんとか、そういう本を読んで古い映画とかを見て、それで理解がいっそう深まったというかね。だからそういうことがあるんで、そういうお話をいただいて、一度そういう話であればね、これはまたとない機会だと思って。(大瀧詠一 1989年新春放談より)

ということで悲願の作曲をお願いできた田村ディレクターですが、作詞に関しては大瀧さんに一任したようです。

>ビクター製作の同名の映画主題歌でしたが、監督は和田誠さんでした。作詞は映画制作関係者側には『探偵物語』の関係者も多かったので〈松本隆〉になるものだと思っていたようですが、私は和田誠さんご本人が面白いのではないかと考え依頼しました。(大瀧詠一「SONG BOOK2」ライナーより)

和田さんの映画についてのウィットに富む文章に影響されていた大瀧さんですから、当然の選択でしょうね。もちろん脚本/監督ということで映画の内容についても一番分かっているし、自身で作曲もこなすなど音楽に対する造詣も深いことは知っていたと思われます。

>最初は〈意外〉に受け取られたようですが〈脚韻〉を踏むなどの和田さんならではの詞となりました。(大瀧詠一「SONG BOOK2」ライナーより)

大瀧さんも脚韻に触れているように、日本語の歌詞では難しいが、英語の歌詞では当たり前の脚韻を「どうや」と言わんばかりに20カ所以上も使っていたのです。

著作権があるので全ての歌詞は引用しませんが、こんな感じの歌詞が続きます。

>好きよ金銀サンゴ
憧れてたタンゴ
欲しいのはサファイア
それとも素敵なキス・オブ・ファイア



歌詞を見た大瀧さんも「どうや」と言われたら「なんや」と思ったのか、ストリングスとホーンのアレンジに服部克久氏を招き、今までにも無いようなゴージャスなナイアガラ・サウンドでお返しをします。上の歌詞の「キス・オブ・ファイア」の部分では和田さんの謎かけに答えるようにジョージア・ギブスの「キス・オブ・ファイア」のメロディを引用するなど、お互いのらしさが出ていてにんまりしてしまいます。



ところで、この「快盗ルビイ」のメロディは何かに似てるなぁと思っていたのですが、シェリー・フェブレーの代名詞ともいうべき「ジョニー・エンジェル」の続編「ジョニー・ラヴズ・ミー」に似ているなぁと。



で、「ジョニー・ラヴズ・ミー」はアルバム『ティ-ンエイジ・トライアングル』に「ジョニー・エンジェル」ともども収録されています。ご存知のように当時大人気だったアイドル3人の楽曲をコンパイルしたこのアルバムをヒントに大瀧は山下達郎、伊藤銀次とともに『ナイアガラ・トライアングル』を発表します。

っていうことで「快盗ルビイ」は大瀧-和田-小泉のトライアングル・シングルだったんじゃないかと・・・・♬ルビィ・ラヴズ・ミー♬





くだらん、俺は18か月おきに髪の毛を切ってるんだ!

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ジョン・レノンのファンの方であれば『アビーロード』収録の「カム・トゥゲザー」がチャック・ベリーの「ユー・キャント・キャッチ・ミー」の盗作であるという訴えがあったことはご存知かと。

訴えを起こしたのは当時ベリーの版権を所有していたマフィアともつながりのあるモーリス・レヴィでした。結局レヴィと作者であるジョン・レノン(クレジットは勿論レノン=マッカートニー)の間で和解が成立しレノンは次のアルバムでレヴィの出版社ビッグ・セヴンが管理する「You Ca n't Catch Me」「Angel Baby」そして「Ya Ya」をカバーして収録することを約束します。



当時、ヨーコから三下り半をたたきつけられLAで「失われた週末」を過ごしていたレノンは、独りだし自分の好きなことやるかとばかりに上記の3曲だけでなく、自分のルーツであるR&R/オールデイズを集めたアルバムを作ることを思い付きR&Rとくればプロデューサーはこの人とフィル・スペクターを招きセッションを開始します。当初は順調だったセッションはスペクターがスタジオで拳銃を発砲したりマスター・テープをスタジオから盗み出すといった奇行を繰り返したために頓挫してしまいます。



その後、レノンはNYのスタジオでオリジナル曲のセッションを行い『心の壁、愛の橋』として発表します。収録曲の中にはお遊びのような「Ya Ya」も含まれていました。次のアルバムでは自分が権利を持つ3曲がカバーされているという約束を反故にされたレヴィは勿論かんかんになります。

レヴィを恐れたジョンはレヴィと会合を開き、スペクターの奇行のせいで本来は「次に」になるはずだったアルバム(『ロックン・ロール』)は中断しているが、必ず発売することを宣言し、懐柔策としてそのアルバムをTV通販する権利をレヴィに与えると口約束をします。(レノンはTVを使ったプロモーションの有効性に興味があったようです)

スペクターが盗んだテープも取り戻し、足りない楽曲を『心の壁 愛の橋』セッションのメンバーを再招集し74年の10月中には録音を完了し、11月にはミキシング作業を行いますが、作業が順調に行われている証としてラフ・ミックスの収録予定曲などをテープに収めレヴィに送ります。レノンとの口約束があったレヴィはあろうことかこのテープを『ルーツ』というタイトルのレコードにして75年の1月にTV通販で販売してしまったのでした。



これを知ったレノンとキャピトルは大慌てで販売差し止めを行いますが、市場にはすでに1270枚が出回ったとされ、後にレノンのコレクターズ・アイテムとして高額なレコードとなります。キャピトルは4月発売予定だったアルバムを2月半ばに『ロックン・ロール』というタイトルで緊急発売します。しかし売上は芳しくなくレノンとキャピトルはレヴィの『ルーツ』によって販売枚数に影響が出たとして訴え、最終的に訴えが認められレノンとキャピトル(EMI)側が勝訴しています。

この裁判でのレノンとキャピトルの訴えは3つありました。一つ目は『ルーツ』の売上そのものが『ロックン・ロール』の売上に直接影響を与えた。二つ目はTV通販で安価な価格設定の『ザ・ルーツ』に対抗するため『ロックン・ロール』は通常のアルバムより1ドル安い価格設定になっており、本来受け取る販売金額より1ドル×枚数分の損害があった。三つ目は『ルーツ』収録の音源が完成版より劣るラフ・ミックスであり、ジャケットもチープでジョン・レノンというスターの名声を大きく損なったというものでした。

判決は三つともジョンとキャピトルの主張が認められ賠償金を得ています。ここで面白かったのが三つ目のレノンの名声を損ねたという不調に対するレヴィ側の反論です。曰くジョン・レノンはすでに『トゥー・ヴァージンズ』のヌードおよび『サムタイム・イン・NYC』のニクソンと毛沢東の写真などで自ら名声を損なっているため、『ルーツ』の写真でさらに名声が損なわれることはないというものです。

 

思わず納得してしまいました(笑)。

ちなみに、この名声云々が争われているとき、レノンが髪を切って法廷に現れたことにレヴィ側の弁護士から「『ルーツ』のカバー写真よりさっぱりしたイメージに見せるために髪を切りましたね」と尋ねられたレノンは「くだらん!俺は18か月おきに髪を切ってるんだ」と叫んだんだとか。



「これは時間との闘いです」ニール・ヤング2020年に未発表音源をアーカイヴ化

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ローリングストーン誌の記事より。ニール・ヤングが今までに録音したが未発表のままになっている音源の大部分ついて自身のアーカイヴ・サイト=NYAで新たなサービスとして2020年中に公開を予定しているというニュースです。NYAで限定公開される音源にはファンであればご存知の『ホームグロウン』『クローム・ドリームス』といったお蔵入りした幻のアルバムや76年の武道館公演といったライヴ音源が含まれるようです。

ニール・ヤングは今回の公開についてあるファンからの「叔父のエディが高齢で今後発売されるアーカイヴのすべてを聴けないだろう」という投稿を読んで決めたとしていますが、おそらくはファン・レターとは関係なくずっと考えていたことについて自身のタイム・リミットが迫って来ていることをあらためて考えて急いだということなのかなと考えます。それが最後の「これは時間との闘いです」という言葉にあらわされていると思います。なんとも複雑な気持ちになるニュースですが、死後に自分の意思に反した「墓堀り」が行われているのも実際目にすることも多いので、ニールの決意も分かります。一枚でも多くの新譜も聴きたいという思いもありますが・・・・。

ニール・ヤングはあなたが亡くなる前に彼の未発表の音楽を聞いてほしい

「これは時間との闘いです」とヤングは、2020年に膨大な未発表アルバムを彼のファンに対しリリースするという野心的な計画について語っています。
by Andy Greene




ファンは最近、76歳のエディおじさんについてニールヤングに連絡しました。エディはニール・ヤングのすべてのアーカイブのリリースを聞けるほど長くは生きられないだろうと懸念しているといいます。「本当に悩ましいね」とヤングは彼のアーカイブ・サイト(NYA)に書きこみました。そして、アーカイブの有料購読者に対し、一般公開のかなり前に未公開資料の巨大な所蔵物をリリースする計画の可能性を説明しました。

「2020年にNYAですべてのアルバムをリリースすることについて私たちのチームと話してきました。当初、これらのアルバムはCDやレコードとしてはリリースされません、最終的には可能性がありますが、それまではNYAで限定公開します、かなりのヴォリュームになります」

現在のシステムでは、『タスカルーサ』『ソング・フォー・ジュディ』『ロキシー:トゥナイト・ザ・ナイト・ライヴ』など年に数回、ニュー・アルバムの邪魔にならないようにアーカイヴ盤をリリースしています。それらはストリーミング・サービスやフィジカルのアルバムとしてリリースされると同時に、NYAのWebサイトにアップされています。

ヤングがここで言及している未発表の録音には、1975年の『Homegrown』、1976年の『Chrome Dreams』、1977年の『Oceanside-Countryside』、1982年の『Island in the Sun』、2000年の『Toast』などの多数のアルバムが含まれています。1976年の『Odeon Budokan』、1978年の『Boarding House』、1986年の『Live in a Rusted Out Garage』そして2012年の『Alchemy』など、いくつかのライブアルバムもあります。また、彼がアーリー・デイズと呼んでいるダニー・ウィッテン時代のクレイジー・ホースの録音のコレクションもあります。(上記のリストはおそらく、ほんの一部に過ぎません。彼はすべてのコンサート、サウンド・チェック、スタジオ・セッションを記録しているからです。)



ニールヤングアーカイブへのアクセスは現在、月額1.99ドル(217円)または年額19.99ドル(2179円)です。彼の大きな計画を遂行すれば、それは変わるでしょう。「これによって、NYAに新しい料金体系が追加され、オンデマンド・ビデオ、映画、レコードに独占コンテンツとして「エディおじさんコース(名称未定)」が含まれる可能性があります。このコースのサブスクリプション価格は高くなります。これについてはさらに検討の上で説明します。」

さらにヤングは続けます、「これらのNYA限定レコードと映画は、完成品のカバーとアートを含むハード・グッズとデジタル・ファイルとして一般公開されますが、多くの人はShakey PicturesまたはNYA Recordsから一般向けに発売されるずっと前から、NYAで利用することが可能になります。」

潜在的な問題の1つとして、NYAで利用可能になった資料が一般に流出する可能性があります。「もちろん、NYAに限定されている間は、インターネットに流出しないようにします。これを解決できれば、2020年にそれらの多くをリリースします。以上が私たちが考えていることです。決定次第お知らせします・・・これは時間との闘いです。」

RS誌の元記事はコチラ→https://www.rollingstone.com/music/music-news/neil-young-archives-2020-910631/

素晴らしい演奏者はたくさんいるけど、ニールみたいな声は1つしかない by Dトランプ

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2008年のローリングストーン誌の記事だそうです。トランプがニール・ヤングの大ファンであるというのは本当のことだったんですね。しかも、なかなかに的を射たニール・ヤング評になっています。

今やニール・ヤングにとってトランプは「今そこにある危機」なのですが、11年前にこうなるとは誰も想像すらできなかったのでしょうね。

>ニール・ヤングの最大のファンであるドナルド・トランプは語る、「彼の声は忘れられない」。



>2年前、マディソンスクエアガーデンの2列目で、パティ・スミス、サルマン・ラシュディ、ドナルド・トランプという奇妙なトリオがクロスビー、スティルス、ナッシュ&ヤングを楽しんでいることに気付きました。昨年、ドナルドはユナイテッド・パレス・シアターでのヤングのソロ公演の最前列に座り、月曜日には、再びマジソン・スクエア・ガーデンでニールを楽しんでいました。昨日、トランプに電話しました。

「彼は何か特別なものを持っているよ」とトランプは言います。「彼の音楽を何年も聴いているし、以前、彼に会ったこともある。数年前のマディソン・スクエア・ガーデンでのボブ・ディランを称えるコンサート(ボブズ・フェスト 92/10/16)にも行ったけど、ニールは最高で拍手喝さいを浴びていたよ。他にいないよ。彼は長年にわたって私のカジノのためにパフォーマンスをしてくれていた。彼に会ったことがあるけど、素晴らしい男だよ。」

トランプにはお気に入りのニール・ヤングの曲やアルバムがあるのだろうか?「すべてお気に入りだ。古いものが好きだよ、どんな歌手でもそんなもんじゃないか、有名なリッキーネルソンの「ガーデン・パーティー」みたいなものさ。彼のすべての歌が好きなんだよ、分かるだろ、「ロックン・ロール」さ、最高だよ。声も完璧で忘れられない。 彼は63歳だけど、なにも変わってないと思うな。声は演奏よりも重要だよ、
素晴らしいプレイヤーはたくさんいるけど、ニールみたいな声は1つしかない。「それ」がどんなものであれ、 彼はたしかに持ってるんだよ。」

ハッピー・クリスマス!戦争は終わった!

