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ジョン・レノンと真珠湾

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しょうこりもなくジョン・レノンについて書きます。

鳥肌音楽 Chicken Skin Music


昨年までジョンのエントリは頑なに12月9日にアップしてきました。何故かといえばジョンの命日は日本の日付でいえば12月9日だからです。12月8日というのはニューヨーク時間での命日、8日だと一日早いやんという想いがありました。でもよく考えてみればジョージの命日の11月29日にしてもJBの命日12月25日にしても現地時間を命日として別に違和感なく記憶しているわけだし、ジョンだけ特別にするのも僕がいつも嫌な気分になるジョン=カリスマの裏返しみたいなもんという気もちょっとしてきましたので今年から12月8日でいきます。

まぁ12月9日にこだわる人は僕以外にも多いかと思いますが、そういった方は皆さんあの日ジョンの死を知った瞬間のことを鮮明に記憶しているからでしょう。僕で言えば12月9日のたぶん3時くらい、学館で生協主催のレコード・セールがあり、そこで『ダブル・ファンタジー』を買いサークルBOXへ向かいドアを開けると、そこにいたdracーob先輩から「ジョンが死んだで、暗殺や」と言われた時がその瞬間でした。ショックでBOXをそこそこに退散し三畳の下宿で一晩中何も食べず酒だけ呑んで『ダブル・ファンタジー』を聞いていました。だから12月9日という日は死ぬまで忘れられない日になりました。個人的なことを言うと僕を可愛がってくれたおばあちゃんの命日でもあり12月9日は本当に特別な日なのです。

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ジョンが死後『ダブル・ファンタジー』は大ヒットし(正直死ぬ前は久々の新譜の割には動きが鈍かったと記憶します、僕もそうだったんですが、やはり半分ヨーコというのがネックだった気がします)いったん品切れしたLPが再プレスされ店頭に並んだときにはもともとの帯の横に細い幅の「追悼盤」という帯がつけられておりすごく悲しい気分になりました。

12月8日をジョンの命日とするのが嫌だったのは、その日がもうひとつ大きな意味を持つ日だからです。それはもちろん太平洋戦争が始まった真珠湾攻撃の日であり、生前に平和運動に熱心だったジョンと「戦争」を結びつけて語る人が出てくるだろうことが予測されたからです。

案の定、先ほど「ジョン・レノン」「真珠湾」というキーワードで検索すると10万件以上がヒットしました。中には二つを結び付けないでという内容のものもあるとは思いますが大部分は「平和の人ジョン」が「戦争」が始まった日に死んだということに何らかの運命を感じるといった内容のものだと思われます。この数、年々増えている気がしますが、これって日本の特殊事情(「戦争」=「太平洋戦争」ですから)なんですけどね・・・

日本の特殊事情といえば、ジョンの奥さんが日本人のヨーコ・オノであったことも大きく影響しているように思います。とにかくヨーコはジョンを「愛と平和」の人にしたいようですからね。

まーしーさんのブログで書かれていた以下の一文に思わず「意義ナシ」と叫んでしまいました。


>生きているときのジョン・レノンと亡くなってからのジョン・レノンというのは
別人のような気がしています
それはオノ・ヨーコの作戦というか陰謀のせいなのですがね
亡くなってからのジョン・レノンのイメージというと
「愛と平和」を歌に託して世界にメッセージを発信し続けたドリーマー、、、というところでしょうか
父親として夫としてもすごくやさしい良い人だったという印象ですね
これは ヨーコの作戦が大成功しているということです

僕はこう考えています
亡くなってから現在までに作られているジョン・レノンという人物像は
芸術家オノ・ヨーコが生涯をかけて作り上げつつある作品である


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まぁ家族ですからね仕方ないといえば、それまでなんでしょうけど・・・



もっと書きたいのですが時間がないので本題は真の命日の9日に。





You have to do it yourself

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1980年時点のジョン・レノンは共和党のレーガン大統領に投票していたはずと元アシスタントが語る NME

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1980 年の時点でジョン・レノンはかつての左翼的な考え方を捨てていて、もしアメリカでの参政権を持っていたらレーガン第40代大統領に投票していたはずだと、ジョンのかつてのパーソナル・アシスタントが語っている。
1979年から80年までジョンのアシスタントを務めていたフレッド・シーマンはこの度完成した新しいドキュメンタリー『Beatles Stories』で、ジョンは晩年、自身のかつてのラディカリズムについて恥ずかしく思っていたと語っている。

シーマンは「ジョンは自分がアメリカ人だったら絶対に(共和党の)レーガンに投票すると明言していて、それはジョンが(民主党の第39代大統領)ジミー・カーターを酷評していたからなんです」と語ったとジャム・ショービズが伝えている。

「レーガンとは70年代になにかのスポーツ・イベントで会ったんですよね。もともとレーガンはカリフォルニア大学バークレー校で起きた反戦デモ隊襲撃事件を指揮した人物だったわけですからね、きっとそのことを忘れてたんだろうけど。でも、確かにレーガンへの支持をジョンは口にしていて、それはぼくにはショックでした」
シーマンはさらに続ける。「ジョンが一度、昔から共産主義シンパだったぼくの叔父と猛烈な口喧嘩になったこともありました。ジョンがかつてのラディカリズムをあとにしていたことは明らかでしたよ」

「1979年から80年にかけてのジョンは“イマジン”を書いた頃と較べてまったく違った人になっていましたね。1979年のジョンはそんなかつての自分を振り返っては、その当時のナイーヴさを恥ずかしく思っていたようです」

2011.06.30 RO69(ロッキング・オンのサイト)より


ちょっと古いニュースを引用します。ロッキング・オンは英国の音楽雑誌NMEの記事を翻訳しているようですが、Newsweekの「Was John Lennon Conservative?」という記事の原文もリンクしておきます。