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今日はちょっと複雑な気持ちになった事を。



まずはこの歌をお聴きください。



セリーヌ・ディオンによるジョン・レノンとヨーコ・オノの「ハッピー・クリスマス」のカバーです。いわゆる透明感のある歌声でクリスマスの白い世界にぴったり、素晴らしいカバーと思われる方は多いことでしょう。

1998年のセリーヌのクリスマス・アルバム『These Are Special Times』に収録時は「Happy Xmas (War Is Over)」というオリジナル通りのタイトルでクレジットされています。その後、どういう経緯かは分かりませんが、セリーヌのこのカバーは「So This Is Christmas」というタイトルで親しまれていったようでYOUTUBEなどで検索すると「Happy Xmas (War Is Over)」より「So This Is Christmas」でアップされている場合が多いように感じます。

このカバー以前にもクリスマスのコンピなどで聞いていたことがあったと思います。その時は特に気にしていなかったのですが、今回、参加しているフェイスブックのグループでアップされている方がいて、そこで初めて「So This Is Christmas」という別称があることを知り、あらためて聴き直しました。そしてコーラス部分まで来たときに、ひょっとして「Happy Xmas (War Is Over)」から「So This Is Christmas」になったのはコレが要因だったんじゃないかということに今更ながら気付きました。

お気づきじゃない方はジョンとヨーコのオリジナルをお聴きになってから、もう一度セリーヌのバージョンを、コーラスに注意して聴いてみてください。



ジョンとヨーコのオリジナルの歌詞をネットで検索するとコーラスが被る部分は以下のように掲載されている場合が多いようです。

And so this is Christmas (War is over)
For weak and for strong (If you want it)
For rich and the poor ones (War is over)
The road is so long (Now)
And so happy Christmas (War is over)
For black and for white (If you want it)
For yellow and red ones (War is over)
Let's stop all the fight (Now)


セリーヌのバージョンを聴くとこの部分については最初の4行はコーラスはほぼ聞こえず、後半の4行については、ジョンとヨーコの元歌を知っていれば「War is over」「If you want it」「Now」と歌われているのを脳内で再生できますが、この歌を初めて聴く人であれば何を歌っているのか分からないようなミックスになっています。

歌詞サイトを見ても( )内のコーラスの歌詞は掲載されていません。

( )内のコーラスが無くても歌詞の中には「For rich and the poor ones」であったり、「For black and for white /For yellow and red ones/Let's stop all the fight 」といった歌詞があって、たんなるハッピーなクリスマス讃歌ではないことは感じられますが、それでも普通のクリスマス・ソングになっちゃっている感じは否めません。

これ、ジョン・レノンのファンであればちょっと複雑な気分になってしまうのではないでしょうか?

ご存知のようにジョンとヨーコはベトナム戦争に抗議し1969年の3月に「平和のためのベッドイン」を行い、以降、反戦平和活動を積極的に行っていきます。そして、その運動のテーマと言うべきフレーズとして69年12月1日「WAR IS OVER」を発表します。



その後、様々な反戦平和のキャンペーンを行い、その総括ともいうべき意味合いで72年12月1日に発表されたのが「Happy Xmas (War Is Over)」でした。そういった背景があるので、この歌のキモは子供たちのコーラスで歌われる( )内の「War is over」「If you want it」「Now」なんですよね。

だから、その大切な部分をオミットしてしまったセリーヌのバージョンには「うーん」となってしまうのです。



振り返って考えると、70年代前半にジョン・レノンのようなロックの人がクリスマス・ソングをシングルで発表するのは非常に希だったように思います。エスタブリッシュな歌手、プレスリーだったりビーチ・ボーイズのような茶の間で人気のあるような人たちがクリスマス・パーティのBGMに向けのアルバムを作るというポピュラー音楽の伝統みたいなものはありましたが、クリスマス・アルバムという前提無し(モータウン・クリスマスのようなオムニバス含め)でシングルが発表されるというのはあまり無かったように思われます。

ちなみに「ハッピー・クリスマス」がアルバムに収録されたのは75年10月のベスト・アルバム『シェイブド・フィッシュ』でした。これも考えると、当時(今もそんなにないかな)クリスマス・ソングをベスト・アルバムに入れるというのはほとんどなかった気がするので、これまた異例な感じがします。

ジョンとヨーコからすれば、「WAR IS OVER」という思いの込められた「ハッピー・クリスマス」はホリデイ・シーズンだけでなくて、出来れば毎日でも聴いてほしいという願いがあったのではと思ってしまいます。

だから、セリーヌのはなぁ・・・・。





「金こそはすべて」 裏ビートルズ、ザ・ラトルズの物語

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大晦日の朝、いつものようにスマホで音楽ニュースをチェックすると「ニール・イネス亡くなる、75歳」の報せに愕然となりました。「美しく、優しく、穏やかな魂を失いました。その音楽と歌はみんなの心に触れ、その知性と真理の探求は私たちすべてに影響を与えました」というイネス家の遺族による声明を読み、あらためてその「知性」あふれる音楽を僕たちに届けてくれたイネスに感謝し安らかな眠りを祈りたいと思います。

追悼の意味を込めて、10年ほど前に書いたラトルズの『オール・ユー・ニード・イズ・キャッシュ』についての拙文を修正し再掲載いたします。ここに書いたラトルズの物語はニール・イネスとその仲間たちによるパラレル・ワールドの物語です。



>ふとしたことからバーモント州のことを調べていたらラトランドという市があることを発見しました。ラトランドといえばラトルズの出身地、そうかラトルズはバーモント州出身か、と一瞬思った後で、いやいやラトルズといえばビートルズと双璧をなすブリティッシュ・バンドだからアメリカ出身のわけはないなぁと。改めて調べたらイングランド最小のラトランド郡こそがラトルズの故郷でした。大きな間違いをするところでした。

それがきっかけとなって久々にラトルズのCDを引っ張り出してきて聴きなおすこととなりました。ラトルズRUTLESと聞いてもピンとこない方も多いかもしれませんね。僕も70年代後半に彼らのアルバム『ザ・ラトルズ』が国内盤で発売されるまでその存在を知りませんでした。正直言って最初聴いた時には”ビートルズの未発表曲?”と思ったくらいにビートルズに似ています。ビートルズと同じ時代に活動し成功もおさめたバンドなのですが、あまりにビートルズと音楽性がかぶること、メンバーのルックスがビートルズに比べ華がないこと、そしてメンバーの名前も覚えにくい(RON NASTYロン・ナスティー、DARK MCQUICKLYダーク・マックィックリー、STIG O'HARAスティッグ・オハラ、BARRY WOMバリー・ウォム)といったことから、いつしかビートルズの影の存在となってしまい、巷間でラトルズの名前が語られることはほぼ無くなっています。ファブ・フォー(FAB4=fabulous four)=素晴らしい4人組と呼ばれるビートルズとの対比でプレハブ・フォー(prefab4)=プレハブ作りの4人組と呼ばれることもあるラトルズですが、聴けば聴くほどに実はビートルズに負けない実力をもち、彼らの生み出した音楽には素晴らしい魅力があることに気付かされます。



何らか権利上の問題があるのでしょうがラトルズのアルバムや映像は廃盤状態の期間が長く続いています。時折、再発が行われますがすぐに廃盤という事情も、すべてのアルバムがいつでもCDショップで手に入るビートルズに比べ知名度が圧倒的に低いことの原因となっているように想われます。

今回拙ブログではビートルズに勝るとも劣らないラトルズの音楽を一人でも多くの方に知っていただければと、少ない資料を基にラトルズの歩みをたどってみることにしました。

ラトルズの”ALL YOU NEED IS CASH”(金こそはすべて)という歌詞を聞いたジョン・レノンは”あれは俺が歌うべきだった”と地団駄を踏んで悔しがったとか・・・

THE RUTLES - Goose-Step Mama



ビートルズがデビュー前に出演していたリバプールの穴倉のようなライヴ・ハウス、キャバーン・クラブにラトルズも出演しています。彼らの噂を聞きつけたBBCが撮影を行っていTVで流されたことによりラトルズの人気は小さな州だけではなく全国区に広がって行くことになりました。今の感覚で見ると62年とは思えない後のパンク・ミュージックを予感させる演奏といえるのではないでしょうか。

The Rutles - Cant Buy Me Lunch



ビートルズの成功の裏にはマネージャーであり彼らの良き理解者であったブライアン・エプスタインという存在がありました。ラトルズの成功の影にもリバプールで薬局を経営していたレギー・マウントバッテンが存在していました。第二次大戦で片足を失くしたレギーは日課の散歩の途中で間違ってキャバーンへと続く階段を転げ落ち、その日たまたまそこで演奏していた4人の若者と運命の出会いをしました。

インタビューで元ホリーズのグレアム・ナッシュがレギーについて次のように語っています。「レギーは音楽なんて好きじゃなかった、ヤツは男の子が好きだったのさ」。レギーが気に入ったのはラトルズの音楽ではなく、そのピッチリとした革のズボンにより強調された股間のモッコリだったようです。キャバーンでの出会いの日、レギーはその場でロン・ナスティに声をかけ契約を交わします。ナスティが要求した契約条件は「ビールを1ケースとジャム・サンド二つ」というふざけたものでしたが、この契約がレギーと男の子たちの人生を大きく狂わせて行くことになります。

THE RUTLES - Number One (1962)



レギーは革ジャンに革パンツというワイルドなルックスの四人に清潔なスーツを着せてイメージ・チェンジをはかりますが、モッコリのためにズボンは相変わらずのタイトさでした。新生ラトルズの写真とデモ・テープを持ったレギーはロンドンへ行きレコード会社に売り込みをかけます。そしてやはりラトルズの股間に注目したプロデューサー、アーチー・マコウによってデビュー・アルバム用のレコーディング・セッションが行われることになります。わずか20分で完了したというこのセッションから「君はボクにとってナンバー・ワンさ」と歌われる「ナンバー・ワン」がシングルとして発売され、そのタイトルのとおり英国チャートでみごとにNO.1に輝きます。

THE RUTLES - Between Us (1964)



タイトなズボンが効を奏しラトルズの熱狂的ファンには圧倒的に女性が多く(そしてなぜかセレブな紳士たちも)どこへいっても大勢のファンにもみくちゃにされる状態が続きます。「キミとボクの間に割り込めるものなんてなにもないのさ」と歌われる「ビトウィーン・アス」も大ヒット、ラトルズとファンの女の子の間に割り込もうとした警官達はボコボコにされてしまいます。

THE RUTLES - With A Girl Like You (1964)




ラトルズの人気はついに女王も認めるところとなり、英国王室主宰のコンサートにラトルズが出演することになります。女王をはじめとするセレブたちがみまもる中、この日のためにダーク・マックイックリーが作った新曲「ウィズ・ア・ガール・ライク・ユー」が披露されました。この後ラトルズが外貨獲得に貢献したとして勲章を与えられたことをご記憶の方も多いのでは。



ラトルズの当時の人気の高さについて、あのミック・ジャガーが語っています。曰く「俺たちはザ・ラトルズに対するイングランド南部からの返答なんて言われたものさ」


THE RUTLES - It's Looking Good (1965)



64年に訪米し人気番組エド・サリバン・ショーに出演し、アメリカでもその名を知られたラトルズは翌65年に本格的な全米ツアーを行います。革命家チェ・ゲバラにちなんで名づけられたチェ・スタジアムでのコンサートはロック史上初の大規模な屋外コンサートとして語り継がれています。歴史に残るコンサートの場所がチェ・スタジアムというところに彼らの反骨精神が感じられます。「イッツ・ルッキング・グッド」の前後にこの時コンサート会場にいたミック・ジャガーのインタビューがあり、演奏は聞こえたかという質問に「全然、まるっきり何も聞こえなかった・・・」と答えていますが、ファンの絶叫はミックも驚くほどに凄まじいものだったようです。

このツアーによりアメリカで大成功を収めたラトルズの人気は世界へと広がっていきます。しかし好事魔多し、世界で注目されることについてどう思うかというインタビューに答えた際にナスティは「ラトルズはゴッド(神)よりもビッグだぜ。ゴッドはヒット・レコードを出したことなんてないじゃないだろ」と発言。これがアメリカの福音派の信者からのブーイングで大炎上となります。それまでラトルズ・ファンだった信者の若者たちはレコードを持ちより、それに火を付け燃やす姿が全米中でニュースとなりました。レコードを持っていなかった人たちは燃やすレコードを手に入れるためにレコード店へ殺到し、皮肉なことですがラトルズのレコードは全米中で品切れ状態となり、発売されていた全てのアルバム、シングルが全米チャートにランク・インするというビートルズですら成しえなかった大記録を達成することになりました。

この一大騒動は、実は耳の悪い記者がインタビューの際に「ゴッド」と「ロッド」を聴き間違えたということが後のインタビューにおいてナスティによって語られています。それによれば「ラトルズは神(ゴッド)よりもビッグ」だと言ったわけではなく「ラトルズはロッド(スチュワート)よりも(ナニが)ビッグだぜ」と自慢しただけだったようです。確かにインタビューの時点でロッドにはヒット曲が一曲もなく、ナスティの発言はつじつまが合うものでした。そしてナスティによる謝罪会見が行われ、誤解だったということで一件落着。レコードを燃やしたファンたちも再びレコードを買いなおしたため、またもやチャートをラトルズが独占してしまったのでした。

THE RUTLES - Back in '64



誤解はとけたものの、騒動に疲れきったラトルズは今後一切人前でのライヴを行わないことを宣言し、騒動の前の「あの64年に戻りたい」と歌われる「バック・イン・64」はラトルズの隠れた名曲としてファンの間でも人気の高いナンバーとなりました。

THE RUTLES - Cheese And Onions (1968)




平穏な生活を取り戻したいと考えるラトルズでしたが、あらたなスキャンダルが彼らを襲います。アメリカのツアー中に表敬訪問をしたボブ・ディランから教えられた「ティー」(ドラッグの符丁か?)の摂取問題でした。いったん摂取すると習慣性があり、さらに効果のきついものが欲しくなってしまう「ティー」は特にナスティの体を蝕み、そこで得られる幻覚作用からラトルズの音楽はストレートなロックン・ロールという枠にはまりきらないサイケデリックな聴くものに不思議な陶酔感を味あわせてくれる複雑な音楽へと変化していきました。「チーズ・アンド・オニオン」はこの時代のラトルズを象徴するナンバーで、ナスティの最高傑作と呼ばれています。ちなみに21世紀なって日本のスノッブなファンジン「ロッキング・オン」誌が実施した20世紀の名曲ベスト100ではボブ・ディランの「ライク・ア・ローリング・ストーン」やローリング・ストーンズの「サティスファクション」、ビートルズの「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」といった名曲を押さえ見事NO.1に輝いています。

The Rutles-Shangrila




同じころギタリストのスティッグ・オハラはサレー州の神秘主義者アーサー・サルタンに心酔していました。「コックリさん」を行うことにより解脱を迎えられるというサルタンの教えにスティッグはメンバーを誘い「コックリさんの週末」に参加。この時の経験をもとにナスティは「シャングリラ」という歌を作っています。この歌はナスティによるデモ録音のみでラトルズとして正式にレコーディングされることはありませんでした。しかし、96年に彼らの未発表音源が発掘され『アーキオロジー(考古学)』というアルバムにまとめられた際に、メンバーが集まりデモ・テープに伴奏やコーラスを付け加えたラトルズの公式シングルとして発売されています。

「シャングリラ(理想郷)では シャングリラでは どんな人であれ 誰もが自分自身になれる シャングリラでは」という歌詞にあるように「コックリさん」により自分自身を発見したかに思えたラトルズのもとにショッキングなニュースが飛び込みます。マネジャーであるレギが彼らの前から姿を消してしまったのでした(後にオーストラリアで男子校の先生になっているところを発見されています)。レギーの逃亡により精神的支柱を失ったラトルズは自分たちの会社を設立することで活動を維持することを選びます。そして設立されたのがラトル・コーポレーションでした。

George Harrison as the Interviewer in The Rutles



しかしビジネスのビの字も知らないラトルズのメンバーが経営者で、社員は皆がメンバーのおともだちばかりという会社の運営が上手くいくわけがありません。レギーとラトルズの出会いのきっかけであった「モッコリ」を象徴化した「むけたバナナ」のロゴ・マークの扉の前で行われたラトル・コーポについてのインタビューの最中にも「おともだち社員」が会社の備品を次々持ち出している姿が映し出されています。それにしてもインタビュアーはジョージ・ハリスンに似ているし最後に登場するカップルの男の方はロン・ウッドによく似ていますね。



ラトル・コーポの失敗で消沈したナスティは以前ロンドンの個展で知り合ったネオナチ芸術家のチャースティと恋に落ち、昼も夜も片時も離れることがない生活を始めます。それはラトルズのレコーディング現場にも及び、メンバー以外は立ち入り禁止だったスタジオ・ブース内にナスティはチャースティを招きいれ人目もはばからずイチャイチャを繰り返しまし、他のメンバーの反感を買います。



再びミック・ジャガーの登場。ラトルズの解散について訊かれたミックは「俺がどう思ってるっかって?ラトルズが解散した理由を?女だよ。女がからんでいるんだ。事件の影に女ありってやつさ。」と答えています。

チャースティの存在によりナステイとダークの仲は完全に引き裂かれてしまい、二人が昔のように共同作業で音楽を作ることはなくなってしまいます。法廷闘争にまで持ち込まれたラトルズ解散劇は『LET IT ROT』(腐らしちまえ)というアルバムを最後に幕を下ろすことになります。

The Rutles- Get Up And Go




以上がプレハブ・フォーと呼ばれたザ・ラトルズのあらましな歴史です。もし興味をもたれた方がいらっしゃいましたらアップした動画の元となっている彼らのドキュメンタリー映画「オール・ユー・ニード・イズ・キャッシュ」がYOUTUBEにアップされていますのでそちらをご覧ください。




最後にラトルズ・ナンバーで大好きな一曲をお送りします。

The Rutles - Love Life



R.I.P. NEIL INNES

山下達郎、アナログについて語る。炎上上等(笑)。

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本日の山下達郎のSUNDAY SONG BOOKは2011年以来9年ぶりの「新春放談」でした。もちろん大瀧さんはもう居ないので、放談のお相手はSSBではお馴染みの宮治淳一さん。「新春放談」という名に恥じない濃ゆーい内容でひさびさにSSBを堪能いたしました。

中でも、達郎さんが昨今のアナログ・ブームに対して小言幸兵衛のごとく物申した部分には大笑いしてしまいました。以下文字起こししておきます。


>山下達郎:そうすっと日本盤も買ってたわけでしょ、シングル盤。
宮治淳一:日本でしか出ないやつはね、ただやっぱりね音圧がね、違うんですよ。
山下:カッティングがね、もう全然違うんですよ。
宮治:あぁカッティングの問題なんですね。
山下:カッティングですよ、マスターは同じだけど。サブ・マスターが来るけど、だけど。いろいろ昔のエンジニアの人に訊いたことがあるんですよ、歌謡曲がとにかく全然音圧がないじゃないですか。で内沼映二さんていうね、あの方は麻丘めぐみやってらっしゃって、あの「芽ばえ」ってのがあるんだけど、「芽ばえ」ってあれ一応フィル・スペクターもので「ドンットドン・バン」って始まるんですけど「トントトン・ペン」なんですよ。「なんで、こんなにショボいんだ?」「いやね昔はねリミッターが無かったんだよ」って。リミッターをマスターにかけるっていう発想が無かったんだって。



宮治:あの当時ですらまだ無いんですか?
山下:トータル・コンプっていう発想が絶対に許されないんだって。
宮治:あぁ許されない。
山下:原音に忠実っていうね、で、カッティング技術がまだ確立してないんで、深く切るってことができなかったんだっておっしゃってて、僕ほらRCAだったんで内村さんがチーフ・エンジニアで、その辺はたくさん教えてもらったんです。
宮治:ふーん。

山下:今またアナログがねブームなんですって。
宮治:らしいすね、なんか相当出てますよね。こんな人までだすのみたいなね・・・悪いけど。
山下:ほんとにね、ははは。なんかね、僕が、CDになった時にね、CDの悪口をさんざん言ったらねやれガラパゴスだのねシーラカンスだのねさんざん言われてね。
宮治:ヒヒヒヒ。
山下:いまさらねアナログだって言いやがんの・・・絶対やだよ、そんなの。
宮治:どうしたんですかね、それが急にね。
山下:知りませんよ、なんか世界的な傾向でしょ。ファッションですよ、どうせまた。
宮治:そりゃ、まぁ半分以上はそれですよね。でも実際に悪くはないでしょ音は。
山下:いやぁー、僕2010年以降、むこうでアナログけっこう、120gのレコードとか、ありとあらゆるもの買いましたけどオリジナル・バージョン越えてるの1枚もないですよ。
宮治:あっ今の180gくらいの買うくらいだったらコンディションのいいオリジナルの方がいい。
山下:買う方がいい、あの、マスターが劣化してるんでどうしようもない。それを、マスターをアナデジした段階でもうハイ落ちしているんで、それを結局その、EQかけたりコンプかけたりして、ようするにステロイド状態なわけね。
宮治:あぁー。



山下:だから僕のあのシュガーベイブの『ソングス』は90年代の頭くらいに大瀧さんがぜんぶアナデシしておいてくれたんで、まだ劣化が、まだそんな悪くない状態で・・・
宮治:あっ、テープそのものがまだヘタっていない・・・
山下:ヘタってない状態で、ベスト・コンディションでアナデジにトランファーしてくれたんで、今でもハイクォリティなプレスができるんですよ。所詮はすべてマスターなので。だからCDって80年代はホントに音悪いんだけど、でも、あのアナログ・マスターは全然まだ劣化していない時代なので、それを今リマスターした方が、CDだって立派なアーカイヴなんでね、そっちの方がね、今の2018年リマスターとかいうよりも全然いいですよ。
宮治:マスターとして使えるってこと?
山下:使えます。
宮治:要するに変なEQやってないから、行って来いっていうか・・・
山下:そういうこと。でマイナス14デシの、まぁヘッド・マージンが低いんだけど、でもマスター自体は悪くないんで。
宮治:あぁー。
山下:そういう、ことをね誰も論争もしないし、考えもしないで、やれアナログだ、アナログだってね「アナログはCDとは違う」とか、それで、でもほとんどのシェアは、もうスマホで聴いてるんですからね。
宮治:アハハハ、そうですよね。
山下:だからね、おかしいですよ。でもね、こういうことを言うとまた言われるんですよ・・・・
宮治:イヒヒヒ。

「恋の終列車」はベトナム戦争についての反戦歌だった

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FBで「恋はフェニックス」のことを投稿されているのを見て、地名が入った楽曲のことをちょっと書いてみようかなと思って、どんな曲があったっけと考えた時に真っ先に頭に浮かんだのがモンキーズの「恋の終列車」でした。邦題には地名はありませんが、原題は「Last Train To Clarksville」ということでクラークスヴィルという地名が入っています。

まずは Songfacts.comで「恋の終列車」について調べると、ビートルズに対抗すべくアメリカ音楽業界がでっち上げたアイドル・グループ=モンキーズのデビュー曲で見事に全米NO.1となったこのあっけらかんとしたポップ・ソングは、驚いたことに、ベトナム戦争に対する反戦歌だというのです。

>ボイス&ハートは、ベトナム戦争への抗議としてこれを書きました。彼らはそれをレコードにするために沈黙を貫きましたが、それは徴兵され、戦争で戦う男についての歌でした。列車は彼を軍の基地に連れて行きますが、彼はベトナムで死ぬかもしれないことを知っています。歌の終わりに彼は次のように述べています。「家に帰れるかはわからない」

ボビー・ハートは曲を思いついた時のことを語っています。ちなみにボビー・ハートはラジオで最初に「ペーパーバック・ライター」を聴いた時に、エンディングのポールによる♬Paperback Writer♬という繰り返しが、なぜか♬Take The Last Train♬に聞こえてしまったようで、正しい歌詞が分かった後にも、面白いフレーズなのでこれを使った曲を作りたいと考えていたようです。おそらく、その流れで最終列車の行きつく地名を探していたんじゃないかと想像します。

  >響きのいい名前を探していたんだ。夏期休暇にオーク・クリーク・キャニオンに列車で向かっている途中、北アリゾナに、クラークスデールと呼ばれる小さな町があったんだ。

元々はクラークスヴィルではなくクラークスデールという地名だったようです。



クラークデールは1912年にウィリアムA.クラークによって開かれた鉱山によって栄えた町のようですが50年代半ばに鉱山が廃業し、現在は人口4000人強のごストタウンのような様相を呈しているようです。60年代半ばにボビー・ハートが列車から見た時にもすでに寂れた町になっていたでしょうね。

クラークデールという地名を気に入ったものの、いざ曲を作り出してみるとメロディに乗りにくい地名だったようで、こりゃダメだとなった時にトミー・ボイスが似たようなクラークスヴィルという地名を見つけ出します。

>クラークスヴィルの方がより良い響きだと思ったので、クラークスデールに決めてたのを捨てることにしたんだ。当時、私たちは知らなかったんだけど、テネシー州クラークスヴィルの町の近くには空軍基地があったんだ。


クラークスヴィル市はテネシー州モンゴメリー郡にある人口15万強の地方都市です。市の名前は独立戦争の英雄であるジョージ・ロジャース・クラーク将軍と、ウィリアム・クラーク兄弟にちなんで命名されています。ボビー・ハートの発言にあるように市の郊外には第101空挺師団の基地があります。



発言によればクラークスヴィルという地名はたんに響きが良いということで選ばれて、そのあとで郊外に空軍基地があることを知ったということになります。ということは「恋の終列車」は最初は普通のポップ・ソングとして書き始めたものが、空軍基地の存在を知って、歌に「反戦」の思いを滑り込まそうとしたということになるのでしょうか。