「ジョン・レノンは保守化していたのか?」というタイトルを見るとちょっとギョッとしてしまいますが、”ジョンは自分がアメリカ人だったら絶対に(共和党の)レーガンに投票すると明言”といった発言はジョン一流の皮肉というか、ジョンだったら言いそうな気がしてしまいます。ジョンが実際に保守化していたかは置いておいて”かつてのラディカリズムをあとにしていたことは明らかでした”というのはフレッド・シーマンの言うとおり、というか周知の事実でした。

ジョンの場合元々体制や権力に対して何かしらのケチをつけたがる性格だったのがヨーコに出会うことでラジカル化し反戦平和運動にのめり込んでいきました。「ベッド・イン」や「ウォー・イズ・オヴァー」といったパフォーマンスやもちろん本業である音楽でも『ジョンの魂』からのシングル「人々に勇気を(Power To The People)」(本来は邦題を「人民に力を」とすべきですがね)といった曲のような共闘を呼びかけるような曲が増えていきます。

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(何故にブント?ヨーコに被らされたんですかね)

ジョンのラジカリズムは72年の『サムタイム・イン・NYC』で最高潮に達します。ウーマン・リヴに傾倒した「女は世界の奴隷か!」「シスターズ・オー・シスターズ」、刑務所暴動を歌った「アッティカ・ステート」アイルランド問題を歌った「血まみれの日曜日」「ザ・ラック・オブ・ジ・アイリッシュ」、囚われの身の左翼活動家への共鳴を歌う「アンジェラ」や「ジョン・シンクレア」など何でもあれの状態。こうなってくると本当にジョンは全てに深くコミットしていたのかといいたくなります。ジョン・レノンというイコンに活動家や知識人が寄ってたかり「ジョン、こんな事許せるかい、ひどいだろ歌にしないか?」「あんたが歌えば世界は変わるぜ」と神輿に乗せたんじゃないかと思ってしまうのです。

こうした状況に嫌気がさしたこと、ベトナムからアメリカが撤退したことがあってか『サムタイム~』以降ジョンの歌からラジカルな政治性は消えていきます。ただし「愛と平和」に対する精神を捨てたわけではなく「イマジン」でのドリーマーの世界を発展させたヌートピアなる理想郷を題材としたアルバム『ヌートピア宣言』を発表します。ちなみにこのアルバムが当時中学だった僕がリアル・タイムで聴いたジョンのアルバムでしたが、楽曲の印象よりは荒野に独り立つジョンの後ろの山がヨーコの顔になっているジャケットに言葉に出来ない「畏れ」のようなものを感じたことを思い出します。よく見ると月(太陽?)が二つ、ひょっとして村上春樹はこのジャケにインスパイアされた?ヨーコは「さきがけ」の「教祖」みたいなもんかといらぬ妄想をしてしまいます。

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ヌートピア宣言

アルバムの内容は前作に比べると非常に落ち着いたものなのですが、レコーディング当時のジョンの状態はアメリカ政府からの「パブリック・エナミー」的な扱いに対して精神的に荒れに荒れていたようで酒とドラッグに溺れヨーコともことあるごとに衝突していたようです。耐え切れなくなったヨーコはジョンとの間に冷却期間を置くことを決めジョンをニューヨークから追い出します。ジョンはそこから約2年間LAで「失われた週末」を過ごすこととなります。

リンゴやキース・ムーン、ハリー・ニルソンあたりと放蕩の限りをつくし、呑み屋でトラブルを引き起こしたりしたため「失われた」なんて形容されていますが、こと音楽的にはヨーコから開放されのびのびと活動出来たのか結構実りの多い時期だったと言えます。歌詞の世界はヨーコを失っている悲しみが反映された内省的なものが多いのですがボビー・キースのサックスの参加もありロックン・ロールっぽいギラギラ感が曲により感じられる(「真夜中を突っ走れ」なんてスプリングスティーンみたい)自身のプロデュースによるアルバム『心の壁、愛の橋』の発表やニルソンの『プシーキャット』のプロデュース、エルトン・ジョンがカバーした「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンド」に参加(この曲はエルトンの3枚目の全米1位曲となります)、リンゴの『グッドナイト・ウィーン』にタイトル曲を提供したり、シングル「オンリー・ユー」をプロデュースしたりしています。

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ちなみに『心の壁、愛の橋』と『グッドナイト・ウィーン』は参加メンバーも共通するミュージシャンが多かったり(ジェシ・ディヴィス、クラウス・フォアマン、ハリー・ニルソン、ボビーキーズなど)、ジョンはリンゴのリンゴはジョンアルバムのTVCMで紹介役を務めるなどリンゴとジョンの仲の良さを感じさせてくれます。あとチャック・ベリーから「カム・トゥゲザー」が盗作であると訴えられたことに端を発する『ロックン・ロール』のセッションも『心の壁、愛の橋』のセッションの前後して行われています。「オンリー・ユー」なんて『ロックン・ロール』に入っていてもおかしくないのですが、ジョンのアレンジのほっこり感はやっぱりリンゴのために用意されていたのかなとも思います。

74年11月28日、エルトンが参加した「真夜中を突っ走れ」のが一位になったらコンサートで共演するというエルトンとの約束を守るためNYに戻りマジソン・スクエア・ガーデンのステージに飛び入りしたジョンはその「真夜中を突っ走れ」とエルトンがカバーした「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイヤモンズ」そしてビートルズのデビュー・アルバムから「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」を共演します。

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そしてこの時に楽屋に現れたヨーコとよりを戻し二人での生活を再開し即ヨーコは妊娠しショーンが生まれジョンは主夫として子育てに専念し約5年間公での音楽活動を休止します。僕的にはこの期間こそ「失われた平日」と呼びたくなります。

ところでエルトンのコンサートで何故ビートルズの曲とは言えポールがメインで作曲しリード・ボーカルをとった「アイ・ソー・ハー・スタンディング・ゼア」を歌ったのかずっと不思議で会場にヨーコが来てるのでパーティ会場に現れた女の子に一目惚れするこの歌を選んだのかなぁなんて考えていたのですが、生きていればジョンの70回目の誕生日であった2010年の10月9日にジョンと再開するきっかけを作ってくれたのはポールからの一本の電話だったことを初めて明かしていて、あの曲はジョンからポールへの感謝の気持ちだったのかと納得しました。