クラークスヴィル行きの最終列車で行くよ
駅で君に会いたいんだ
4時半にそこで待っていてほしい
予定通りに行くからさ、遅れなきゃいいけど
ああ 嫌だ 嫌だ 嫌だ

朝には行かなくちゃいけないんだ
君にお別れをしなきゃね
もう一度、夜を一緒に過ごしたいんだ
朝になって列車が動き出し
僕が行ってしまう前に
ああ 嫌だ 嫌だ 嫌だ

帰ってこれるか分からないんだ

クラークスヴィル行きの最終列車で行くよ
駅で君を待っているよ
コーヒーの薫りのキスをして
少しだけおしゃべりをする
ああ 嫌だ 嫌だ 嫌だ

クラークスヴィル行きの最終列車で行くよ
もう電話を切らなくちゃ
騒がしい駅に独りぼっちで君の声も聞こえない
落ち込んじゃうよ
ああ 嫌だ 嫌だ 嫌だ

帰ってこれるか分からないんだ

クラークスヴィル行きの最終列車で行くよ
クラークスヴィル行きの最終列車で行くよ




>モンキーズでは直接的な表現はできませんでした。プロテスト・ソングを作るなんてね、だからこっそりやったんだ。

たしかに、何も考えずに歌詞を読めば離れ離れにならなければならない若い男女が最後にクラークスヴィルの駅で会おうといっているまさに「恋の終列車」の歌に聞こえます。でも、男の方がクラークスヴィルの駅で待ち合わせをした後、徴兵で空軍基地へ行きそこからベトナムの地へ送られる立場であると思って歌詞を読み直すと「帰ってこれるかわからないんだ And I don't know if I'm ever coming home」という言葉は重いし、繰り返される(ビートルズのYear Year Yearを参考にした)「ああ 嫌だ 嫌だ 嫌だ Oh, no, no, no」も戦争に行きたくない男の悲痛な叫びに聞こえてきます。



「恋の終列車」がリリースされたのは1966年の8月16日なのですが、その前年の65年7月29日にはクラークスヴィルの空軍基地から歩兵大隊を中心に多くのアメリカ兵がベトナム戦線へ派遣されています。ボイス&ハートが「恋の終列車」に「反戦」の思いを滑り込ませたのは、そういった事実をやるせない気持ちで見ていた時に、たまたまヒックスヴィルというキーワードを歌詞に使おうと思ったことに、ある種の「必然性」のようなものを感じたからではないでしょうか。

しかし、「恋の終列車」が反戦歌だとは夢にも思っていませんでした。



Songfacts.comによればクレジットはされていませんが、この曲でリード・ギターを弾いているのはジェシ・エド・ディヴィスだとする説が多いようです。


最後に「恋の終列車」の歌詞を訳していて「あれっ」と思ったのですが、2番の歌詞に♬もう一度、夜を一緒に過ごしたいんだ We'll have one more night together♬というフレーズがあるのですが、これってもちろん「愛を交わしたい」って意味ですよね。ちなみにローリング・ストーンズがエド・サリバン・ショーに出演して「夜をぶっとばせ」を歌おうとしたら♬Let's Spend The Night Together♬という歌詞は公序良俗に反するということで♬Let's Spend Some Time Together♬に歌詞を変えさせられたのが67年の1月15日、「恋の終列車」がラジオやTVからじゃんじゃん流れまくった後なんですよね。なんなんでしょうね、「モンキーズ」がNBCで「エド・サリバン・ショー」がCBSだったから?エド・サリバンの倫理観が強かったから?



ボビー・グラハム:英国NO.1のセッション・ドラマー

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フェイスブックの方で米国NO.1のセッション・ドラマーであるハル・ブレインのインタビューの抜粋をアップしたところ、「英国にもハル・ブレインみたいなセッション・ドラムはいたのか?」というコメントをいただきました。僕は元来アメリカン・ロック好きの人間なので、英国NO.1のセッション・ドラマーが誰かなんてすぐには頭に浮かぶはずもなく早速調べてみました。ハル・ブレインが名プロデューサーのフィル・スペクターのセッションで名を上げたことから、とりあえず、「英国のスペクター」(といってもこっちが大先輩なんですけどね)の異名のジョー・ミークのセッション・メンバーについて調べてみることに。ジョー・ミークのもとでジミー・ペイジも働いていたことくらいは知っていましたので・・・、結果はビンゴでした。「シベリア鉄道」の元歌のひとつであるジョン・レイトンの「霧の中のジョニー」でドラムを叩いているボビー・グラハムという人がどうやらすごいドラマーのようです。

そのすごさを説明するのに2009年9月14日にグラハムが亡くなった後にindependent.co.ukというサイトが経歴についてまとめた記事を抄訳しましたのでご覧ください。

元記事へのリンクはコチラ→
ボビー・グラハム:約15,000件のレコードを演奏したセッションドラマー



>ボビーグラハムの名前は一般的ではありませんが、 彼の15,000曲のレコードでプレイしたという主張は正しいものです。1960年代、彼は英国を代表するセッション・ミュージシャンの1人で、ロンドンのレコーディング・スタジオをはしごして、ジョン・レイトンの「霧の中のジョニーJohnny Remember Me」、PJプロビーの「ホールド・ミーHold Me」、ビリーフューリーの「思わせぶりIt's Only Make Believe」、エンゲルベルト・フンパーディンクの「ラスト・ワルツThe Last Waltz」、ダスティ・スプリングフィールドの「この胸のときめきをYou Do n't Have To Say You Love Me」などのヒット・レコードに彼の才能を刻んでいます。






ボビーグラハムは1940年3月にロンドン北部のエドモントンで生まれました。彼が夕食の皿をドラム代わりに叩いて割った時、彼の父親は彼のためにドラム・キットを作りました、そして、その後プロ用のものを買い与えました。グラハムはレコード・プレーヤーの隣にドラムをセットしテッド・ヒースのオーケストラのロニー・ベレルと共演し、ロックンロールが登場したときには、リトル・リチャードのバンドのアール・パーマーと一緒に叩きました。

グラハムの最初のプロ契約はビリー・グレイとストーマーズの時でベース・プレイヤーはチャス・ホッジスでした、グループはその後アウトローズという名前になりました。 マイク・ベリー(歌手)はアウトローズをバック・バンドに依頼しました。マイクは異端のプロデューサーであるジョー・ミークと契約していたため、彼らは304ハロウェイ・ロードにある自宅のスタジオに行きました。 アウトローズはすぐにインストゥルメンタルのシングルを作ることとなり、レイトンの1961年のNO.1「霧の中のジョニー」をはじめ、他のレコーディングのバックを務めることになりました。



ミークの作品は高く評価されていますが、グラハムはミークの下で短い期間しか活動しませんでした。彼はミークの作るものに混とんとした世界を感じていました。良いパフォーマンスを歪めてしまうミークのやり方を嫌い、彼のドラムがミークの古典的な「クレイジードラム」で処理されることを嫌っていました。最も重要なのは、ミークの経理が決して信用ならないという正当な理由のためでした。

ミークのアレンジャーの一人であるチャールズ・ブラックウェルはグラハムに、ジョー・ブラウンが彼のブラウバーズの新しいドラマーを探していると伝えました。ボビー・グラハムは、ブラウンの最大のヒット曲「ア・ピクチャー・オブ・ユーA Picture Of You」(1962年)とアルバム『ジョー・ブラウン–ライブ!』(1963)で演奏しました。 1962年7月、 彼らはニュー・ブライトンのタワー・ボール・ルームで演奏しました。「ビートルズはピート・ベストを伴っていた、そしてブライアン・エプスタインは彼の代わりになること打診してきた」とグラハムは2005年に私に言いました、 「彼は変更が必要だと言った。ビートルズにはヒットがなかったので、「結構です」と答えた、とにかくロンドンには妻と家族がいたしね。彼がそのことをビートルズと話し合ったとは思わないけど、きっと彼らはリバプールから探していたと思うよ。」



その代わりに、グラハムはメジャー・レーベルのセッション・ワークの仕事を得て、時には1日3時間のセッションを3回やったこともありました。セッションにつき£9、ドラムの運搬費として£1を受け取っていました。事前にアーティストを知らされることはほとんどなく、しばしばグラハムはビート・バンドのドラマーの代役をこなしました、例えば
キンクスのNo 1ヒットの「ユー・リアリー・ガット・ミーYou Really Got Me」なんかです。



「目標は3時間で4つのタイトルをレコーディングすることでした。経験豊富なセッション・メンだけが簡単にそれを行うことができました。ジミー・ペイジ、ジム・サリバン、そして私は、アイルランドのバンドであるゼムとのデッカでのセッションに呼ばれました。彼らのメイン・ボーカリストであるヴァン・モリソンは、レコーディングでセッション・メンの参加を望んでおらず、本当に敵対的でした。ディレクターのアーサー・グリーンズレードが、私たちはただのヘルプだと言ったのを覚えています。ヴァンは静まりましたが、気に入ってはいませんでした。」モリソンの思いが何であれ、レコーディングはうまくいきました、「グロリア」のラストのグラハムの熱狂的なドラムは、ロックの素晴らしい瞬間の1つです。



デイブ・クラークは彼のレコードで演奏していないと言われだした時にクラークはそのことを認めなかったことについて、グラハムは私に言いました、「デイブはプロデュースがしたかったので、ドラムのブースの中に座るのではなく、スタジオ全体を見たかったんだ。マイク・スミスは彼と一緒に「グラッド・オール・オーバーGlad All Over」を書いていましたがドラムをどうするかあまり考えていなかった。私は ハイハット、スネア、ベースなど普通に演奏するやり方で演奏しました、するとデイブが、「ボビー、もっとシンプルにしてくれませんか?」と頼んできた。彼は、ライブで自分が演奏できないような複雑なフィル・インは望んでなかった。最終的に、頭打ちの、燃えるようなビートにした、彼は「それいいね」と言った。私は多くのヒット曲で演奏し、デイブはアルバムのトラックで演奏しました。ジャーナリストは彼に暴露させたがっていました。News Of The World誌から電話がありました。「デイブ・クラークと話したら、彼はあなたが彼のレコードでドラムを叩いてると言っていますよ。」 私は答えました、「私じゃないよ」。私は仕事をこなし支払いを受けました、なんで彼のことを暴露すべきなのか私には理解できませんでした。」



プロデューサーのジャック・ベーバーストックが潰瘍で苦しんでいたときに、グラハムはたまたまフォンタナ・レコードにいました。ベーバーストックはプリティ・シングスの仕事を引き継いでくれるように彼に頼み、上手くいったので彼はプロデュースを続けることになります。グラハムはデイブディー・グループDave Dee, Dozy, Beaky, Mick & Tichやスレイドとなるバンドを見出しました。彼はブリティッシュ・ブルースのパフォーマー、ビクター・ブロックスやジャズ・オルガニストのアラン・ヘイブンをプロデュースし、フランスのバークレー・レコードでも仕事をしました。


 

記事中にもありますが、キンクス、ゼム、DC5なんかの代表曲でもグラハムが叩いているものがあるというのは、ちょっとショックを受けました。

彼のセッション・ワークのごくごく一部ですがWikiに載っていたものをコピペしておきます。これだけでも、「えぇ、あの曲が!」となるのでは。

"You Really Got Me", "All Day And All Of The Night" and "Tired of Waiting For You" by The Kinks
"We Gotta Get Out Of This Place" by The Animals
"Good Morning Little Schoolgirl" by Rod Stewart
"Downtown" by Petula Clark
"Green Green Grass of Home" by Tom Jones
"Gloria" and "Baby Please Don't Go" by Them (ft. Van Morrison)
"I Only Want to Be with You" by Dusty Springfield
"I Believe" by The Bachelors
"Is It True" by Brenda Lee. Produced by Mickie Most in 1964.
"Glad All Over" and "Bits and Pieces" by The Dave Clark Five

最後にシェル・タルミーの追悼の言葉を。

“For me Bobby Graham was the greatest drummer the UK has ever produced.”

6つのバンドで6曲のヒットを出した1人のシンガー(Best Classic Bandsより)

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誰もがその声を知っていても名前は知る人ぞ知るシンガー、トニー・バロウズについて簡潔にまとめられた記事がBest Classic Band.comにありましたのでご紹介しておきます。

元記事はコチラ→6 Bands. 6 Hits. 1 Lead Singer by Vinnie Longobardo



まったく違うアーティストのお気に入りのレコードの中に、同じミュージシャンが演奏しているのは珍しいことではありません。ロサンゼルスのレッキング・クルーと呼ばれるセッション・ミュージシャンは、ビーチボーイズ、バーズ、ママス&パパス、モンキーズからフランク・シナトラ、ハーブ・アルパート、フィフス・ディメンションまでのアーティストの歌のバックで演奏をしました。ファンク・ブラザースと呼ばれるデトロイトのモータウンの匿名セッション・ミュージシャンは、これまでに記録された最も人気のある歌のいくつかに貢献した当事者として十数年後に認められました。

しかしながら、さらに珍しいのは、70年代初頭の忘れられがちな一発屋からAMラジオの最大の定番曲の中に無名で見落とされがちなトニー・バロウズというシンガーが共有されているのを発見することです。

バロウズは1942年4月14日、イギリスのエクセターで生まれました。ボーカル・ハーモニー・グループであるケストレルスKestrelsのメンバーとして,フォーチュンズの「ゴット・ユア・トラブルYou’ve Got Your Troubles」やホリーズの「喪服の女Long Cool Woman in a Black Dress」などのヒットを後に書くロジャー・グリナウェイとロジャー・クックと共に50年代にキャリアをスタートさせました。



ケストレルはグループとしては大きな成功を収めることはできませんでしたが、英国で最も需要の高いボーカル・バッキング・グループとして、ロニー・ドネガンからビリー・フューリー、ベニー・ヒルといった英国のヒット・メーカーのバックで歌いました。最終的に、トニー・バロウズはグループを去り、サイケデリックの時代にフラワー・ポットメンに進化するアイビー・リーグに参加しました。将来のディープ・パープル・メンバーのジョン・ロードとニック・シンパーも含まれていました。

フラワー・ポットメンは、1967年に初めてチャートにヒットを出します、全英4位となったカリフォルニアを感じさせる「花咲くサンフランシスコLet’s Go To San Francisco」でした。この歌は(米国ではチャート・インしませんでしたが)、スコットマッケンジーの「花のサンフランシスコSan Francisco (Be Sure to Wear Flowers in Your Hair)」やエリック・バードン&ジ・アニマルズの「サンフランシスコの夜San Franciscan Nights」と共にサマー・オブ・ラヴの中心であった港町を代表する歌としてフラワー・パワーのコンピレーション・アルバムの定番となっています。



何曲かの売れないシングルと何人かのメンバー・チェンジの後、フラワー・ポットメンはホワイト・プレインズへと変化します。新しいグループのためにケストレルス時代のバンド・メイトのグリーナウェイとクックが招集され、1970年の夏に13位と、今度は大西洋の両側でヒットする「恋に恋してMy Baby Loves Lovin ’」が生まれます。



その年は、バロウズは3つのグループでヒット・シングルのリード・ボーカルを手がけ歌手としてのキャリア・ハイを迎えます。エジソン・ライトハウスの「恋のほのおLove Grows(Where My Rosemary Goes)」が全米5位、ブラザーフッド・オブ・マンの「二人だけの世界United We Stand」が13位、そしてピプキンズの「ギミ・ダッディンGimme Dat Ding」が9位となっています。







バロウズはその年に歴史を作ります、BBCのトップ・オブ・ザ・ポップスの一回の放送中に3つのグループのシンガーとして3回登場したのです。この偉業は番組プロデューサーにうさんくさいと判断されバロウズは非公式に番組から遠ざけられることになりました。

BBC三連荘の後、バロウズは自分の名前でチャート・ヒットに挑みますが、リリースされたシングルはどれも、一般大衆の心に届くことはありませんでした。

しかし、彼のヒット作はこれで終わりではありませんでした。1974年、ファースト・クラスという名前のバンドで、アメリカでトップ5のヒットを記録しました。ビーチ・ボーイズを彷彿とさせる「ビーチ・ベイビーBeach Baby」で、誰もがレーベルにブライアン・ウィルソンの作曲クレジットを探しました。



「ビーチ・ベイビー」は大ヒットでしたが、バロウズがリード・ボーカリストとしてチャートに名前を残したのはこれが最後でした。その後はセッション・ボーカリストとして成功し、ロッド・スチュワート、クリフ・リチャード、トム・ジョーンズ、エルトン・ジョンなどをバック・アップしました。例えば、「タイニー・ダンサーTiny Dancer

」と「レヴォンLevon」でエルトンのバックで歌っているのはトニー・バロウズです。



バロウズは同時代のポップ・スターたちのような名声を勝ち得ていないにもかかわらず、一発屋ヒットを6回も出した男として記憶されています。これは、誰も手に入れることのできないタイトルです。




ヒューイ・ルイスの10年、10の質問

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メニエール病と闘いながらニュー・アルバム『ウェザー』を発表したヒューイ・ルイスのCOS.netによる最新のインタビューがあったので抄訳してみました。10代の頃に初めて多くの人の前で歌った時に感じた「歌」への思いから、病気によって人前で歌うことができなくなった今の切実な思いまで、10のエピソードが語られています。

元記事はコチラです→10 Years, 10 Questions with Huey Lewis: On Sports, Back to the Future, and Meniere’s Disease


<1967年>
Q:あなたは10代でハーモニカを演奏しながらヨーロッパ中を旅していました。初めてのパフォーマンスについて教えてもらえる。



A:ヨーロッパと北アフリカでバスキングをやっていた。北アフリカのマラケシュに3か月ほど滞在し、あるクレイジーな男とヒッチハイクをした。彼はオランダ人で、1925年のシボレーとエアストリーム・トレーラーを所有していた。スペイン南部でのお話。彼がやって来て、俺を拾った、手短に言うと、彼は道路の端に寄りすぎ溝にはまり水の中にはまった。彼は呑むのが好きなやつだった。ポルトガルに向かう途中のすべてのバーに立ち寄っていた。国境に着いたら、俺のパスポートが紛失していた、ナップザックに入れてたんだけど、水にはまった時にナップザックは流されていたんだ。パスポートが無かったので、ポルトガルに入れなかった。だからセビリアに戻って街中でバスキングしていた。学生たちが、俺が広場でハーモニカを演奏しているのを見ていて、いろいろ訊いてきた。そこで俺は「新しいパスポートを手に入れるためにお金を稼いでるんだ。20ドル必要なんだよ。」と答えた。彼らは言った、「問題ないよ、僕たちにまかせなよ。コンサートをやろうよ。」

俺たちはギタリストを見つけた。俺とそいつで10曲ほど練習した、そして学生たちは大学での大きなコンサートを企画していた。それはヒューイ・ロス・ブルースと名付けられていた。大きなポスターがいたるところに貼られていた。コンサートの夜には、チケットは売り切れた。前座で、ロス・ニューボス・テンポスとかニュー・タイムズと呼ばれるバンドが演奏した。彼らは10人組のバンドで素晴らしいかった。俺は思ったよ、
なんてこった、俺たちはこの後どうすりゃいいんだよ、アコギを抱えた小男とハーモニカの俺、茫然としてた。彼らはセットを終え、ステージは観客のど真ん中に小さなポッドを置いたみたいなものでした。そこに二人だけ、2つの椅子、2つのマイク。観客の真ん中に進みました。ピンが落ちる音が聞こえる。とても静かだった。演奏を始めた。ライトニング・ホプキンスを演ったと思う。でも静かなまま、とても静かだった。演奏しながら心の中で思った、失敗だ、大失敗だ。でも歌が終わり、完全な沈黙は拍手喝さいの嵐になった。その時に思ったんだ、ワオ、こいつはクールだ。こいつがやりたかったことなんだ。

<1969年>
Q:1969年にSlippery Elmに参加しましたね。Slippery Elmとの初めてのコンサートを覚えていますか?



A:それは男子学生の社交クラブのバンドだった。新しいアルバムには「One of the Boys」という新曲があって、まさに俺の人生の物語なんだ。父は専門職の医者だったが、趣味でジャズ・ドラマーをやっていて、ピアノも弾けた。いい腕していた。プロのミュージシャンの友達がたくさんいて、俺が子供の頃、よくジャム・セッションをしていたんだ。だからいつだってバンドが大好きだった。大きくなると、父はリビング・ルームにドラム・セットを置き、俺を座らせ、タイムをキープするように教えてくれた。彼は言っていた。「タイムを学べ。タイムを守れれば、すべてはうまく行く。」

それが音楽に触れた最初の体験だ。でも父は歌手が好きじゃなかったんだ。ただのビッグ・バンドのジャズ・メンだったからね。ビッグ・バンドのジャズが好きだったんだ。ビッグ・バンドのほとんどで、歌手は1〜2曲しか歌わないだろ。残りの8曲はインストゥルメンタルだからな。父はインストゥルメンタルが大好きで、でも俺は歌手になりたいと少し思っていた、それが自分にできることだったからね。

高校に行く前に両親が離婚し、母は寄宿生に部屋を貸しました、ビリー・ロバーツという「Hey Joe」を書いた男だった。彼はフォーク・シンガーでギターとハーモニカをネック・ホルダーで演奏していた。古くなったハーモニカをくれたんだ。それで私立学校に行く頃には俺はハーモニカを演奏するようになっていた、そして、俺は飛び級だったので高校を16歳で卒業した。1年間の休みを取って、ヨーロッパと北アフリカを放浪した後コーネルに戻り、Slippery Elmに参加した。俺たちの最初のギグはおそらくどこかの社交クラブパーティだったと思う。

<1971年>
Q:クローバーでの活動中の1971年にヒューイ・ルイスというステージ・ネームにしましたね。改名のきっかけは何ですか?



A:クローバーと一緒に、イギリスにいて、いろんな人のレコードでハーモニカを演奏するセッション・ワークをたくさんもらっていた。彼らは名前をクレジットしようとしたが、俺はグリーンカードを持っていなかった。その当時は誰もが名前を変えていた、それがパンクだった。俺のニックネームはいつもヒューイ・ルーイHuey Louieだった、縮めてルーイ。最初のガール・フレンドの父親も俺の事をいつもルーイと呼んでいた。だからヒューイ・ルイスにしたんだ。

Q:クローバーには、ドゥービー・ブラザースに加わるジョン・マクフィーがいました、そして、彼らはエルビス・コステロのバッキング・バンドを務めました。当時、あなたは本当に素晴らしいミュージシャンに囲まれていましたね。彼らから何を学びましたか?

A:あらゆることだ。当時のイギリスでいちばんカッコよかったのはパンクだった。爆発してた。俺は確か5、6年前にクローバーに加わっていた。俺たちは自分たちの売込みすべてを費やしていた。レコード会社を惹きつけるためにレコード会社の求めることをやっていた、それはそれまでの俺からは程遠いことだった。俺はロッカーじゃなくリズム&ブルースの男だ。俺のルーツはリズム&ブルースで大好きなものだった。だけど、まあ、喰っていかなきゃいけないしな。



クローバーでは、ビッグ・アリーナ級のレコードを目指した。アメリカ向けのレコードだ。でも、パンクがヒットしたときには、俺は初めての解放感を感じていた、俺はラジオ向けの優しい声じゃなかったからね。やつらは音楽業界を鼻で笑っていた、「なぁ、気にすることないよ。チューニングなんて勝手にやるだけさ。」

音楽的には必ずしも評価してなかったけど、やつらのスタンスは大好きだった。クローバーが解散したら、そんな風にやりたかった。国に帰り、好きなミュージシャンを見つけて、R&Bベースのバンドを作り地元のクラブでプレーするだけ、そんなバンドでいいと思った。そして作った。そうしてすべての物事が起こり始めた。

<1978年>
Q:シン・リジイの1978年のアルバム『Live and Dangerous』でハーモニカを演奏しただけでなく、スコットとフィルは、あなたがバンドのリード・ボーカルになるように奨励しましたね。



あぁ。フィリップは特別な人だった。クローバーは、ジョニー・フォックス・ツアーでシン・リジイをサポートした。最初にサウンド・チェックを期待するなと言わた、ツアーの途中までオープニング・アクトはサウンド・チェックを受けられなかったんだ。それがイギリス流のやり方だった。そして、チラシに俺たちは「サポート」と書かれていた。「Thin Lizzy plus Support」ってね。

最初のショーのことだ、オックスフォードかどこかだったと思う。たくさんのファンがいた。俺たちは、急いでアンプをつけ、スタンバイした。サウンド・チェックはやってないので、バランスは狂っている。そしてアナウンス、「さぁ、シン・リジイがもうすぐ登場だ。」場の雰囲気が盛り上がる。「まずは、クローバーだ」。ブーイングが始まり物が投げられだす、そして最初のショーのスタート、すべての歌をなんとか演奏した。

おそらく数曲をカットしていたが、終了し、ステージを離れた。 ステージの脇で待っていたのはフィリップ・リノットだった。「なぁ、あんた少し時間はあるか?」と言って俺を楽屋に連れて行き、俺たちのセットを批評し始め、改善点とヒントをくれた。その時から彼は俺の兄貴になった。そして最後には彼のクローゼットの衣装を私を着せた、そしてバハマにも連れていかれ彼のソロ・アルバムで演奏した。フィリップは本当のメンターだった。優しく、寛大で、素晴らしい男だった。ステージ上ではまさに神聖にして侵すべからずだった。ただただ素晴らしかったよ。


<1980年>
A:ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースのデビューアルバムが1980年に出ました。レコード・カバーでその名前を最初に見た時にはどう感じましたか?



Q:あぁ、もともとはアメリカン・エクスプレスと呼ばれていて、いいバンド名だと思っていた。それは俺たちにぴったりと思っていた。マネージャーが、「ヒューイ・ルイス&アメリカン・エクスプレスにする必要がある。歌手であるあなたに焦点を当てる必要があるので。」と言いだして、異存も無かったので「もちろん。お好きに。」って。そして、俺たちはヒューイ・ルイス&アメリカン・エクスプレスになった。その後、最初のレコードのリリースの前夜、締め切りまでに24時間という時にレコード会社から、「名前を変更する必要がある」と連絡があったんだ。

彼らはアメリカン・エクスプレスが訴訟を起こすことを恐れていた。それで 名前をニュースに変更した。見ものだったよ。「参ったなぁ、やるしかないな。」。でもまだ油断はできなかった。クローバーと一緒だった、そして俺はエルヴィス・コステロのことも見ていた、レコード契約を結ぶことだけが終わりじゃないってことを知ってたんだ。サインしたのは78年か79年で、ラジオが王様の時代。生き残りたかったら、ヒットシングルが必要だった。自己満足していなかった。ただうまくいったとは思っていた。良いスタートが切れたと。

<1983年>
Q:『スポーツ』のリリースによって、レコードが売れはじめ、エアプレイも増えました。アルバムは絶対的な伝説になりました。それがもたらしたすべての注目に対する準備はできていましたか?