納得はしたのですがなんでヨーコはそのことをずーっと公にしなかったのか、何故今頃になって話したのか何か裏があるんじゃないと下衆の勘ぐりをしてしまうのも事実です。ついでに言ってしまうと「失われた週末」の間ジョンの側には元々ヨーコの秘書であった中国系のメイ・パンがずっと付き添っていました。当時のミュージック・ライフでも写真入の小さな記事で「ジョンの新恋人」として紹介されており、ジョンってのは結局エキゾチックな東洋系の女性が好きなんだなぁと思ったりしたものでした。ところが後に発表されたメイ・パンによる「失われた週末」の半分写真集な回顧録によればメイがジョンにくっついたのはヨーコの命によるものだったとのことなのです。はっきりとは書かれていませんがジョンを一人にすれば当然いいよる女性も出てくるはずなので自分のコピーのような東洋系のメイ・パンを側に置き精神的にも肉体的にも満足を与えつつヨーコのことも忘れさせないというヨーコの策略だったのではないかと想像します。あきらかにメイ・パンの人間性を無視した行為のように僕には思えます。かってジョンに「女は世界の奴隷か」と叫ばせた人がやることとは思えません。

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閑話休題。

ニューズウィークの記事でも引用されていますが、死ぬ直前に行われたプレイ・ボーイ誌のロング・インタビューでジョンは反戦運動などの政治的な活動に関わっていったのは「罪の意識」のためだと答えています。物質的にも精神的にも満たされた立場となったことで市井の臣から隔離してしまっているのではないかという罪悪感から当時盛り上がっていた様々な反体制の市民運動に積極的に参加することを直感的に選択してしまっていた。そのことに気がついたジョンは次第に政治的な活動から距離を置き始めます。

you may say I'm a dreamer,
but I'm not the only one
I hope some day you'll join us
And the world will live as one


かって”いつの日にか 君も僕たち仲間になることを望む そして世界はひとつになるんだ”と歌っていたジョンですがインタビューでは”僕たちの夢に加わる”のではなく”自分自身の夢をつくるんだ”と語っています。そして次のように続けます。

It’s quite possible to do anything,
but not if you put it on the leaders and the parking meters.
Don’t expect Carter or Reagan or John Lennon or Yoko Ono or Bob Dylan
or Jesus Christ to come and do it for you.

You have to do it yourself.

リーダーとパーキング・メーターって何のこっちゃなのですが、これは恐らくリーダーって言おうとしたときにビートルズの曲「ラヴリー・リタ」を思い出して、その中で韻を踏んで歌われていたパーキング・メーターと咄嗟に出ちゃったんじゃないでしょうか。それはさておき、カーターやレーガン、ジョン・レノンやヨーコやボブ・ディランやキリストが助けてくれると思うなですからね。これは”本当に大切なことは自分で考えなよ”という事もいいたいのでしょうが、裏の気持ちとしては自分に助けを求めるものや自分を利用するものに相当な嫌気を感じていたというのもあったのではないでしょうか。(カーターやレーガンヤキリストは人を助けるのが商売だから例えとしてはどうよという気もいたしますが・・・)

このジョンの気持ちを端的に現していたのが『ダブル・ファンタジー』の中の「ウォッチング・ザ・ホイールズ」ではないでしょうか。



気でも違ったのか 正気の沙汰じゃない みんな僕に言う
僕を破滅から救うんだと いろんな警告をしてくれる
”僕は大丈夫だ”って言っても 不思議な顔される
不幸だな ゲームに戻れよなだって

生活そっちのけで夢を見てるだけの怠け者 みんな僕に言う
目を覚ますんだと いろんな忠告をしてくれる
”壁に映る影を見てるだけさ 楽しいもんだぜ”って言うと
最高の時代をとりもどせよ パーティをやりたくないか

僕はただ座りこみ 廻るのを眺めている
そうやっているのが好きなんだ
メリー・ゴー・ラウンドにはもう乗りたいとは思わない
廻っているのを眺めるだけ

みんな困り果てた顔で 僕に尋ねてくるけど
僕には何の問題もないし あるのは答えだけ って言うと
頭を振りながら おかしくなっちまったという目で僕を見る
僕は言うのさ 急ぐなよ
ただ ここに座り 時を過ごしてるだけなんだ

僕はただ座りこみ 廻るのを眺めている
そうやっているのが好きなんだ
メリー・ゴー・ラウンドにはもう乗りたいとは思わない
廻っているのを眺めるだけ


こういった心情吐露とともに『ダブル・ファンタジー』にはジョンによる素晴らしいラヴ・ソングが収録されています。ただしそれは多くの人に向けられた大文字の「LOVE&PEACE」のようなメッセージを持ったラヴ・ソングではなく「ウーマン」や「愛するヨーコ」「スターティング・オヴァー」といったヨーコに向けられた愛や「ビューティフル・ボーイ」のような息子ショーンへの愛といった個人的なラヴ・ソングでした。そこにいるのはドリーマーのジョンではなく生身の人間としてのジョンであり、一人の人間として自分の隣にいる人を今一度愛して人生を新たな気持ちをスタートしてごらんというのがジョンが最後に伝えたかったことなんだと、三疊一間の下宿のプレイヤーで酒で身を清めながら繰り返し『ダブル・ファンタジー』を聴きながら僕は理解しましたし、今でもその思いは変わっていません。

だから、ヨーコがあえて無視しているというか、むしろ積極的に加担しているようなジョンのカリスマ化には強い違和感を感じているのです。愛と平和の使者ではなく最高のロックン・ローラーでいいじゃないですか、ねぇジョン。(まぁあくまで個人的な意見ですので鷹揚に)