A:『スポーツ』は面白かったよね、今になって思えば『スポーツ』は82年に録音されていて、ヒット・シングルが必要だとわかっていた。ラジオが王様だったから。始まったばかりのMTVでさえ、そのプレイ・リストはラジオを正確に鏡映しにしたものだった。現代的なヒット・ラジオ、そしてFMラジオ、60年代にトップ40のラジオのオルタナティヴとして始まったけど、それもプログラム化されていたんだ。ヒットシングルは必要だった。自分たちで『スポーツ』をプロデュースすることを求めた、自分たちで意思決定をしたかったからね、どこまでコマーシャルにするかを。

俺たちはコマーシャリズムと常に生きなければならないことを知っている、でも恥ずかしいものにはしたくない。だから自分たちで『スポーツ』をプロデュースした。すべての曲をラジオ向きにしようとした。それって俺たちには最も難しいことだった、俺のかすれたバリトンの声はラジオ向きじゃないと思われていたからね。でも、すべての曲ををラジオ向きに仕上げた。ヒットが必要だってわかっていた。まさか6曲もヒットするなんて思っていなかったよ。今、『スポーツ』に耳を傾けると、そいつがあの時代の記録であることが分かるし、まるでシングルのコレクションのようだ。

A:「パワー・オブ・ラヴ」がバック・トゥ・ザ・フューチャーで取り上げられました。映画の中で、バンドのオーディションの審査員として出演もしていますね。いつも演技を夢見ていたのですか?



Q:実際に役者への願望はあったよ。誰も俺を俳優なんて思わないだろうけど、でも実際に楽しんでいたんだ。バック・トゥ・ザ・フューチャーの時には、スティーブン・スピルバーグ、ボブ・ゼメキス、ボブ・ゲイルがやって来て言ったんだ「曲を書きたくないかい?映画を書いたんだけど主人公のマーティ・マクフライのお気に入りのバンドはヒューイ・ルイス・アンド・ザ・ニュースなんだ。主題歌を書きたくないかい?」

俺は言ったよ、「ワオ。光栄だね。でも、主題歌なんてどうやって書くんだ?。「バック・トゥ・ザ・フューチャー」っていう曲を書くのも嫌だなぁ。」。すると彼らは「いやいや、気をつかわなくていいんだ。ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースの歌が欲しいだけだから。」って言った。だから、素晴らしいと思った。次の新曲ができたから彼らに送った。それが「パワー・オブ・ラヴ」さ。

ゼメキスはこう言った「ねえ、もし君が映画に出てくれたら、本当にクールだと思うんだけど。」そんなの必要はないと思った。受ける気もなかった。最終的には出演に同意した、俺の事を隠し、クレジットせずに、カメオにしてくれるならと。それがすべてってわけ。



Q:1985年には、「ウィー・ワー・ザ・ワールド」のシングルで歌いました。信じられないほどの人々と同じ部屋にいるのはどんな感じでしたか?

A:素晴らしかった。一生のうちに会えるか分からない人たちに、一晩で会えて、話までできるなんて。それは奇跡のひとつだった、一生に一度の経験で決して忘れることはない。本当に楽しかった、そして、ある絆ができた、それはすべての参加者の間に今も存在している。

プリンスのラインを歌うことになった、プリンスが現れなかったからね。クインシーが送ってくれて、俺が入って行くと彼は「ヘイ、スメリー!Hey Smelly!」と叫んだ。クインシーはマイケル・ジャクソンをスメリーと呼んでいたんだ。彼のニックネームだった、彼がとてもきれいだったから、みんな彼をスメリーって呼んだんだ。クインシーは、「スメリー、ここで入ってくれ。ヒューイのラインを歌ってやれ。」そして彼はラインを歌った。俺はそれに続いて歌った。マイケルは「素晴らしい、ばっちりだ。」と言った。やった。

緊張した、緊張した、緊張した、でも最高の夜だった。

<2000年>
Q:「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の後、あなたは断続的に演技をしましたよね、「デュエット」での共演とか。映画に出たきっかけは?グウィネス・パルトロウとの共演を楽しみましたか?



A:楽しかったね。言うまでもないけど、彼女にはすごい才能がある。スキルがあるんだ。彼女のお父さんが映画を監督していて、彼と会って言われた、「あぁ、君ならできると思うよ、ただ、台本をちょっとだけ読んでほしいんだ。」。「いいですよ、読みましょう。」ってそれを読み、俺は役を手に入れたってわけ。台本の中の歌は「クルージン」じゃなく、別の歌だった。そして、グウィネスが歌を選んでいるところだって言われた。

そして歌が送られてきた。「グウィネスはスモーキー・ロビンソンの「クルージン」を選んだ」って言われた、思い出せなかったね、知らなかったんだ、スモーキー・ロビンソンの昔の歌は全部知っているのに。「クルージン」を知らなかった。でも、グウィネスと一緒に仕事をするのは本当に喜びだった、彼女はとてもプロフェッショナルでとても優秀だからね。楽しかった、演技が必要だったけど、本当の演技がね。

<2014年>
Q:あなたは、すべてが完全にうまくいったという特別なパフォーマンスを覚えていますか?



A:大晦日の前日の12月30日、コロラド州アスペンのベリーアップBelly Upでのギグを思いだす。チーム・スポーツのようにプレイが出来た時、音楽はとても楽しいものになる。音楽はあるポイントに連れて行ってくれる。ポケットに入ると、波乗りのようだ、努力なんて一切いらない。歌は勝手に歌いだし、あとはただついて行くだけだ。それはすべてのギグである程度起こることだ。でも、最高のギグでは、ほとんどの時間に起こるんだ。そして、それは俺たちがやろうとしていることだ、ポケットに入ること。それは最高のフィーリングだ、歌いながら、何も考えていない、ただ波に乗っているだけだ。それこそ最高のフィーリングだ。

<2020年>
Q:私はメニエール病というニュースが発表された時に強いショックを受けました。それはいつ起こったのですか?



ずっと前にメニエール病と診断されましたが、これは症状に基づく症候群です、つまり、本当はそれが何であるか分かっていないということだ。症状は変動する。ある日、俺は元気だが、違う日にはあまり良くない。今日は良くないな。最近は、1から10で言うと6くらい。2年前と同じくらいの良さ。6のときは、歌えそうな気がする。ただ問題は、6の状態を長くは維持できないことだ。

30年前に右耳を失聴した。80%を失い、20%程度しか聞こえない。そして今、残念だが、2018年1月27日に左耳を失聴した。まだ状態は変動しているが良くはない。最大限に良い状態では、歌えるかもしれないと思うがリハーサルを予約するほど安定し続けることはない。安定させることはできない。ただ待っている。安定することを望んで。

Q:左耳の聴力を失ったとき、音楽との関係は完全に変わりましたか?

A:あぁ、終わったね。音楽がまったく聴けない。文字通り2年の間、音楽を聴いていない。キーが何か分からない。ピッチも。怖くなる。

Q:だから、あなたは新しいアルバムをとても重要に思っているの?

あぁ、俺たちは歌が大好きで、最高の仕事だと本当に思っている。今日、世界で起こっているあらゆる物事の中で、俺がやろうとしているのは、これらの曲にできうる限り最高の見送りをしてやることだ。(Today, with everything that’s going on in the world, what I’m trying to do is give these songs the best send-off I can.)




三匹の小鳥 

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今年が生誕75周年ということで「 Marley75」と題されたアニバーサリー・イベントが進行中のボブ・マーリー。

Redemption Song



その一環でボブ・マーリーの代表曲がアニメーションをフィーチャーした公式ビデオとしてリリースされています。すでに「Easy Skanking」「Redemption Song」のビデオが発表されていますが、4月17日には新しく「Three Little Birds」のビデオが追加されました。

Three Little Birds



ビデオの発表に合わせてボブの娘のセデラからファンのみならず世界中の人びとに向けられたコメントが届いています。

>「この歌は、私を含め、長年にわたり多くの人々に希望と光を提供するのに役立ってきました。そして私は願います、今こそ、世界中で起こっているすべてのことに対し、この歌が同じように役立つことを。」

>気にすることは無い
どんなに小さなこともうまく行くさ
だから 気にすることは無い
どんなに小さなこともうまく行くから

朝がやって来て 太陽に微笑む
ドアのそばに 三羽の小さな鳥
きれいな歌を奏でてる
純粋で真実のこもったメロディ
「あなたのための歌だよ」って

気にすることは無い
どんなに小さなこともうまく行くさ
だから 気にすることは無い
どんなに小さなこともうまく行くから


・・・・さぁ、今日も元気でいきましょう!!

(実をいうとこの曲、曲自体は耳馴染みはあったのですが、「Three Little Birds」というタイトルであることを今回初めて知りました、トホホです)

ワッバッパルーラッパロッバンバンー 追悼リトル・リチャード

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Little Richard/Tutti Frutti (1955)


ワッバッパルーラッパロッバンバンー
トゥティフルッティー オゥール トゥティフルッティー オゥール 
トゥティフルッティー オゥール トゥティフルッティー オゥール 
トゥティフルッティー オゥール 
ワッバッパルーラッパロッバンバンー

女ができた ディジーってんだけど
いつも俺をメロメロにしやがる
女ができた ディジーってんだけど
いつも俺をメロメロにしやがる
俺の愛し方をすべてご存知さ
そうさ ほんとさ
こどもにゃ分かんないぜ
あいつが俺にしてくれることは

トゥティフルッティー オゥール トゥティフルッティー オゥール 
トゥティフルッティー オゥール トゥティフルッティー オゥール 
トゥティフルッティー オゥール 
ワッバッパルーラッパロッバンバンー


英国の音専誌MOJOが2007年に特集した有名ミュージシャンが選ぶ「世界を変えた100枚のレコード」という特集で見事に1位を獲得したリトル・リチャードの「トゥッティ・フルッティ」です。いきなり余談になりますが僕は最近までこの曲のタイトル「トゥッティ・フルッティ」だと思っていました。お恥ずかしい限りです。

$鳥肌音楽 Chicken Skin Music

トゥッティ・フルッティを辞書で調べると”刻んだ数種の果物(とつぶしたクルミ)を入れたアイスクリーム”ということのようです。自分の彼女がトゥッティ・フルッティのようにとろけるように甘くてそのうえ彼女は僕の悦ばし方をよーく心得ていて天にも登る心持ちにしてくれるぜ、ワッバッパルーラッパロッバンバンーという歌ですね。 "Tutti Frutti, aw Rudi,"の部分は元々は"Tutti Frutti , Good Booty "、つまり”トゥッティ・フルッティ、最高のお×こだぜ”という直接的な歌詞だったということを知るとこの歌が歌っているものが何かはようくお分かりいただけるかと。

”ワッバッパルーラッパロッバンバンーA wop bop alu mop, a wop bam boom!”は絶頂の雄叫びで、この叫びにロックン・ロールの全てが凝縮されているがゆえの「世界を変えた一枚」なのだと思います。


この曲が発売されたのは1955年9月で黒人主体のR&Bのチャートでは2位という大ヒットで、白人が主体のポップ・チャートでも17位といいますからかなりのヒットとなり黒人だけでなく白人層にも聞かれていたことが分かります。

さて、ロックンロールの象徴(後世から見たときですが)ともいうべきこの曲を白人のアイドル歌手パット・ブーンがカバーします。

Pat Boone-Tutti frutti


いかがでしょうか、二つを聴き比べてどのように感じられるでしょうか。パットの”ワッバッパルーラッパロッバンバンー”からはリチャード版の「セクシャルな絶頂感」は一切伝わってこないように僕には聴こえます。実はパット自身もカバーが決まったときに”僕には歌いこなすセンスが無い”とカバーを嫌がったらしいです。

パット・ブーンのカバーが発売されたのは56年1月となっています。しかしポップ・チャートの最高位12位に達したのが56年1月28日となっていますから、本当は55年末に発売されていたのではないかと思います。先ほどリチャードのオリジナルはポップ・チャートで17位まで上がったと書きましたが最高位を獲得した日付を見ると56年の1月14日となっています。発売が9月ですから間がちょっとあきすぎています。推測すると9月に発売され10月か11月にR&Bチャートの2位になったのを見たパットのプロデューサーがカバーを思い立ち年末までに発売し、そのシングルのチャートが上昇するにつれオリジナルのリチャードのバージョンも今度はポップ・チャートを上昇しパットと競うように14日に17位を記録したということだったのではないかと思います。

恐らく大多数の白人ファンはパットがカバーによって初めてリチャードのバージョンを知ってポップ・チャートでも17位に食い込んだということかと思います。それにしてもパット・ブーンの歌に耳なじんだ白人層が初めてリチャード版を聴いた時はどんな風に思ったんでしょうね。自分の経験で推測すると77年に初めて「アナーキー・イン・ザ・UK」を聴いた感じと似たりしてるのではと想像いたします。