PS.ローリング・ストーンズ誌が選んだ「100人の偉大なシンガー」というのがありますが、1位はアレサ・フランクリン、2位はレイ・チャールズ、3位エルヴィス・プレスリー、4位がサム・クックそして第5位にジョン・レノンが選ばれています(ちなみにポールは11位)。白人では第2位”やっぱエルヴィスにはかなわねぇよ”ジョンの呟きが聞こえそうです。

John Lennon - I'm Losing You - with Cheap Trick


こういう歌での感情の込め方ってのはエルヴィス以上だと思います。

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我が道を徃く

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前日のジョンのエントリについてnyaromeさんから貰ったコメの中にディランのことが書かれていたのを読みながら思ったことです。

3.11後に斉藤和義が自身のヒット・ソングを「みんな嘘だった」と替え歌にして東電と政府を批判した時に「よくやった、これぞロックだ」みたいな賛同のコメがネットで多々見受けられました。”あぁ、いまだにロック=反体制みたいな幻想が残ってんだな”と半ば感動してしまいました。で、ジョンのことを書きながら、そういえば「ロック=反体制」みたいなことを思うようになったのはジョン・レノンのせいかも知れないな、と思ったのでした。

勿論、ジョンの前から「ロック=反体制」、と書くとすごい政治性を感じてしまうので「既成の価値観をぶち壊す」みたいな意味だと思ってください、を体現していた人やバンドはいたのでしょうけど、ジョンが世間一般にその思想(?)を流布する最大の広告塔として機能していたんじゃないでしょうか。



でもちょっと待てよジョンに歌詞の重要性を教えたのはボブ・ディランの音楽だし、ディランと言えば「風に吹かれて」だの「戦争の親玉」だの「激しい雨が降る」といった反戦歌を歌っていたじゃないか。やっぱディランがルーツなのか?

いまやジョンの代名詞ともなっている「LOVE&PEACE」も元を正せばディランなのか?なんて思いながらディランの中にそういう歌ってあったっけと思い返してみたのですが・・・多分ないですね。

そもそもディランが反戦歌を歌っていたのも『時代は変わる』くらいまでのことでほんの短期間しかもフォーク時代に限られたりします。ロックに転向してからはどうなのか?

60年代後半の『サージェント』をはじめとして「既成の価値観をぶち壊す」アルバムが次々と登場する中でディランはどんなアルバムを出していたかというと

1967年 ジョン・ウェズリー・ハーディング
1969年 ナッシュヴィル・スカイライン
1970年 セルフ・ポートレイト
1970年 新しい夜明け

「ブロンド・オン・ブロンド」の後にバイク事故をおこし一時期引退状態だったこともあるのですが、あまりに地味ですよね。ルーツ・ミュージックなんていう概念が出来たあとで「ジョン・ウェズリー・ハーディング」あたりはそのルーツのような位置づけをされますが、当時は「なんじゃこりゃ」だったんじゃないでしょうか。

深読みをするならば「既成の価値観をブチ壊す」というロックの既成概念をぶち壊そうとしたんじゃないかと。ディランだったらやりそうじゃないですか。まさに我が道を徃くです。

Bob Dylan / Girl From The North Country [with Johnny Cash] (1969)


ジョン・レノンはテープの回転を変えるなどしてとにかく自分の声を変えたがったようですが、『ナッシュビル・スカイライン』でのディランはそれまでのしわがれ声を捨て”禁煙したから変わった”という澄んだ声で歌っています。この声がディラン本来の声なのかそれともしわがれ声か聴くものを煙にまいてくれます。ちなみに21世紀に入ってからはしわがれ声ではなくゲロゲロ声に変えています。どうにもディランという人はどこまでが本音の人なのか分からないところがあります。

ジョン・レノンという人、実はビートルズでデビューした時にはブライアン・エプスタインによって革ジャンとリーゼンとの悪ガキからスーツにネクタイの中流階級のボンボン・スタイルにされたり、ヨーコと出会ってからは「LOVE&PEACE」の使者にされたりと割とプロデュースされやすい人だったりします。それに比べディランは今では有名ですがデビュー時から、プレスリーに憧れるロックンローラーだった(ジョンと同じですね)のを、名声を得るために当時もっともヒップだったフォークを歌ってデビューし、ビートルズが大売れしロックンロールが復権すると、アコギからエレキ・ギターに持ち替えロックに転向(本当は回帰)するなど自分で自分をプロデュースしています。だからジョンの人となりはある程度想像つくのですがディランは今持って分からないところの多い人です。その意味ではロック界でディランほど興味の尽きない人はいないかもしれません。

って、何を書こうとしてたんだっけ、皆さんディランをもっと聴きましょう! アレッ(笑)

Bob Dylan / If Not For You


PS. そうそう、サマー・オブ・ラヴの時期に限らず必ずしも時代に同調した音楽を作って来なかったからディランの音楽は逆説的にいつまで経っても遺物にはならないんだと思います。


ジョン・ウェズリー・ハーディング/ボブ・ディラン

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ナッシュヴィル・スカイライン/ボブ・ディラン

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セルフ・ポートレイト/ボブ・ディラン

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1966年12月13日のスマイル

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1966年12月13日(火) スマイル・セッション36/[「英雄と悪漢」セッション5
コロムビア・スタジオ Ast カリフォルニア州ロサンゼルス(7:00ー夜中の12時)


You´re welcome


ビーチ・ボーイズ全員が集まって『スマイル』の核となる曲「英雄と悪漢」のヴォーカル・セッションが行われる。この日のセッションで「ユア・ウェルカム」も生まれている。

「グッド・ヴァイブレーション」が全米1位となっていたこともあり、ブライアンは次にどんなすごい曲を用意しているんだろうとメンバーは皆期待感がいっぱいでセッションについて楽観的に考えていたようですね。ドラッグをやりながら和気あいあいとしたセッションがこの時期はまだ行われていたようです。

Heroes & Villains A Capella - Beached Boys

悪漢くん率いるビーチ・ボーイズ(?)、何ともこじんまりとした場所(公民館?)でやってますね。

スタジオでのひとコマ

マイク「誰か俺を興奮させてくれ~」
カール「誰かマイクにお金の袋を持っていってやれよ」


いうわよねー(byはるな愛) ふとっちょカールも



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やさしく奪って

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洋楽ネタが続いたので久々にアイドルのネタで。
以前にもちらっと書きましたが某所のTSUTAYAのバーゲン・コーナーに再び行ってきました。前回めぼしいところはほとんど買ったつもりだったのですが、やっぱり見落としはあるものですね。今回も25枚近く買ってしまいました。なにせ8割引きですので。

その中でよかったのがコレです↓。

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Hotwax presents Girls,It ain’t easy 1970’s

70年代のビクターのアイドル音源から編集されたコンピなのですが監修が高護さんなのですばらしい選曲になっています。知らない曲が7割ほどはあるのですが、とりあえずはピンクレディーの「波乗りパイレール(USA吹込み)」が入っているだけでも買いでした。この曲アナログ・シングルそれも中古しか持ってなかったので。

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ご存知の方もいるかも知れませんが、このシングルA面B面とも「波乗りパイレーツ」が収録されています。A面は皆様も聞きなじんだバージョンなのですがB面はアメリカで録音されたバージョンが入っていてなんとバックはビーチボーイズのメンバーが参加というものでBB5ファン必携の楽曲なのです。この曲については以前アップしたことがあるので良ければご覧ください(→「シング・シング・シングルズ ピンクレディー/波乗りパイレーツ」)

その一曲が目当てで買ったのですがCDをプレイヤーに入れ1曲目のシェリーの「やさしく奪って」のイントロが流れ出した瞬間にノックアウトされました。まぁ聴いてみてくださいこのカッコよさ。

$鳥肌音楽 Chicken Skin Music-

好きならすぐ取りに来て
カモン カモン
私のこと奪ってよ
カモン カモン
こわがるふりしても
心は反対よ
お願いよ わかってよ
ほかの人にあげていいの
はじめての喜びを
見かけだけじゃわからない
アハーン アハーン
女の子は誰だって
ハハーン ハハーン
その時待っている
ひそかに待っている

私のこと欲しいなら
カモン カモン
何も聞かずに奪ってよ
カモン カモン
逃げたら追いかけて
やさしく抱きしめて
男なら 出来るでしょ
固いままのつぼみだけど
開く日を待ってるの
いくじがないあなたなら
アハーン アハーン
きらいよもう知らないわ
ハハーン ハハーン
その時待っている
私は待っている
その時待っている
私は待っている
 作詞:山上路夫 作曲:馬飼野康二 編曲:馬飼野康二 1974年12月

ライナーによればシェリーの楽曲はほとんど馬飼野康二さんが書いていたらしいのですが、ハーフのシェリーが素材ということもあってかお得意のロック・ティストが全開という感じです。シェリーもけっこう歌うまかったんですね。それにしても山上路夫さんによる歌詞はすごいですね。シェリーは当時16歳か17歳くらいなんですけど「お願いよわかってよ ほかの人にあげていいの はじめての喜びを」とか「男なら 出来るでしょ 固いままのつぼみだけど 開く日を待ってるの」とかこういう詞今じゃ秋元康でも書かないんじゃないでしょうか。百恵ちゃんの初期の曲もそうですが、なんというか男から見た勝手な乙女にたいする妄想みたいなものを感じます。ひょっとしたらR&Bなんかよりも卑猥かもね。

このアルバム他にも「おぉ」という曲がありますので、機会があればまた紹介したいと思います。

PS タイトルはロバータ・フラックのパロディか(笑)



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1966年12月15日のスマイル

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1966年12月15日(木) スマイル・セッション37
コロムビア・スタジオ Ast カリフォルニア州ロサンゼルス(7:00ー10:00pm)


10月6日にブライアン・ウィルソンのリード・ヴォーカルを録音してあった「ワンダフル」にビーチ・ボーイズによるバック・ヴォーカルの録音とブライアンによる「サーフス・アップ」のヴォーカル・セッションが行われています。



「ワンダフル」は当初マイク・ラヴの”C’mon pretty baby won't you rock with me Henry"というヴォーカルが録音されたが、シンプルにリフレインする”Mama mama mama mama mama mama mama"という歌詞に変更されている。

「ワンダフル」は『スマイル』セッションのごく初期から録音されていたが、ブライアンはなかなかイメージを固定できなかったようだ。最終的に『スマイリー・スマイル』に収録されるが当初のハープシコードがフィーチャーされたものとはイメージが大きく変わってしまっている。



「サーフズ・アップ」では11月8日に完成していたバック・トラックにブライアンのヴォーカルとピアノをオーバー・ダブしている。



この日、プロヂューサーのデヴィット・オッペンハイムによりCBSテレビのニュース・ドキュメンタリー「インサイド・ポップ:ロック・レボルーション」で使用するためビーチボーイズの録音に取り組む姿の撮影が行われている。

最初「ワンダフル」に取り組むビーチ・ボーイズを撮るがうまくいかず、メンバーが帰った後ブライアンがひとりピアノに向い「サーフズ・アップ」を歌うシーンが撮影される。この時の演奏はアルバム『サーフズ・アップ』のレコーディングの際にリサイクルされている。映像についてはオッペンハイムが気に入らずあらためてローレル・ウェイのブライアンの自宅で撮影されることとなる。

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UP ON THE ROOF

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Jean-Luc Godard filmed the band on a rooftop in Midtown Manhattan (December 7, 1968)


いやぁ全然知りませんでした、ビートルズのルーフトップ・コンサートに元ネタがあったとは。マンハッタンのビルの上でゲリラ・ライヴを行なったのは見てのお分かりの通りジェファーソン・エアプレインで撮影をしたのはなんとゴダールということのようです。68年のアメリカにおける変革の様子を「One A.M.(American Movie)」というドキュメンタリーに撮ろうと考えていたようですが結局未完に終わったようです。