つまりは”なんじゃコリャ!?”というもの。

団子になった演奏、時に不必要に引き延ばされたり、時に唾を吐くように歌われる歌声といい昨日まで聴いてきたロックとは異形の理解不能の音楽でした。

そんな理解不能の歌も40年経った今聴くと普通のR&Rに聴こえてしまいます。時の流れというか「慣れ」は本当にこわいと思います。

閑話休題、おそらくはパット・ブーンのカバーのおかげもあってポップ・チャートでもヒットした「トゥッテイ・フルッティ」、当然マーケットとしてはR&Bよりポップの方が大きいわけでレーベル(スペシャルティ)的にも当のリチャード的にもおいしい話だと思うのですが、そうは思わなかったようです。

プロデューサーのバンプス・ブラックウェルがリチャードの次のシングルを作るにあたって一番に考えたのは、パット・ブーンがカバーできないようなとにかく早口の歌を作るということでした。そうして出来上がったのがのっぽのサリー(オカマ説あり)がジョンおじさんといけない関係になる「のっぽのサリーLong Tall Sally」でした。



この歌の”He saw Aunt Mary comin' and he ducked back in the alley ”という箇所をブラックウェルはリチャードに何回も練習させて、これだけやりゃ白人野郎には絶対真似できねぇということでシングルとして発表し1956年4月7日にポップで最高位6位、R&Bでは1位のビッグ・ヒットとします。ちなみにこのシングルがスペシャルティで最も売れたレコードなのだとか。

絶対真似できっこねぇとした「のっぽのサリー」ですが、意に反してパット・ブーンがすぐさまカバーし、リチャード版がピークの6位となった翌週の4月14日に最高位8位のヒットとしています。



リチャード版に比べればなんとも迫力にかけたバージョンと思ってしまうのは、今の耳で聞くからなのではあってこれでも当時としてはかなり刺激的であったと思われます。ともあれ、ポップ・チャートではリチャード版がより人気だった分けで、短期間の間にアメリカの聴衆の耳がR&R耳になってきていることを示していると思われます。それにしてもパット・ブーンの8位という結。果はブラックウェルとリチャードにとっては「勝ち」だったのか否か、延長戦がありそうな感じにも思えるこの戦いなのですが、プレスリーの登場によりパット・ブーンはあっさりR&B路線からクルーナー路線へと方向転換し、より大きな成功をおさめることになったことを考えると、ブーンの見事な敗者復活劇といえるのかも。

砂に書いたラブレター


「のっぽのサリー」は英国では56年にパット・ブーンで18位、翌57年の2月にリチャード版が3位というヒットになっています。日本で言えば中学生の少年がおそらくはリチャードの歌をラジオで聴いて歌手になることを夢みます。長じた少年は4人組のバンドを結成、パット・ブーンがロックンローラーになることをあきらめた「のっぽのサリー」を見事に歌い白人でも黒人に負けないロックンロールが歌えることを証明してみせます。その人はもちろんジェームス・ポール・マッカートニーですね。

The Beatles/Long Tall Sally



ボブ・ディランの愛するソング・ライターは誰?

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『Together Through Life』リリース前ということなので、かれこれ11年前(もう、そんな前なのか)のインタヴューですが、ボブ・ディランが好きなソング・ライターについて、また他のベテラン歌手のようにヒット曲を昔のままのスタイルでノスタルジックなライヴをやらないのかについて語っています。

HUFFPOSTの「Bob Dylan Exclusive Interview: Reveals His Favorite Songwriters, Thoughts On His Own Cult Figure Status」よりの引用です。

Bill Flanagan(BF):好きなソング・ライターはいますか?

Bob Dylan(BD):(ジミー・)バフェットかな、(ゴードン・)ライトフット、ウォーレン・ジヴォン、ランディ(・ニューマン)、ジョン・プライン、ガイ・クラーク、そんな人たち。

BF:バフェットのどの曲が好きですか?

BD:「Death of an Unpopular Poet」、あと 「He Went to Paris」みたいな曲。





BF:あなたとライトフットは昔からの友人ですよね。

BD:そうそう。ゴードはずっと私の近くにいる。

BF:好きな曲は?

BD:「Shadows」、「Sundown」、「If You Could Read My Mind」。嫌いなものは考えられないな。







BF:ジヴォンを知っていた?

BD:詳しくないけど。

BF:彼のどこが好きでしたか?

BD:「Lawyers, Guns and Money」 「Boom Boom Mancini」強い酒を呑むみたいなやつ。「Join me in L.A.」みたいな本格的なものと原始的なものの境界線をまたぐようなもの。パターンがいたるところに見受けられるのは、おそらく彼が古典的な音楽の訓練を受けているからだろう。ジヴォンの歌の中に3つの異なる歌があるかもしれないけど、それらはすべて易々とつながっている。 ジヴォンはミュージシャンズ・ミュージシャンであり、悩めるミュージシャンだった。 「Desperado Under the Eaves」にはすべてがあるよ。










BF:ランディ・ニューマンは?

BD:あぁ、ランディ。何が言える?彼の初期の曲「Sail Away」、「Burn Down the Cornfield」、「Louisiana」が好きだ、彼はシンプルにやっている。売春宿の歌だ。彼はプリンスだ、ジェリー・ロール・モートンの明らかな相続人だと思うよ。彼のスタイルは欺くことだ。彼はとてもレイドバックしていて、重要なことを言っているのを忘れてさせてしまうくらいだ。ランディは別の時代と結びついている、私みたいに。








BF:ジョン・プラインはどうですか?

BD:プラインの歌は純粋なプルーストの実存主義だ。中西部のマインド・トリップは不特定だ。彼は美しい曲を書いている。クリス・クリストファーソンが最初に彼を現場に連れてきたときのことを覚えているよ。ヤク中の帰還兵を歌った「Sam Stone」や10マイル離れて恋する人の「Donald and Lydia」といった全ての歌。あんな風に書けるのは、プラインだけだ。彼の曲を1曲選ばねばならないとしたら、「Lake Marie」かな。どのアルバムだったかは忘れたけどね。










BF:あなたの世代のライヴ演奏の多くは、ノスタルジアを売りにしてるように思えます。みんな過去30年間、同じやり方で同じ曲を演奏しています。あなたは何故そうしないのですか?

BD:やろうと思っても出来なかった。あなたが話題にしている人たちはみんな多くのヒット曲を持っている。反体制でスタートし、今は世界について歌っている。祝福の歌だ。壮大なディナー・パーティーのための音楽。一般的な文化に迎合したメイン・ストリームの音楽。私の歌はそういった人々の唄とは異なっている。もっとやけくそだ。
ダルトリー、タウンゼンド、マッカートニー、ビーチ・ボーイズ、エルトン、ビリー・ジョエル。
彼らは完璧なレコードを作った、だからそれらを完璧にプレイしなければならない...人々がそれらを覚えているのとまったく同じやり方で。私のレコードは完璧じゃなかったんだ。だから、それらを複製しても意味がないんだ。とにかく、私はメイン・ストリームのアーティストではないんだ。



BF:じゃあ、あなたはどんなアーティストなんですか?

BD:わからないよ、ビロネスク(ジョージゴードンバイロンの作品を彷彿とさせ、情熱的で傲慢で自己破壊的なヒーロー)かもね。思いだしてくれ、私が歌い始めたとき、メインストリームのの文化はシナトラ、ペリー・コモ、アンディ・ウィリアムズ、「サウンド・オブ・ミュージック」だった。当時、そういったものに迎合することは無かった、そしてもちろん、今も迎合していない。いくつかの曲はクロス・オーヴァーしてヒットしたけど、ぜんぶが他の歌手によって歌われたものだった。



BF:迎合しようと思ったことはない?

BD:あぁ、それはなかったな。私はフォーク・ミュージック出身で、それが私の固有言語で経験してきた典型的な美学だ。それが私の音楽の原動力だ。トライしたとしてもブリル・ビルディングの曲は書けなかった。ポップ・ミュージックとして合格するものは何であれ、その時はできなかったし、今もできない。







だからさ母さん、僕のコダクロームを取り上げないでよ(再掲)

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昨日(7/4)のウィークエンドサンシャインでポール・サイモンの「僕のコダクローム」がかかっていました。マッスル・ショールズ・スタジオのお抱えギタリストであったピート・カーの訃報をうけてのものでした。そういや「鳥肌音楽」で「僕のコダクローム」について書いたことあったよな、とうことで追悼の意味も込めて2006年1月29日の記事を再アップさせていただきます。(ピート・カーについてはほとんど触れていませんが・・・)

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昨日、Yahooのトップページにこんな見だしがありました。

>カメラ業界 フィルム事業縮小…愛好家に波紋

デジタル・カメラに押されてフィルム式のカメラがほとんど売れなくなり、メーカーの撤退があいついでいるという記事です。カメラについて門外漢の僕でもニコンやミノルタの名前は知っているようにかっては日本の技術力を代表したメーカなのですが、時代の流れには抗えないということみたいです。

ところで何故このブログには場違いなニュースを取り上げたかというと記事の中にこんな一文があったからです。

>戦後、その性能を世界に認められたニコンは、英語で「ナイコン(Nikon)」と発音され、70年代にポール・サイモンが「僕のコダクローム」で「ナイコンのカメラを手に入れたんだ」と歌ったほど親しまれた。



それだけニコンのカメラが世界的だったっていうことを言いたかったんでしょうが、たしかに日本でもかなりヒットしたナンバーではありますが、今の若い人達が知っているようなスタンダードかといえばそうでもないでしょうし、この記者さん若い時にポール・サイモンが大好きでついつい入れちゃったのかなと思ってしまいました。

この曲が発売されたのは1973年、僕は中一でAMラジオから流れるポップ・ソングに夢中になりはじめた頃でした。ちなみに当時どんな音楽が流れていたかTBS「今週のポップスベスト10」の「僕のコダクローム」が1位になった週のベスト10を見つけたので引用いたします。

1位 ポール・サイモン「僕のコダクローム」
2位 ポール・マッカートニー&ウィングス「マイ・ラヴ」
3位 スリー・ドッグ・ナイト「シャンバラ」
4位 ジョージ・ハリスン「ギヴ・ミー・ラヴ」
5位 カーリー・サイモン「愛する喜び」
6位 ギルバート・オサリバン「ゲット・ダウン」
7位 カーペンターズ「イエスタデイ・ワンス・モア」
8位 スティビー・ワンダー「サンシャイン」
9位 ブレッド「オーブレー」
10位 ロギンス&メッシーナー「愛する人」

うーん書きながら「イエスタデイ・ワンスモア」の歌詞のように素敵なメロディたちが頭の中に浮かんでは消えていく、誰でもこういう時代にラジオ聞いてたらポップス・ファンになっちゃいますよね。

閑話休題




高校で教わったあのガラクタたちのことを思い出すと
不思議だね そう思わない
だって学校の勉強ができなくても
それで傷ついたことなんてありゃしない
壁の落書きだって読めちゃうんだからさ

コダクローム
素敵な明るい色と
夏の緑を僕らにくれる
世界中の太陽輝く1日だってね
ナイコン(ニコン)のカメラを手にいれたよ
写真を撮るのに夢中なんだ
だからさ母さん、僕のコダクロームを取り上げないでよ


僕が独身だった頃の
知り合いの女の子全部を写真に撮って
この夜のために持ってきたとしても
僕の甘い想像力のためには
役に立ちそうもないな
だって白黒の写真だと
すべてがつまんなく見えちゃうんだよ

コダクローム
素敵な明るい色と
夏の緑を僕らにくれる
世界中の太陽輝く1日だってね
ナイコン(ニコン)のカメラを手にいれたよ
写真を撮るのに夢中なんだ
だからさ母さん、僕のコダクロームを取り上げないでよ

だからさ母さん、僕のコダクロームを取り上げないでよ


>僕の甘い想像力のためには 役に立ちそうもないな
って今になって思うとちょいいやらしい意味合いがあったのかなぁなんて。

楽曲的にはとてもカラっとしてちょっとラテンっぽい陽気なナンバーで、白黒からカラーになってイマジネーションが解放され自分の世界も明るくなった。だから写真撮って遊んでばっかりいるからってコダクロームを取り上げないでよっていう昔ながらのポップ・ソング風の歌詞がよくはまっています。

お袋にコダクロームをとりあげられるっていうくだりはなんとなく、親父にTバードをとりあげられる「ファン・ファン・ファン」を思い出させてくれたりもします。

撮ってすぐ画像を確かめられるデジカメは確かに便利なんだけど、いっぱいになったフィルムを現像し、数日後にドキドキしながら写真を見る一瞬の楽しみが無くなってしまうのは寂しいと思うのはアナログ世代のノスタルジーなんでしょうかね。

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さてと「コダクローム」を夢中になって聴いていた中学生の時には気づいてなかったんですが、後年クレジットを見てびっくりでした・・・以下のようなクレジットです。
Guitar:Paul Simon,Pete Carr
Elec,Guitar:Jimmy Johnson
Bass:David Hood
Drums:Roger Hawkins
Keyboards:Barry Beckett
Engineers:Jerry Masters &Phil Ramone
Recorde at Muscle Shoals Sound Studios Muscle Shoals Ala


そうサザン・ソウルのメッカ、マッスル・ショールズ・スタジオで名うてのミュージシャンをバックに録音されていたのです。

アルバム『ひとりごと』から2nd(3rd?)シングルとなった「母から愛のように(Love Me Like a Rock)」もマッスル・ショールズの面々にゴスペル・グループ=ディクシー・ハミング・バーズのコーラス入りでした。