しかしこの未完の映画を「レット・イット・ビー」の監督マイケル・リンゼイ=ホッグもしくはポール・マッカトニーが目にして映画のクライマックス・シーンでのルーフトップ・コンサートを考えついたのではないかという事のようです。確かに隣のビルから眺める一般人の姿やライヴを止めようとする警官の姿など類似点が強く感じられます。

そもそも警官の出てくるシーンはヤラセではないかという憶測が昔から言われているのですが、ジェファーソンのフィルムを参考にしたのだとしたら「ヤラセ」という可能性も大きいように思われます。

Beatles Rooftop concert (January 30,1969)


ジェファーソンのフィルムについては中山康樹さんの「ビートルズとボブ・ディラン」という新書で知ったのですが、二つのフィルムの関連は一目瞭然と思われるのですが、そのことに触れた記事なんかが少ないのは何故なんでしょね。ビートルズは神聖にして侵すべからずなのか・・・

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オーマイガ なんてはしたない グレースったら


ビートルズとボブ・ディラン (光文社新書)/中山康樹

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1966年12月16日(金)のスマイル

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1966年12月16日(金) スマイル・セッション38
コロムビア・スタジオ Ast カリフォルニア州ロサンゼルス


ブライアンによる「ユア・ウェルカム」のヴォーカル・セッションが行われる。

8月3日からスタートした『スマイル』セッションであるが、この時点で未だ完成した楽曲はほとんど無しの状態。当初キャピトルが告知した1967年1月1日の発売に間に合わせることは無理であることをブライアンはA&Rのカール・エンゲマンに伝える。この時に希望的観測として1月15日位にはメドが立ちそうなことと収録予定の曲名を書いたメモがエンゲマンに渡されることとなります。ブラインアとしてはまさか何時出来上がるか分からないとは言えないし、せめてもの申し訳として渡されたメモだったのであろうが、キャピトルは発売延期の告知に「3月中には発売予定」の文字を入れます。さらに渡されたメモを元に収録曲まで印刷した試し刷りのジャケットを作成してしまいます。

鳥肌音楽 Chicken Skin Music

「ドゥ・ユー・ライク・ワームス」「ウィンド・チャイムス」「英雄と悪漢」「サーフズ・アップ」「グッド・ヴァイブレーション」「キャビネッセンス」「ワンダフル」「アイム・イン・グレイト・シェイブ」「チャイルド・イズ・ファーザー・オブ・ザ・マン」「ジ・エレメンツ」「ベガ・テーブルス」「オールド・マスター・ペインター」の12曲。曲順は未定と断りをいれたがキャピトルはメモの順番のままの曲順で裏ジャケを印刷します。そして表にはロック界で最も有名になる幻のレコード・ショップのイラストがフランク・ホームズによって描かれます。この試し刷りのおかげで後年ファンは様々な憶測を抱き希望や失望を味わうことになります。

リストを見るとオープニング・ナンバーに決めていた「アワ・プレイヤー」を書き忘れています。ブライアンもキャピトルのプレッシャーにちょっと動揺していたことが伺えます。






$鳥肌音楽 Chicken Skin Music

立派な看板を掲げオープンしたものの店長はどこかへ雲がくれし、雑草や潅木が生え放題。いつしか朽ち果て看板も落ちて・・・・。なかなかブラック・ジョークのきいたジャケですね。

1966年12月17日(土)のスマイル

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前日の『スマイル』発売延期の決定による焦りもあったのか、この日からコロムビア・スタジオのスタジオAに置いてブライアンは『スマイル』のために録音したテープの編集作業を開始します。一日の作業を終え自宅に帰ったブライアンを待ち受けていたのは前々日失敗に終わったTVショウのための撮影に再チャレンジをします。燭台を立てたピアノの前に座ったブライアンが歌う姿を3台のカメラで一発撮りを行い、今回はブライアンもプロデューサーのオッペンハインムも満足の行くパフォーマンスを記録することができました。

Surf's Up for TV Show "Inside Pop"


このパフォーマンスは1967年4月25日の22時~11時にCBSネットワーク・ニュースの特別番組「インサイド・ポップ:ザ・ロック・レボルーション」の一部として全国で放映されます。

実際のTVで放映されたヴァージョンはコチラ

僕もそうですが、恐らく日本のビーチ・ボーイズ・ファンの多くはこのビデオを1985年に公開されビデオ・LDとして発売されたドキュメンタリー映画「アン・アメリカン・バンド」で初めて目にしました。こんなレアなすごい映像があったのかと座り小便(by志ん生)しそうになりましたが、アメリカでは全国放映されていたのかと思うと、日本人が考えるBB5とアメリカ人にとってのBB5っていうのはやっぱりかなり違うんだろうなぁとあらためて思ってしまいます。番組のホストでもあったバーンスタインも絶賛した「サーフス・アップ」のパフォーマンスを見たら発売延期を繰り返している『スマイル』へのBB5ファンの期待は否が応にも高まっていたんだろうなぁと思うのですが、日本の状況はどうだったんでしょうね。ほとんど情報が入っていなかったんじゃないでしょうかと思います。


PS.
「インサイド・ポップ」ではブライアンだけでなくフランク・ザッパ、バーズ、グラハム・ナッシュ、ハーマンズ・ハーミッツ、キャンド・ヒート、ティム・バックリーなどのパフォーマンスやインタビューが紹介されていたようです。いくつかの放送局で放送禁止となっていた若き(15歳?)ジャニス・イアンの「ソサエティズ・チャイルド」のパフォーマンスも紹介され、放映後大きな反響を呼んだようです。


Society's Child / Janis on the Smothers Brothers show.