当時は単純にポップ・ソングを聴いているという意識しかありませんが、その後聴くようになる南部指向のロックのグルーヴみたいなものを知らず知らずに刷り込まれていたのですね。

思えば大好きなハル・ブレインのドラムとの初めての出会いもS&Gの「明日に架ける橋」だったりするし



ポール・サイモン、侮りがたしと思ったりした鳥肌音楽でした。

ブロンドの轍 エマ・スウィフトの歌うボブ・ディラン

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ナッシュビルのSSW、エマ・スウィフトによるボブ・ディラン『追憶のハイウェイ61』の収録曲「クイーン・ジェーン」のカバーがアップされました。



いつもながらに他人がカバーするとあらためて気づかされるのですが、こんなに綺麗な歌だったんですね(笑)。

この曲、8月14日にリーリースされる『Blonde on the Tracks』という、タイトルを聞けば想像のつくであろうディランのカバー・アルバムに収録されています。

プロデューサーはウィルコのPatrick Sansone。

2曲目のディランにとっても出たばかりの新曲「I Contain Multitudes」のカバーにはギターでRobyn Hitchcockも参加しています。この曲もステキな曲です。



収録曲をみても「スナー・オア・レイター」とか「運命のひとひねり」「ローランドの悲しい目のの乙女」とか、どんなカバーになっているんだろうとアルバムが待ち遠しくなります。

Blonde on the Tracks by Emma Swift
1.Queen Jane Approximately
2.I Contain Multitudes
3.One of Us Must Know (Sooner or Later)
4.Simple Twist of Fate
5.Sad Eyed Lady of the Lowlands
6.The Man In Me
7.Going Going Gone
8.You're A Big Girl Now

Recorded in Nashville, TN at Magnetic Sound, Tiny Door and Tubby Towers.
Produced by Patrick Sansone (WILCO)
Guitar, keyboards, bass, percussion: Patrick Sansone
Guitar: Robyn Hitchcock
Pedal steel: Thayer Serrano
Bass: Jon Estes
Drums and percussion: Jon Radford

All songs written by Bob Dylan BIG SKY MUSIC

エマ・スウィフトという人、いままで知らなかったのでウィキで調べてみました。

>エマ・スウィフトは1981年12月15日、オーストラリアのシドニー生まれのシンガーソングライターです。

ナッシュビルでプロデューサーのアン・マッキューと一緒に録音した彼女のセルフ・タイトルのEPは、2014年のARIAアワードでベスト・カントリー・アルバムにノミネートされています。2013年にナッシュビルに転居。スウィフトはラジオDJとして、FBiラジオでアメリカーナの番組「イン・ザ・パインズ」を担当しています。

ロビン・ヒッチコックと一緒にアメリカ、オーストラリア、イギリス、ヨーロッパをツアーし、2015年の「フォロー・ユア・マネー」と2016年の「ラブ・イズ・ドラッグ」というティン・英司・ファン・クラブのノーマン・ブレイクがプロデュースした2枚のコラボ・シングルをリリースしています。2017年のヒッチコックのアルバムでは義理アン・ウェルチ、パット・サンソンと共にバッキングボーカルを務めました。2016年のライアン・アダムスのオーストラリア・ツアーでは前座を務めています。

Discography
Solo
Emma Swift EP (2014) – Laughing Outlaw

Robyn Hitchcock
"Follow Your Money" Single (2015)
"Love Is a Drag" Single (2016)
"Robyn Hitchcock" LP - Yep Roc Records (2017) - backing vocals

Adam Young
"Elementary Carnival Blues" LP - Stanley Records (2016) - backing vocals

何ともあっさりとした記述なのですが、ロビン・ヒッチコック、ノーマン・ブレイク、ギリアン・ウェルチ、ウィルコのパット・サンソン、ライアン・アダムスとなんとも気になる名前が登場しています。今回のアルバムが自身の作品としては2枚目となるようですが、「Queen Jane Approximately」「I Contain Multitudes」を聴く限り、今後ウィキの記述が詳しく長くなっていきそうな予感がします。


YOUTUBEにはニール・ヤングのカバーも。



こちらはロビン・ヒッチコックとのラジオ・オン・エア用のミニ・ライヴ。

Songs:
Life Is A Change
Love Is A Drag
Glass Hotel
Just Like A Woman
Ole! Tarantula



サニー きのうまでのぼくのじんせいはあめふりさ

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せっかくの4連休も雨続きなので音楽くらいは晴れの一曲を。

1966年の今週、ボビー・ヘブの代表曲「サニー Sunny」 がビルボード・チャートで最高位2位のヒットとなりました。



上の写真は「サニー」が日産のサニーのTVCMに使われ(そのままやんけ)たことで、再リリースされたシングルのジャケットです。この歌はとにかくカバーの多い歌なので、もちろん以前から知っていたし作者であるボビー・ヘブのものが特に好きで、学生時代にレコード店で見つけて買ったものでした。

詳しい日付はいつ頃だったのかと、レコード番号の7PP-25で検索かけてみると、この番号では分からなかったのですが、近い番号の7PP-23トーキング・ヘッズの「ヒート・ゴーズ・オン」と7PP-27ブームタウン・ラッツ「燃えるギルティー」の間なので、順番通りの発売であれば80年末頃、僕が大学2回生の時に買っているようです。

タイトル、そしてこの再発シングルのジャケを見てもお分かりのようにとにかく晴れ晴れとした気分となる一曲です。



>サニー、昨日までの僕の人生は雨でいっぱい
サニー、きみがほほ笑めばそんな傷みもふっとぶ
暗い日々は過ぎ去り 晴れた日がやってきた
僕のサニーが優しく輝いているから
あぁサニーきみこそ真実 愛している


Sunnyというのが「晴れた」という意味だけでなく男女どちらにも使える名前だったりもするので、捉え方に幅が出てくる歌詞でもありますね。基本的にはラヴ・ソングと思われていますが、中には神による愛と慈悲の歌という解釈もあるようです。

しかしながら、ボビー・ヘブが「サニー」を作曲したきっかけは決してジャケットのような晴れ晴れしいものではありませんでした。

ボビー・ヘブの歌う「サニー」がヒットしたのは66年夏ですが、ヘブが曲を書いたのは63年の11月のことでした。全米が震撼した11月22日のジョン・F・ケネディ大統領の暗殺にショックを受けた翌日に今度は歌手としても尊敬していた兄のハロルドがナッシュビルのナイトクラブでライヴを終えた後、店の外で強盗によって刺されて死亡してしまいます。この二つの死の48時間後には出来上がっていたという「サニー」は絶望感により落ち込んでしまった精神のバランスを保つ役目を果たしたといいます。

曲が書かれた時の様子を語った音声がTorpedo Boyzの2006年の「Trust、Integrity&Pure Love」に引用されています。



>NYのセカンドアベニューに近いブランデーズというレストラン・バーでライヴを行っていた。私はテネシー・ウイスキーの影響下にあった、ほんとヘロヘロだった。眠ってしまうんじゃないかと恐れていた。見上げると紫の空が見えた。ギターを手に取り、鉛筆はなしで書き始めた。そうしてこの曲が生まれたってわけだ。ずばりって感じさ。

どんよりと曇った空を見上げながら「晴れた」歌を作ったというわけですね。

ヘブの精神のバランスを保つために作られた曲でしたが、というか、だからこそというか「サニー」はすぐに発表されることはありませんでした。後に多くのカバーが作られスタンダードとなる「サニー」を最初にレコードとして世に送り出したのは、なんと弘田三枝子でした。



1965年7月、18歳の弘田三枝子はニューポート・ジャズ・フェスティバルに出演するために渡米。出演後1ヶ月間滞在し、ビリー・テイラー・トリオをバックにアルバムを録音し『Miko In New York』として発売されました。ヘブのバージョンの1年前に発表されていてこちらがオリジナル・ヴァージョンということになります。

聴いてもらえば分かるようにジャズ・トリオをバックにしてのアプローチだからかもしれませんが、ヘブ版とはかなり印象が違って聴こえます。ひょっとして出版社にあった元々のデモはこちらに近い感じだったのかも知れませんね。

オリジナルは弘田三枝子ですがアメリカ人による最初の録音はマリンバ奏者のデイブ・パイクによってアルバム『Jazz for the Jet Set』の中の一曲として65年末に録音され翌66年に発表されています。



アルバムの録音にはビリー・テイラー・トリオのドラムスのグラディ・テートも参加しているので、彼からの提案で録音されたのかもしれないですね。ちなみにオルガンはハービー・ハンコックのようです。

ヘブ版は弘田版よりこちらの雰囲気に近い気がしますね。ひょっとしたら、ヘブはこちらのイメージを参考にしたのかも知れないですね。

何れにせよ63年の作曲から3年弱、ようやくヘブにも「サニー」の録音の機会が訪れます。プロデューサーのジェリー・ロスが招集したセッションで目的の録音が終わった後の残り時間を利用して「サニー」が録音されます。

ヘブは「サニー」について以下のように語っています。

>「Sunny」は性質のことです。陽気な性質であるか、嫌な性質であるか。叫び声をあげ誰かに怒っているのか、「いや、まぁ、怒っちゃいない。話し合おうよ。前向きで、楽しい方法をね」なのか。まあ、その楽しい方法っていうのがsunnyな気質なんだ..。カオスに陥らないように少しリラックスするためにその種のニュースを広めるんだ、カオスは時に殺人を引き起こすからね

デイヴ・パイク版を下敷きにした録音で満足のいく「Sunny」を表現できたのか、ようやく発売されたヘブの「サニー」は前述したように全米2位の大ヒットとなりマーヴィンゲイ、ダスティ・スプリングフィールド、スティービー・ワンダー、エラ・フィッツジェラルド、フランク・シナトラ、シェール、ホセ・フェリシアーノ、ウェス・モンゴメリー、ジェームス・ブラウン、ベンチャーズ、フォーシーズンズフランキー・ヴァリ、ナンシー・ウィルソン、ジミー・スミス、フォー・トップス、ブッカーT&MGズなど数多くのカバーを生み出します。BMI調べでは最もオンエアされた楽曲のランキングで18位、発売当初「ラジオでかかって小金が入ればいいや」くらいだったヘブの思惑をはるかに超えて、ラジオをひねればいつもかかっているエヴァーグリーンな一曲になったのでした。

PS.一時期ジョンBチョッパーが抜けて3人(サンニンー)になっていたウルフルズの、ジョンBの復活で元の4人に戻った喜びを歌った「四人」。作者のクレジットはトータス松本となっているのですが、どう聞いてもボビー・ヘブですね。やりやがったなトータス、いや銀次さんか?




くまのプーさん危機一髪

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ニッティ・グリティ・ダート・バンド(NGDB)が名作『アンクル・チャーリーと彼の愛犬テディ』で取り上げたことで、ケニー・ロギンスの名前が業界で知られるきっかけとなった「プー横丁の家」。

「プー横丁の家」をNGDBが曲を気に入り、ケニー・ロギンスにとってソング・ライターとして初めてのレコードが生まれようとします。しかしNGDBが録音をしようとしたところ、アニメ化をしたことで「くまのプーさん」の著作権に絡んでいたディズニーによって録音は阻止され、「プー横丁の家」のレコード化の話は立ち消えそうになります。しかし、そんな危機はある出来事で回避されめでたくシングルとして発売されます。



以下、ケニー・ロギンスの2014年の The Tennesseanのインタヴューの抄訳を載せときます。最後のオチ(!?)に「嘘やろ」とつぶやくこと間違いなしと思います(笑)

>えぇっと、高校を卒業しようとしてたんだ。何でか分からないけど「プー横丁の家」の最後の章について考えてたんだ。僕が初めて読んだ本なんだけどね。最後の章でクリストファー・ロビンは100エーカーの森を去り、みんなに別れを告げていて、それって僕の高校での経験に似ていると思ったんだ。僕のどこかに、子供の部分が残ってたんだ。そんなことってほとんど考えても無かったんだけど。その時に分かったんだ。

僕はくまのプーさんについて、この曲を書いたんだ、でも17歳だったので知らなかったんだ、くまのプーさんの曲を書くことは許されてないことを、著作権を所有する人々がいるってこともね。当時、僕はソング・ライターとしては、ナッシュビルで行われている、ライターの集まる、さまざまなパーティーに出かけていた…、僕が行ったあるパーティーで、ニッティ・グリティ・ダート・バンドって言う名前のバンドのメンバーの何人かが来ていた。彼らは有望株で、僕のその歌を気に入っていた。彼らは言った、「俺たちはアルバムのための曲を探しているんだ。そいつをレコーディングしたいんだけど。」って。

僕は本当に興奮した。僕の歌が録音されたことは一度もなかったからね。1か月ほど後、ダート・バンドのリーダーであると思われるジョン・マッキューエンから電話があった。「ケニー、本当にすまない。あの曲を録音することはできないんだ。ここ数週というもの、ディズニーの弁護士からの電話が殺到しているんだ。くまのプーさんの曲を録音することは許されないそうだ。」

僕はその日、デートに出かけた。そしてガール・フレンドに話をした、「今夜はちょっと参ってるんだ、僕の曲が初めて録音されると思ってたんだけど、駄目だったんだ。ディズニーの弁護士が邪魔してるんだよ。」彼女は僕を見て言った、「ディズニーの弁護士ですって?パパと話しましょ。」僕は知らなかったんだ、ディズニーのCEOの娘と付き合っていたなんて。






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