あら 見てたのねぇ

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一ヶ月半ほど前なのですが「他人の誤植は蜜の味」というタイトルのエントリを書きました。今日その看板の下を通る機会があったのですが、といっても”泡の国”に行ったわけではないですよ念の為、ふと看板を見ると何かが以前と違う・・・・。

なんと誤植が訂正されていました。蜜の綴りを「HONY」と間違っていたのがちゃんと「HONEY」という正しい綴りになっています。「HONY」を修正したというよりは看板ごと変えているように思われます。

$鳥肌音楽 Chicken Skin Music → $鳥肌音楽 Chicken Skin Music

ってことはひょっとしてこのお店の関係者の方が拙ブログを見られたということなのでしょうか。いやぁネットというのはすごいですね、誰が見てくれているのか分かりません。やっぱ、うかつなことは書けないですね。

都はるみ /あら見てたのね

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1966年12月18日(日)のスマイル

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この日も前日にひきつづきコロムビア・スタジオのスタジオAに閉じこもって一日編集作業にあけくれたようです。
「プレイヤー」「キャビネッセンス」「ワンダフル」「チャイルド・イズ・ファザー・オブ・ザ・マン」「ドゥ・ユー・ライク・ウォーム」が俎上に乗せられました。

Do you like warm


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クリスマス・アルバムを作ろう 2011

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年末恒例の「クリスマス・アルバムを作ろう」なのですが、今年は例年に比べほとんど新しいクリスマス・アルバムを買っていないのと(キャロル・キングのやつが気になりまする)何やかやと忙しかったので、ちょっと手抜きですが、いつもと違うパターンで作ってみました。

収録曲は1曲、といっても40分弱の長尺ものです。今年はビーチ・ボーイズのデビュー周年記念ということでビーチボーイズおよびブライアン・ウィルソンのクリスマス・アルバム+遂に発売となった『スマイル』からの断片をつなぎ合わせたノンストップの組曲(!?)を作ってみました。

どんなものかというと、抜粋のファイルを作ってみましたのでお暇な方はぜひご試聴を。

Except From Smiley Christmas Suite


ナイアガラーの皆様へ業務連絡 ラジオ・デイズ鼎談

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$鳥肌音楽 Chicken Skin Music

18日のサンデイ・ソング・ブックで達郎から2012年は新春放談はお休みというショッキングな業務連絡があり、今年の正月は一体何を楽しみにすれば良いのか途方にくれていましたが、(こちらも恒例になりつつある)ラジオ・デイズでの大瀧詠一・内田樹・平川克美という三氏の鼎談の方は今年も行われたようで、しかもラジオ・デイズから届いたメルマガによると、今年は大瀧師匠の意向で無料でダウンロードできるらしいのです。内田樹さんのつっこみも楽しみなところです。

拙ブログを読まれているナイアガラーの方でご存知ない方は忘れずラジオ・デイズをチェックしてみてください。

ラジオ・デイズ→コチラからどうぞ

大瀧詠一・内田樹・平川克美「大瀧詠一的 2011」(1/3)
http://www.radiodays.jp/item/show/200854
年末恒例の夢のナイアガラー鼎談。年末年始の3週連続でお届けします。


ラジオデイズ恒例の『大瀧詠一的 2011』です。
恒例の山下達郎さんとの『新春放談』が今年は自粛らしいということもあって、全国のナイアガラー諸君にとってはこの番組が今年唯一の放送となるようです。しかも、大瀧師匠からのご提案もあって、なんと、本年よりこの番組は無料配信されることになりました。「いいものはパブリック・ドメインにしかない」と仰っていた師匠の言葉が身に染みます。大瀧詠一という人物の魅力が充填された、すごい鼎談となりましたので、是非ともお聴きください。


第一回目の配信は12月23日の予定のようです。

師匠からのクリスマス・プレゼント兼お年玉、ありがたく拝聴させていただきたいと思います。

快盗ルビイ


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1966年12月19日(月) 21日(水) 22日(木)のスマイル

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ちょっとサボって日にちがずれてしまいましたが・・・

1966年12月19日(月) スマイル・セッション39/英雄と悪漢・セッション6
ウェスタン・レコーディング・スタジオ 3st、カリフォルニア州ハリウッド (1:00ー6:00PM)


チャック・ブリッツをエンジニアに迎え「英雄と悪漢」の新しいインストゥルメンタルのトラッキング・セッションが行われる。「ダイアリー」によればキャピトルからニュー・シングルの要請があって再びスタジオ入りしたのではないかと記されています。

確かに見事に全米1位を獲得したシングル「グッドヴァイブレーション」が発売されたのは10月10日のことですから、この時点ですでに2ヶ月以上前になります。キャピトルとの契約では年間にアルバム3枚、シングル5枚(でしたっけ)を発表するということになっていました。ところが66年に関して言えばアルバムは『ペット・サウンズ』と編集盤『ベスト・オブ・ビーチ・ボーイズ』の2枚だけ、シングルもブライアン名義の「キャロライン・ノー」を含めて4枚ということで契約を満たしていません。ベスト・アルバムは『ペット・サウンズ』が売れないだろうと判断したキャピトルが勝手に編集したものなので実施66年ビーチ・ボーイズはアルバム1枚しか作っていません。アルバムに関してはキャピトルも諦めたのかすでに発売延期を発表しましたが、せめてシングルくらい約束を守れよなとプレッシャーをかけたということは十分に想像できます。

12月から67年3月までブライアンは「英雄と悪漢」のセッションを20回以上繰り返しますが、結局まとめきれず最終的にシングルが発表されるのは67年7月31日となってしまいます。待ちに待たされていたキャピトルは5月2日からスタートする英国ツアーに合せて4月28日に勝手にシングル「あの娘にキッスThen I Kissed Her/マウンテン・オブ・ラヴMountain Of Love」を発表してしまいます。

The Beach Boys - Then I kissed Her ( stereo mix )


英国チャートでは4位という好記録は残すのですが、ここでまたブライアンのプライドはズタズタに引き裂かれます。「あの娘にキッス」は65年7月発売のアルバム『サマー・デイズ』に収録されていたナンバーです。ブライアン流のスペクター・カバーが聴ける素晴らしいナンバーではあるのですが、いかんせんその時点でブライアンがスタジオで録音していたサウンドとはあまりにも違いすぎる。結局、キャピトルというのはブライアンがやろうとしていることを全く理解してくれていない事がまたもや証明されてしまったというわけです。

5月7日に開かれたNME(ニュー・ミュージカル・エクスプレス)誌のポール・ウィナーズ・コンサートに出演したビーチ・ボーイズですが、インタビューでのブルース・ジョンストンの言葉が彼らの怒りを表します。

”本当にひどい話だよ。あのレコードは今僕らがやっていることを何一つ表現していないし、1年前にやっていたことでさえない。あれは僕らが世界のトップ・ボーカル・グループとしてNME賞を受けた音楽じゃない。『スマイル』に入る新曲のテープがいくつか僕の家にあるけど、聴いたら感動ものさ。アイデアもすべて新しいものばかりなんだ。ブライアンはいつだって素晴らしいアイデアを思いつくからね。”

とはいえスタジオ代ばかりかけて半年以上なんにも無しというキャピトル側の事情も分からないではありませんけど・・・

「英雄と悪漢」にもどります。BB5の宣伝担当デレク・テイラーによればセッションの度に思いつくアイデアにより曲想が変わっていったことを語っています。

”駐車場に停めてあった彼のロールス・ロイスを盗んだ2人組みの男が捕まったと、映画館で呼ばれて聞かされた時のことだった。その後警察署で本物の英雄と悪漢、つまり警察官と泥棒が演じる「英雄と悪漢」のシーンを、静かにうろたえながら見守tった時に、その変化が起こったんだ。この後彼は曲のひとつのセクションを完全に作り直して再レコーディングした。恐らくこの事件から次の一行が生まれたのだろう。「止まれ!お前を逮捕する!」”



参加ミュージシャン:
ハル・ブレイン Dr
ビル・ピットマン G
ハロルド・ベンコ ジェシ・アーリック アーマンド・カプロフ レイモンド・ケリー ジョセフ・サクソン Vc
アーノルド・ベルニック ウィリアム・クラッシュ レオナルド・マラスキー シドニー・シャープ エメット・サージャント Vn
ノーマン・ボトニック ジョセフ・ディフィオア ハリー・ハイアムズ アレクサンダー・ニューマン VIa  
(Vc=チェロ Vn=ヴァイオリン Via=ヴィオラ)


1966年12月21日(水) スマイル・セッション40
コロムビア・スタジオ Ast カリフォルニア州ロサンゼルス (6:00-9:00PM)


10月18日に編集作業を行なった「ドゥ・ユー・ライク・ウォーム」のトラッキング・テープにビーチ・ボーイズのヴォーカルをオーバ・ダブ。24テイク行われたセッションでは”Piymouth rock roll over"という一行を含むハワイ風のボーカルおよびハワイアン・スタイルのスライド・ギターも加えられた。

$鳥肌音楽 Chicken Skin Music

デニスはカナダ騎馬警察の帽子をかぶり、アルはイギリス警察官のケープでスタジオ入、まだまだ余裕が感じられますね。

1966年12月22日(木) スマイル・セッション41/英雄と悪漢・セッション7
ウェスタン・レコーダーズ・スタジオ 3st、カリフォルニア州ハリウッド


「英雄と悪漢」へのヴォーカル挿入とオーバー・ダブが行われる。ケロケロと蛙の鳴き声を真似た声を出すセッションが行われた。やっぱ余裕があるのか?




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ナイアガラーの皆様へ業務連絡 大瀧詠一的1/3 アップされました。

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昨日お知らせした大瀧詠一師匠を中心にしたラジオ・デイズの鼎談の第一回がアップされました。

$鳥肌音楽 Chicken Skin Music

無料ダウンロードはこちらから → ◎大瀧詠一的2011 (ラジオ・デイズを初めてご利用の方は会員登録が要ります。)

早速聞かせていただきました。3.21のNHK-FMの「大瀧詠一三昧」に本人が出演しなかった件について、3.11の直後ということで『NIAGARA BOOK』や『ロンバケ30周年盤』のプロモーションも自粛している時なので延期できないかという打診をしたがNHKが延期は無理で予定通り放送を行うと言われため、本人としては”2時間ぐらいしゃべってもいい”と思っていたが、3.21だったらやめ”ということだったみたいです。元春レデイオ・ショウや赤坂さんの番組は3.11前の録音なので本人たちに任せたが「三昧」は生だったのでということだったそうです。そういうことであれば延期にしてもらったほうが良かったかなぁと思います。

第一回は音楽の話はほとんどありません。ほぼ3.11の話に終始します。岩手出身ということもあり大瀧さんにとっては他人事ではない出来事でもあり、やはり一番に語りたかったことなのだと思われます。大瀧師匠らしい切り口ではあるのですが、内容的にこういったネット・ラジオのような形態でなければ言えないことのような気がします。ひょっとするとその辺りが全国ネットのSunday Song Bookの「新春放談」をお休みした理由なのかもしれません。笑って音楽談義をする気分じゃないのかも。

たとえどのような思いで語ろうと、言葉じりを捉え、揚げ足を取りバッシングされてしまうでしょうから。魑魅魍魎というのは実は人の心の中に棲みついているのですね・・・。

私の天竺(My BlueHeaven)/大滝詠一


無料ダウンロードは12月31日までのようですので、今すぐダウンロードだけしてお暇な時にゆっくりお聞きすることをお薦めいたします。

RADIO STATION "BROKEN ARROW"

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もう日付が変わろうとしていますが、今日は天皇誕生日ということで思い出したのがこの曲

The Emperor of Wyoming / Neil Young


学生の頃、将来の夢としてレコード店をやって、店の片隅では小っちゃなラジオ局をなんていう妄想をしていたことがあります。お店の屋号と局名は「Broken Arrow」そしてラジオ局のジングルとして「ワイオミングの皇帝」を使おうなんてことも考えていました。ほっこりするんですよねこの曲を聴くと。ジャック・ニッチェのアレンジだと思うのですが、いいんですよねストリングスの感じが。

ニールの1stの中ではこの曲に続く「ローナー」も好きですが、リリカルなこの歌をよく聴きました。

Here We Are in the Years


ロハスな歌だったんですね、今頃気づきました。

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